お墓。(長文です。) | PSIカウンセリング スタッフ★ブログ

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(ご意見の方は、すべてを読んだ上でお願いします。また注釈は※
で挟んでおり、最後に説明書きを入れてあります。大変長文なので
、読まれる方、ご注意ください。またご感想をぜひお聞かせくださ
い。) 

 先日行った寺社仏閣参り。
 そこでの出来事。

 たまたま行った、それも別の用事で行った神社に陸軍墓地があっ
た。
 それは思っていたより広かった。
 そして寂しい空間だった。
 
 横は公園か学校のグラウンドになっており、子ども達の元気な声
が絶えず響いている。...

 対比するかのように、本当の意味での静けさがそこにあった。

 私は昔から変わった癖があり、お寺に行ってお墓を見るのが好き
な子どもだった。そんな子どもの私の目を特に惹いたのが、大きな
長細い、星のついたお墓。小学校の頃にはそれが太平洋戦争で亡く
なった将兵の方のお墓と知っていた。
 
 そんな見知ったお墓が一つもない陸軍墓地に違和感を覚えた。
 私が知っていたお墓とはいろんな所が違う、小さい、そして崩壊
しかかった数多くのお墓。
 なぜか多くが不自然なほど黒ずんでおり、表層が剥がれているも
のも多数ある。
 崩壊した読めないもの、後世に修復されたであろうもの…。
 でも、全体で見たら「ぼろぼろ」のものが多い、そんな陸軍墓地

 「路傍の石(※①)」という言葉が、ずっと頭に浮かんでいた。

 違和感の理由はすぐに理解できた。
 年代が古いのである。
 私が最初に行ったエリアはすべて明治期。
 大体が「明治二十七年」と旧字体で書いてあった。

 一体、何で亡くなった方かわからない私に、同行していた友人が
教えてくれた。
 「日清戦争の時期ですね…」
 
 私が小さいながら戦争で亡くなられた方のお墓に興味を持った理
由に「どうやって亡くなられたかの記載がある」というものがある

 小さい頃は漢字が読めず、意味もあんまり解らなかったが、年を
重ねるにつれて意味がわかってきた。

 最初に行ったエリア。
 そこには「軍役夫(※②)」という文字が多く、他の方も船頭や
火夫、ドイツ人の方や清の方のお墓もあった。
 そのエリアの全部のお墓を回った。
 荒廃しかかっているそのお墓たちのうち、最近新しいものに改修
されたお墓は一つしかなかった。
 
 次のエリアは西南戦争で亡くなられたかたのお墓が大量にあるエ
リアだった。出身地、どこで亡くなられたか、亡くなられた年まで
、色々な情報が記載されている。もしくはされていただろう。半分
ぐらいは読むことがもうできない。

 その他も回ったが、太平洋戦争で亡くなられた方のお墓は少なか
った。
 病死という文字が多かったことも気になった。

 管理人の方もいるようだが、これだけたくさんのお墓がある上、
公園のようになっており、管理も大変そうだなと感じる。

 私は自分でもよくわからない使命感のようなものから、お墓につ
いている鳥の糞の掃除をしていった。
 お墓が崩れないように慎重に。

 全部を細かく見れたわけではないが、1周した。
 時間にして1時間半程度。
 お墓について、戦病死者について考えさせられた。
 何とも言えない気持ちになり、側に設置されているお地蔵さんに
、いつもより多く賽銭を入れた。 
 お墓の修理の足しに、と思ったからである。

 その場所に来ていた人の大半は、犬を連れている。
 要は犬の散歩だ。
 大きい犬から小さい犬。
 老若男女、さまざまである。いつものコースであるのか、皆足取
りは軽く、そして犬は楽しげである。
 
 
 後半。
 その後、離れた場所にあるお寺へ。
 こちらもたまたま前を通って、同行者が興味を持ち、入る。
 私にとっては予備校時代に訪れた以来、約10年ぶりに訪れた場
所であった。

 そのお寺は、梶井基次郎のお墓がある。
 昔訪れた際の記憶は全くと言っていいほどない。
 もう一度行け、と言われれば確実に迷う程度の記憶。

 教科書に出てきた小説の作者のお墓がある。
 その小説の記憶もおぼろげで、京都のお話で檸檬が出てきたぐら
いの記憶である。
 教科書で見た、梶井基次郎の顔などもちろん覚えておらず、に今
の私ぐらいの年齢の青年が映っていたんではなかったかなという淡
い記憶より、セピア色の背景の方を良く覚えているレベルである。
 

 お寺の中に入る。
 すぐ左手に3つの少し大きいお墓。
 正面には大きいとは言えない本堂件住宅のような建物。
 右手は狭い通路であるが、お墓があるおかげでさらにその通路が
狭くなっている。

 左手のお墓に同行者が興味を持つ。歌舞伎関係の有名な方のお墓
だそうだ。供花もきれいで、手入れもきちんとされている。卒塔婆
に名前が書かれている願主の方も芸能人だそうだ。

 右手から奥の墓地に。
 梶井氏のお墓であろう大きめのお墓が見当たらない。
 そんなに大きくなくむしろ狭いであろう敷地に50程度のお墓が
あるのだが、見当たらない。2人で手分けして探す。
 ようやく見つかる。
 
 他の方のお墓にならび、ごく普通のお墓に「梶井基次郎之墓」と
ある。
 隣も梶井家のお墓。
 最近人が来て掃除をした形跡はなかった。(※③)

 梶井基次郎のお墓だと示すものとしてなのか、ファンが持ってき
たものだろうか、一つのレモンが置いてあった。
 置かれてそれなりの時間が経ったであろう、腐ったレモン。
 腐った部分と黄色の部分の対比が、何ともいえぬ気持ちにさせた


