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だんなさんはINDIAN

日本(国立)大好きのIndianであるダンナサンとの日々をつらつらと。


10年ほど前、当時勤めていた会社を辞める決心をし、
 
担当役員の問題を社長にメールしたことがあった。

「私は辞めるから言うけど、あれじゃ困るよと」。

当時システム部門の次長職で、同じ職位の男性がよく

その担当役員に苛められていた。

彼は男気があって、結局苛めもものともせず立ち向かうが、

傍で聞いてて、みーんな暗く、不安になる。1日中のどなり声。

自信のなさを大声で誤魔化し、「説明しろ」というが

何度説明しても理解できない、のに「お前に言ってることわからん」。

要は器でない人だった。

後日、私も転職し、男気くんも転職し、

役員は、出社できない状態になって辞めたそうだ。可哀そうだが、

その方が役員にとっても良かったのかもしれない。わからない。

しかし、ま、一度文章にして出すとこに出したものというのは

ひっこめることができないものだ。

私が社長に出したメールで退職が決定したのは当然のことながら、

役員への糾弾とその行為は消せない。それが正しかろうと、

正しくなかろうと、だ。

ヒトは人を傷つけながら生きている。

この悲しくもシンプルな真実。

少しでも相手のことを思えば、時間をおけば、クールダウンすれば、

と思っても後の祭り。

ここ数日芸能人の方の発言が話題となっている。

その方の個人ブログも読んだ、が、ふーむ繋がりが‥なぞ。

というのが正直なところ。彼が苦しんだのも、苦しんでいるのもわかった。

励ましたくなるような心の叫びだった。

でも、その発言で家族や周囲が困るのも事実。

果たしてその発言は必要だったのだろうか?

内容よりもそうした側面が気になっていた。

そうしたら茂木健一郎さんも関連で発言。

いわゆる炎上になり、相当お疲れの様子が見えた。

可哀そうに。

言葉は残る。誰も見てないと思っても残る。

だからこそ、慎重にせねば。

言ったら後には引けないのだから。




ダンナサンは6月11日に無事日本に戻ってきた。

3月17日からだからざっと3カ月か。

海の男かきみは‥。

それにしても忙しい。一人暮らしの気楽さが

いまとなっては懐かしい。

ご飯作って、洗濯して、仕事して、トラブル対処して、

バタバタバタバタバタ

ほんとうに菅さんどこじゃないよ(笑)

ダンナサンの友人の園芸家Davidが家の小さな庭に

素敵なプランターをつくってくれた。

本来なら、その写真をアップするのが正しいブログだろうが、

気がつけば、とっぷり日が暮れて写真どこじゃない。

ふーむ。

いい加減落ち着きを取り戻さねば。




昨日は暑かった。夕方家を出たのに、日傘なしで歩けない。

遅刻してるしな、大学なんか久しぶりすぎて入るのはずかしいな。

でもいいや、入れなくても、興味ある何かを学びにいく、という行動を

取ってみよう。なんて心の中で自分を励まして、道に迷いながら教室へ。


国際日本学合同演習公開講座・島田雅彦(小説家)

「私を語るということ」

http://kokusainihongaku.blog129.fc2.com/blog-entry-34.html

21日土曜日の16::50~20:00 @法政大学(大学院棟)

1時間遅刻だったので、最初のお話は聴けず、途中からメモを取る。

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日本人は自然に沿う、自然を信仰しやかった、ナチュラリストの日本人の自我。

しかし今度の震災は単なる災害ではない。

コントロールできる過信したものがコントロールできなかった人災。

さんざ勝手をしながら、自然にいたぶられながらも自然を愛し、依存してきた

ナチュラリスト日本の近代的自我が危機に直面している。

未来の自我の有り方を、それも日本が発信する有り方をどう構築していくかに

思いをはせている。

(静かなる超前のめりだわと感じつつ‥)

identity とは対人的な看板で便宜的なもの

original personality は素の自分

alter personality は辛い自分からの逃避、生贄として捧げる私

それらが統合し、回路をもって変化できるから狂者になっていない。

作家、語り手、主人公、場面場面でそれぞれに憑依して書いていく。

物語を豊かにするために、その人の過去や経験、記憶、トラウマさえ

憑依して造形していくーそこが技術。

alter personalityのリアリティを競う、

そこにフィクションライターの栄光がある。

小説家は誰でもなれる。。。。
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謙遜気味に痛烈な皮肉だなーと思いつつ、つぶやいてたあの言葉は

そういう意味なんだ、と所々ひとりごちる。

レジメに沿いつつ、目の前の学生やファンの表情を

見ながら話題を変えていく。

そこもう少し話してほしいのに、というところで、

聴衆が理解できる話題に切り替えていく。

この人は小説家?ボランティア?教育者?落語家?

ま、全部そうなんだろうな。

終了後の旺盛な質問は、1つ位はマシだったが、あとは無駄。

もっと魅力を引き出すなら、、、と勝手に考えながら

校舎を後にする。

それにしても、学ぶという場はなんと贅沢なんだろう。

お金を払って学ぶ。その後、お金を得るために働く。

それがまた逆転してもいいよねーと思う。

ビジネススクールなども増えてきてるけど、

もっと教育ビジネスって多様化すれば、いい市場になる気がする。

ジムに行くかわりに大学に行って講義を聴く。別に片ひじはらずに。

そんな風になったら楽しいのにな。

社会に出てから、仕組みを知ってから、現場を味わってから、

理論と理論の存在する意味がわかることもある。

それで答えをその場で出さなくていい、

思索するきっかけづくりで。