たった一冊の本 | 植民所在地3丁目

植民所在地3丁目

Alfooでのブログ『誰も知らない植民所在地』の発展系。所在地わかりました。

でも書いてることは変わらない。

すごく懐かしいことを思い出したな~と思い。

 

私の将来を決めた本がある。根っこを形成するものはいくつかあって、影響を与える本はマンガでもそれ以外でも新しく出てきたりもするんだけど、将来を決めた本は本当に一冊。

 

この本のことを思い起こすと、今の私は何故いるのか、何故この仕事をしているのか、基本を思い出す。

 

私の根っこを形成した本は、私が子どもの頃は変身ヒロインものが爆発的に発展したこともあって、要は自分ではない何かになって活躍したい願望をくすぐるものが多かった。セーラームーンは別格として、怪盗セイント・テールを始めとした立川恵作品とか、カードキャプターさくらとか、ちょっとマイナーだけど、ひなの☆ドリームとかねニコニコ

『地球の植民』のオポのビジュアルは、ひなの☆ドリームのアイドル・ヒナがモデルだったのですが、キャラデザをしているときはまったく、気づかず!それくらい無意識的に影響を受けていたみたいです。

久しぶりにセイント・テールを読み返したら、聖良ちゃんがすごく好きで!というか、将来を決めた後の自分だから、共感できるのかな。

芝居に心惹かれるのも、自分がやりそうにないことをやることと、メイクを落とせばそれが自分と誰にもわからないという変身願望を満たせる要素があるからだろうな。

 

現在好きになる新しい本も、やっぱりどこか何かしらで自分の指針になっている。本というのはどうも、自分のスタンスを決める教科書のよう。大人になったので、その中身はだいぶ地に足のついたものになりましたが爆笑

今でも、家を出る前にはスタンスを決める本を読み返すことがくせになっている。

 

大人になって、改めて、自分の将来を決めた本を読み返したら、そんな運のいい話はそう転がっていないと感じたことがあった。

救いの手がない人の方が、実は多いのではないかと。

あと、結末以降の主人公の心を案じたり。物語はハッピーエンドでも、この先生きていく中で、心の傷はいつか再刺激を受けるときが来るのではないか。

現実を知った、ということなのだろうと思う。同時に、地域差も知って、物語の舞台は横浜だから環境の整備も進んでいる方だったんだ、と。熊本だと目も当てられないなあ、と苦笑したのを覚えている。今の熊本がどうなっているのかは知らないけれど。

 

不思議な縁で、その本に出逢った10年後に神奈川に移り住んだので、横浜へ行って、地域差を肌で感じてきた。

偶然にもそのときに著者の先生とお会いすることができて、軽くお話しして、サインもいただいた。

今、その先生は生きてらっしゃるのかなあ。私がお会いした時点で既にかなりのご高齢で、私の気持ちが伝わったのかはわからない。

でも、私の人生は確実に決まったし、変わった。

「変わるために人は学ぶ」―――その言葉を特別に意識したことは実は少ないけれど、そういえば、すぐ先人の努力と知恵を頼るよだれ

それも、無意識のうちにこの言葉に影響を受けていたのかもしれません。

おかげで、希望を見失うことなく、ここまで歩んできている。

何のためにここに来たのか。見失いそうになることはそりゃあ、ある。辞めたくなるときだって。

でも、辞めたところで、それ以外の生き方が私にはできるんか?が、第一。絶対生きる張り合いをなくす、が第二。

いけるとこまでいっちゃえばええんちゃうはてなマークが、第三。

道がない、またはわからなかったから手探りだったのが、これまで。今は、手を伸ばせば届くかもしれんところまで道があるし、整っとるやないか。

 

使えばいいやん。使えるものは全部使って、みんな楽に、幸せに、なろ。

 

どうせ負けず嫌いやん。てっぺん目指しましょ。そういうの、今求められてるでしょ。

誰かがやる必要があることよ。

そう、囁く声もある魂が抜ける

もちろん、それこそが現在のプレッシャーの元凶といったらそうなんだけど、なんでこんなことになってるのかわからないんだけれど、それこそ私がコントロールできる部分ではないので、オプションだと思っている。オマケやオマケ。できればやるで。

もともとの目的から外れれば、目指す必要もなし。

 

希望も目的も見失わなかったことが、今の私を生かしていると感じている。

 

それが、たった一冊の本であるということ。

 

だから私は、創作や芸術に無限の可能性を感じるし、それを創造する力のある人間という生き物が好きなんだ。

だから、今やっていることを心の底から辞めたいとは思えないのだなと、思いました。