「お茶いれよか?いらない?」と、夫に聞いたら、「判断するのが面倒くさい」と言われました。
判断?そんなたいそうな問題でしょうか。
夫は質問されるのが苦痛みたいです。
「面倒くさい」というのは、どうしていいかわからない、という意味のようです。
「何が食べたい?」と聞かれるのもイヤがります。
答えは、いつも「お惣菜」です。
あのね、お惣菜って、おかずって意味なんだけど・・・
何をするにしても、一応、夫の希望を聞くようにしています。
でも、それがダメみたい。
どっちがいい?なんて選択肢を提示するとパニックです。
「僕に聞かないで」と言われます。
同じ病のご主人を持つ奥様からも、同じような話を聞きました。
難病になって、性格がきつくなり攻撃的になったご主人。
「どうする?」とか「どっちがいい?」なんて聞くと混乱してしまって、余計に攻撃的になるとか。
「どっちがいい?」と聞くのでなく、「これにするね」と言えば、ニコニコして「ありがとう」と言ってくれるとか。
ご主人の取り扱い方がわかって、ずいぶんと穏やかになってくれたそうです。
夫も、そうなんです。
結局、私は、「じゃあ、お茶入れておくから、ノドが乾いたら飲んでね」と、夫の前にお茶を置くのです。
そしたら、夫はお茶を飲むのです。
認知症といっても、色んな種類があります。
夫の場合、知性は保たれています。見当識障害もないです。
進行性核上性麻痺の認知障害は前頭葉性の障害で、アルツハイマーのような物忘れを中心とした認知症とはまた違います。
思考がゆっくりになり、判断力が衰えます。
順番がわからなくなったり、段取りが、うまく出来なくなります。
イヤなことは、ちゃんとイヤと言えます。
でも、選択肢があって、何かを選ぶというのは難しいようです。
自分の意思がわからないこともあるようです。
そういうときは、「面倒くさい」で片づけられてしまいます。
お茶を入れるか入れないかなんて、些細なことは良いですが、
例えば、胃ろう?気管切開?延命処置?をどうするか、
本人に聞いても、判断出来ないと思います。
胃ろうを勧められたとき「胃ろうはイヤ」と言ってました。
でも、誰だって、イヤだと思うんです。
好んで、胃ろうにしたい、なんて人はいませんよね。
胃ろうはイヤ、問題はその先です。
イヤだけど、生きるために受け入れるのか。
胃ろうを拒否して死を選ぶのか。
たぶん、もう、本人には判断出来ません。
最終的には、本人でなく私が決めることになるのでしょう。
でも、夫とは、今までに何度も話をしてきたから、夫の考えはわかってるつもり。
「イヤだけど、死にたくないからやる」のはず。
と、信じているのだけれど、わかってるつもりでわかってなかったら・・・
私が判断する覚悟は出来てるはずなのに、ちょっと怖いです。