「対等な対話」って何だっけ?
昨日のつぶやきの中で、安易に「対等な対話」という言葉を使い、その必要性を書いては見たものの、それってどんな状態なのか、気になったので、ひも解いてみた。
量子力学や神経心理学から哲学的思考に傾倒したデヴィット・ボームの『ダイアローグ』によると、
「対話」とは、勝ち負けの決着をつけようとするディスカッションや取引や交渉とは違い、人々の意識それ自体の理解を目的としたものである。誰もが異なった想定や意見を持っていることを前提として、また個人的な経験や知識から一旦離れて、人々の間を通って流れている意味の流れを共有すること。対話の狙いは、集団の思考プロセスを変えることにある。
プロセス・コンサルテーションを提唱しているエドガー・H・シャインの『人を助けるとはどういうことか』によると、
支援者は、多くの専門家や医師のようにクライアントに対して上位に立つべきではない。有効な支援関係を確立するためには、相手の立場を確保し、様々な事柄を打ち明けられるような状況を作る必要がある。そのために「控えめな問いかけ」から始まる「対話」が求められる。
これらを参考にすると、そもそも本来の「対話」は対等な関係を前提としないと成り立たないようである。だから「対等な対話」という表現を使う必要はなかった わけだ。それでも「対等な対話」という表現を使いたくなったのは、主従関係を持ち込んだ「疑似対話」が少なからずあると感じていたからだと思う。