 その日、何百何千というお墓を見た中で、注視させていただいた
お墓を離れる際、手を合わせていた。
 どんな立場、どんな名前、知っている知らないに関わらず、一つ
のことだけ考えて。
 安らかにお眠り下さいと。

 その日、父と会った。
 私の家では、お盆とお彼岸に墓参りに行く。都合、年3回である

 さらにうちの親父に至っては、父の兄と父の母の命日にもお墓に
行く。
 都合年5回。
 その都度私にお誘いが来る。

 20歳を超えるまでは、まだ年3回であった墓参り。
 出席率はいとこ達と比べると上々だったであろう。
 
 20歳を超えると参加率が下がり、25歳を超えると年5回にな
ったこともあり、参加率はさらに下がった。

 普通に行っても父の家から片道1時間30分から2時間程度かか
る。
 山の上にあるお墓まで墓参りシーズンだと、臨時バスが出ている

 なのでその時間で行ける。
 が、命日はそのシーズンではない。
 律義に最寄りと言えない最寄駅から山の下までバスで行き(駅か
ら歩くこともあるそうだが)山を登って墓参り。
 
 父の母(私の祖母)の命日は8月の前半である。お盆にまた墓に
行く父のことを、何とも言えない気持ちで見ていた。

 そんな父は病気持ちで、年を重ねるごとに自分の生き死にについ
ての弱音が増えた。長年の付き合いから弱っていることも解るが、
見て見ないふりをしている部分もある。この仕事を初めてから、親
父と会える時には会うようにはしている。

 
 父のベットの良く見える所には、「緊急連絡先・長男・佑一・携
帯番号~」という張り紙が、私に対してプレッシャーと言うものを
嫌と言うほど送ってくる。もちろんと言うべきか、何年か前に父か
ら葬式についてや、もし急に死んだ際の言伝も預かっている。 
 

 そんな父に今回のお墓の体験を話した。
 黙って聞いていた父。
 博識で、美術や文学に大変興味のある父が、意外にも梶井基次郎
をあまり知らなかった。
 
 私は父に「お墓参りには出来るるだけ行こうと思う。自分の顔の
知ってる親族のお墓が路傍の石のようになってしまうのは、なんか
嫌だ。」と言った。
 父は何も答えず、沈黙の後に私を見るでもなく、こう呟いた。
 「次は3月やから」

 録画されたオリンピックの映像が流れる中、そういえば、墓参り
に行く時の誘い方に変化があったことに思い当たった。
 前回お墓参りに行った際は、わざわざレンタカーを借りて、さら
に別の用事も合わせて誘ってきた。
 父なりのあの手この手の誘い方だったのかもしれない。

 その後、私は先祖について父に尋ねた。祖父、曾祖父。
 初めて自分の父方のルーツが兵庫県の某所にあることを知った。
 父は前にも何度か私に言ったとのことだった。
 酒の席で、長々私に説明している父が想像できた。

 
 そんな父の家のリビング。
 お世辞にも広いとは言えない家。
 その空間に最近異質なものがある。
 父が自分の自画像を油絵で描いている。
 しかも2枚。
 
 題材にするための父の写真が脇に貼ってある。
 父の何とも言えない表情。
 笑っているでもない、怒っているでもない表情。
 子どもの私からしたら、どんな顔をしたらいいのか困っていると
言うのがぴったりな表情。
 
 それを熱心に油絵で描いているのである。
 はじめてその光景を見た時、私からしたらおもしろいとしか言い
ようがなかった。
 何とも言えない表情で写真に映っているの父の顔を、難しい顔を
した父が、キャンパスに書かれた顔が見えない父に筆を走らせる。

 お世辞にも父の絵は上手いとは言えないが、作品に対する講評を
求めてくる。
 手厳しい息子の言葉に、肩を落としたり唸ったり。
 
 ただ、そうやって言いたい放題の意見を言う息子に父は
「絵が好きで、よくポイントが見えるおまえは、いい成長の仕方を
した」
 と、珍しく褒める言葉を贈ってくれた。
 
「親父のおかげで、美術館巡りや風景を見るのがが好きになったん
やで」とは、いつか言えるだろう。他の人にはしょっちゅう自慢げ
に言っているのだから。

 そんな父の自画像についてようやく講評を求めてきた。
 ああだこうだという息子。
 意見を返す父。
 
 父は手直ししてまた講評を求めてくるのだろう。

 その絵を父は私にどうしてほしいのかはわからない。
 私はその絵を父のお葬式の遺影にしようと思っている。

 ※① 私の勉強不足のところもあり路傍の石の意味を「誰からも
気にかけられることがない、無価値であるさま」と言う意味でしか
知りませんでした。よって、この意味で使用しています。webi
lio類語辞典参照。
 また実際は管理されている方ががおられます。「旧真田山陸軍墓
地とその保存を考える会」と言うそうです。文脈的に上記辞書の意
味のままではない、と捉えてください。
 
 ※② 「役」という字や「丸」といった字も旧字体だったのです
が、ネットで探すと見つからず。本当は違う読み方だったらごめん
なさい。
 
 ※③ 梶井基次郎氏のお墓の横にあった、「梶井家之墓」と書か
れているものと梶井基次郎氏の墓の建立者が同一氏名であったこと
。お寺の方に「この印があるものは連絡がつかないので、親族が参
拝されたら管理の方まで連絡ください」という掲示がありましたが
、その印のようなものが「梶井家之墓」についていたこと。この2
点は同行者とともに確認しました。ですが、とくに後者の印が私た
ちの認識したものと違う可能性があります。またお墓の掃除という
点は完全に私の主観です。お寺の敷地内全体はきれいに掃除をされ
てありました。

 以上です。長々お付き合いいただきありがとうございました。