「その場合の先生は教えるのでなく、そのことを気づかせる役目だと思っています。」という昨日の萩原喜之さんのコメントから、自分の中で次のような対話がめぐっている。

 

実際に課題に気づくこと、人が気づけるように導くことは、なかなか難しい。

 

萩原さんと一緒に会議をしていても、私が全くスルーしてしまうの事柄であっても、萩原さんは課題だと認識して立ち止まる。二人にどんな違いがるのか?

 

何が課題なのか? これを認識するには、それなりの知識や感性が必要なのであって、簡単に誰もが気づくわけではない。

 

「課題」とは何か? 「あるべき姿」もしくは「ビジョン」と「現状」のギャップを「問題」という。その「問題」の中でも解決すべき事柄を「課題」と定義することができでる。

 

「課題」を認識するためには、まず自分の中に「あるべき姿」もしくは「ビジョン」というものがあって、同時に「現状」をきちんと把握し、そのギャップを探索する「問題発見力」が必要である。そして、「問題発見」から全体状況を認識して優先順位も配慮し、解決すべき事柄を選択する「課題設定力」が求められる。

 

ロゴスで考えると「課題」に気づくことは簡単ではない。

 

一方、生命体としてのピュシス(自然)の力を借りて感性で「課題」に気づくアプローチはあり得ると思う。

 

でもね。現代においてはこれが難しくなっていると思う。文明・文化という蓄積された背景の中に現場があって、その中から「課題」は浮かび上がってくるものだから、背景となる文明もしくはその文化の歴史を、感覚的であってもつかんでいないと「課題」を的確にたぐり寄せることはできない。

 

憧れでもある自然人≒未開人の感性は鋭いはずである。アフリカの焼畑農耕民やインドの庶民たちと旅の中で触れて思うのは、彼らは、与えられた所与の環境の中で生き延びるための感性は鋭いが、与えられた所与の環境自体を疑うことに対しては感性が十分に働いていないように思う。

 

すなわち、自然環境を先天的なものとして生き延びる能力を身に着けてきた結果として、人類が後天的に構築した文明・文化に対しても絶対的なものとして疑うことをせず、適応してしまう。だから文明・文化に問題があっても「課題」とは認識しない。

 

この感覚は自分の中にもある。与えられた制度、法律、市場、境遇の中でどうやり繰りするかを何とか考えてきたが、制度、法律、市場、境遇自体を疑うことには長けていない。これは我々が学んできた学校教育の問題でもある。

 

与えられた所与の環境自体に疑義を呈するのは、哲学者や批評家の役割であり、存在価値である。新自由主義にどっぷりつかっている我々に別の視座を提供して、課題に気づかせてくれるのはマルクスの「資本論」であったりする。

 

そんなことで、これからの学び場では、生命体としての感性を削がない自発の教育と同時に、われわれの文明・文化を伝える他発の教育をうまく取り交ぜて、課題の気づきを導くことが求められるのだろう。

 

めぐりめぐって、自発と他発がうまく混ざった学び場として思いつくのは、萩原さんなど師匠と思える多様な人から学ぶことである。以前からこのつぶやきで提唱してきた「多数師匠制」の学びに、再び到達するのであった。