ずっと思考がぐるぐるしていたので、noteろいどを駆使してガシガシ言語化する週末。

見事な秋晴れなのにもったいない気はなきにしもあらずだったが・・・

 

 

でも、二つの記事を合わせて5000字以上を捏ね繰り回した割には、見つけたのはたった一つのこと。しかもそれは、Threadsのつぶやきに収まる範囲。

 

 

たったこれだけ。

 

たったこれだけのことを知るために、似たような記事をいくつも量産してきた。

でも、最も直近で書いたこの記事は、他の記事と違ってあまり寝かさなかったというか、読み返さなかったというか、衝動を衝動のまま通した。

 

 

👆のnote記事は仕事の側面から書いている。というか、仕事で体験した出来事を書いているのだが、でうくの場合は仕事でのつまずきは人生のつまずきと直結しているから、ザクザク掘り下げて書いてみたのが👇のろいど記事だ。

 

 

創作での表現の力も借りながら。気づいたら合計で5000字を超えていた。

 

 

正直、自身の内側に他人が入ってきて内面を踏み荒らされるのは普通だったから、不快に思うことはこれまでなかった。“ホゴシャ”が守ってくれるし、何より、他人をそのように変貌させてしまっているのは自分だと思っていたから。

 

 

でもそれって、きっと違うんだよね?

 

 

人は確かにそう言うのよ。「あなたがわたしをこんなにした」って。

そして「あなたはどうせこうだから」とも言う。

 

 

未だに言われる自分にも課題は感じるが、違うよな?という不快をはっきりと感じた自分自身の変化には正直驚いた。

 

同時に、どうしてホゴシャがこれまで守ってくれていたのか、そもそもどうして自分自身を守らないといけないのかがわかった気がした。

更にいうと、いわゆる「蛙化現象」との繋がりもわかった気がする。

 

わたしの今回の悔しさや不快、そしてごくごく軽度ではあるが怒りは、自分が自分を信じ始めたところで邪魔が入ったことに対して。

健全な対人関係構築の次のステップに進めないのでぴりついているのである。

 

 

ただ、気づくことができたのが“今”なのはすごく運が良かったと思っている。

 

これが1~2年前に気づいていたら、たぶん気持ちが挫けていた。この気持ちを抱えたままで残り1年も2年もはこの地にいられない(もしかして実績が上がらない責任を取る形で居残るかもですがw)。

 

お土地柄どうしても仕方がないんでしょうけど、依存関係に安心感を見出しやすく、個というよりは組織体を重んじるようですからね。

 

ただ、肌感覚では結構限界が来ているようですけど・・・・・・病み方がやはり少し独特な気がします。震災のせいかと思っていたが、そうとも限らないようだ。

 

 

 

ええと、こういう場合にも使える故事成語だったりしますかね?

 

 

「忠告してこれを善道(ぜんどう)し、不可なれば則ち止む、自ら辱めらるることなかれ」

 

 

「真心を込めて忠告し、善い方向へ導くことは大切だが、聞き入れられないようならしばらく様子を見る。しつこく忠告しても、自分が嫌な思いをするばかりで効果がない」という意味。

 

あくまでも相手の自主性を尊重する姿勢を指す。

 

 

 

何でもかんでも先回りして相手をコントロールしようとするより、たとえ未来(過ち)が見えていても、相手の自主性を尊重して見守る。教育の極意とも言えそうですが。

 

もっと当てはまる言葉がありそうですが、わたし自身はこの故事成語を初めて聞いたときにこのようなことを思いました。

 

 

 

とてもいい言葉だと思うと同時にかなり心に響いたので、恐らく自分はそのような距離感で生きたかったんだろうなと思います。

 

 

 

自分の人生を生きられている人に最近あまり出会えていない。

 

 

 

トラウマ関連を一巡した後は意思決定・意思表明についての勉強かな・・・

学ぶことは尽きない。

 

 

 

 

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