”「孤独」の可能性✨✨” | 植民所在地3丁目

植民所在地3丁目

Alfooでのブログ『誰も知らない植民所在地』の発展系。所在地わかりました。

でも書いてることは変わらない。

最近、叶姉妹のブログをフォローし始めました爆  笑

単純に面白いからですけど、なかなかためになることも言ってくださる。

下矢印の記事なんかは、うおおぉ~~そういう考え方もあるのか。ありがたい~と思って読みました。

 

ひとりの時間がないと死んでしまう人間なので、こういう考え方があるのは救いになります。

 

なんか、どんどん内省状態に入っていくのでブログ違いかもしれませんけど、

どうやって楽に生きていくかを模索していく中で、「その過程が苦しい」矛盾を日々抱えてきましたけども(笑)

この頃はようやく少しずつ楽になってきたように感じます。

 

今まで、自分を守ってくれるのは自分だけで、でも誰のせいにもできなくて、

自分の人生はすべて自己責任だから、一から十まで自己完結できるようにしないとならないと思っていました。

だから、手の届きそうにないものは初めから目を向けない。

自分の中にあるリソースはあらかじめ完全に把握して、ガス欠にならないよう算段が立たないと行動しない。

だから世界はとても狭くて、つまらないものでした。このブログからはそうは見えないかもしれないけど、実はね(笑)

 

そういう意味では、ネガティヴな意味での「孤独」だったのかも・・・

リソースは確実に自分の中にあるものしか信用していなくて、周囲を取り巻く環境を“リソース”とカウントすることは全くありませんでした。

だから、何が起きても自分で解決する私が一番強いし、そうでないといけない。

それこそ、「インディペンデント」でないと、“いけない”。

 

でも、この頃は少し違う。

これはたぶんいい意味でだと思いますけど、少し、他人のせいにできるようになってきました。

責任転嫁とかではなく、まるっと無視してきた出来事内のギブ&テイクを認めること。これまで、自分のやったことに後ろ指をさされたくなくて、他人のやったことにも追及しない姿勢を取っていたのですが、責任とかそんなのはまず置いておいて他人がやったことを認める練習を始めました。

そして、リソースに他人や環境をカウントする練習・・・

 

他人のせいにできるのは本当に精神的に楽なことです。

それは、自分の力が及ばない事柄があることを認めていいということで、

自分の力が至らなくても「インディペンデントな個人」として生きていていいんだということなんだと思いました。

今の私の周りの人たちは当然のようにそれを知っていて、行使していて、

私としては目から鱗です。あれ・・・もしかしてコレ、常識だった?(爆)

 

まだまだ人生も捨てたもんじゃないなー(オイ