【東京での暮らし】

母子家庭で

4人兄妹の3番目。

狭い2Kボロボロの臭いアパートで

プライベートスペースなく、めちゃくちゃ貧乏でしたが幸せに暮らしていました。

(トイレはギリギリ共同ではないよニヤ⭐︎)


アパートは中学校のとても近くて、下校の時同級生からメチャクチャボロくて、周辺が臭い狭い我が家に下校通路の為毎日家を見られてめちゃくちゃ恥ずかしかった…。

(今ではとても誇らしいが…)


母は昼夜働きに出ていたので、兄妹で協力して

順調に暮らしていきました。

兄は高校辞めて家計を支える為にホストをやっていました。


僕はというとこんな状況でしたが毎日

楽しく過ごしていました。




【人生を変える大きな事故(1度目の死)】

高校2年のある日、

宅配便アルバイトの途中、

僕のバイクと車との正面衝突交通事故に遭ってしまい緊急治療室へ。


17歳の運命を変える出来事でした。

(何が原因だか今でもはっきりわかっていません。)



意識不明の重体。緊急治療室へ

30%死 30%植物状態 30%後遺症生活

10%正常 と家族は医師から伝えられていたそうで、どう言う結果でも心の準備しておいて下さいと医師から伝えられてたそうです。



4日ほど目覚めず生死を彷徨いました。



奇跡的に助かりました。(医師からは奇跡的な回復だと伝えられました)

起きると視力がかなり低下し視界はボヤけ白黒に見えており、

歩く事が出来ずおまけに記憶喪失になっていました。





【目覚めたあと】

数日経ち病室で目覚めた時、目の前にいる女性(当時の彼女あきちゃん)を自分の母親だと勘違いしてしまいました。(こんな若々しい母親いない笑)

なぜか涙がとまりませんでした。


頭は正常ではない状態で、もちろん過去の記憶がありません。

当時はかなり起伏が激しい人格へ…



一体自分は誰なのか?

なんで病院にいるのか?

家族だと証言してるこの人達誰なのか?

何も分からない状態でした。


家に帰っても初めて来た家のように感じ、

ストレスで一杯でした。


その後半年ほど車椅子生活になり、

眼はかすんだ状態。(具体的には

一つのものが二重三重に見えていた。)

リハビリは一年ほどかかり、視力と歩行は

生活出来るくらいまで回復しました。


『高次脳機能障害』 『脳外傷』と診断されました。



高校はその後かなり止められましたが、押し切って車椅子で通いました。

(ほとんどがおぼえていませんが、頑張って

健常者のふりをしていたそうです)

その時は字も書けなく目もしっかり見えなかったけど、そのうち歩けるようになり

自分は正常だと思い込んでいました。

しかし、

どうやら周りはそのような目で見てはいなかったようです。


後から聞いた話、

別人格、頭おかしい、起伏激しい、

落ち着きがない。

1時間座ってられない。など

さまざまな意見がありました。



【医師からの痛告】

高校三年生中頃、もうこれ以上治らないと言われるところまで通院しリハビリをこなしましたが、最終的に医師から、社会に出るのは難しい。と伝えられました。


自分では健常者としてちゃんと直っているつもりでしたが、いろいろな検査結果の数値的に見ての判断かと思います。とても悔しくてやるせなかったです。



ちょうど就職の進路を決める時期でしたので

医師からは

『あなたはこれから先、普通には働けない。だから養護施設などに関わりを持つ所や、その関係の仕事に就いて下さい』と冷たい口調で伝えられました。



記憶障害者で、事故した後3、4年の記憶はほとんどありませんでしたが、今でもその医師から言われた言葉の記憶だけは鮮明に脳裏に焼きついています。


つづく…