今年も紅葉を見てきたので、そういえばと思い昨年の今頃の記事を読み返してみたら、
「来年も、岐阜で秋を迎えられたらいいな」と記述があり、自分のことなのになんかじーん・・・ときたでうくです。いるよ、次の年も岐阜にいたよ!!おちこんだりもしたけれど、私はげんきに岐阜にいるよ!おちこむこと多いけどね!!ね!!
今年は関市と東濃地域(土岐市・恵那市・中津川市)を中心に紅葉を見てきました。
まずは刃に狂った日本の中心(なかご)・関市から。
関市が日本刀を始めとした刃物が特産品であり、まさに日本のサムライの心を形成していることはソーシャルゲームをする女子ほどわかる周知の事実だと思いますけど、それだけにあらず、日本の人口の中心値があるのもこの関市です。更にはこの市、はさみのように二又に分かれている上、非常に縦長いという変わった地形をしており、北は福井県、南は岐阜県の南も南の岐阜市と隣接しています。
なお、岐阜県は平成の大合併の時にかなり頑張ったようで、関市のような県を縦断する勢いの市もあれば、飛び地がいくつもある市があったり(大垣市)、香川県や大阪府よりも大きい面積を持つ市があったり(高山市:富山県、石川県、福井県と隣接している)と地理関係めちゃめちゃです。もう少し安心できる分け方をしてほしい。
そんな関市の紅葉はこちら。
(関善光寺にて)
(関善光寺の敷地内にある龍頭稲荷)
関善光寺は、もともとあった宗休寺(そうきゅうじ)というお寺に、長野県にある善光寺を招いて造られたお寺。宗休寺そのものは武田 信玄の家臣であり関に落ち延びた広瀬 利広(ひろせ・としひろ)由緒のお寺で、近くには利広の子孫にして松尾 芭蕉の門人・広瀬 惟然(ひろせ・いねん)の住んだ庵(弁慶庵/惟然記念館)があります。
余談ですが、岐阜には広瀬(廣瀬)姓がものすごく多い。あと、纐纈(読み:こうけつ)姓も多い。そして、後藤姓の多さはやばい。
(本堂)
そういえば、一時期日本ラグビーが大いに盛り上がり、その火付役となった五郎丸選手のルーティンポーズ、いわゆる五郎丸ポーズが大流行しましたね。そのポーズを真似するのはもはや人間に限らず、お寺の仏像なんかもやっている写真を見たな、という記憶が一年間フレンズの私の脳にも珍しく走馬燈のようにありますが、まさかそれが関善光寺の大日如来像のことだとは思いませんでした。
(五郎丸如来)
流行には乗り遅れたが、このポーズをキメたのは五郎丸よりこっちが先だかんな。
次は東濃地域です。東濃地域は名古屋のベッドタウンでもあり、同じ県の県庁所在地である岐阜市よりも名古屋市の方がめちゃめちゃ交通の便がいいです。てか、場合によってはいったん同じ岐阜県を出て名古屋を経由しなければ互いの地域を行き来できない仕様になっています。なんでや!!
しかしこれは岐阜県とそのお隣長野県にも言えることで、岐阜から長野に電車で行く場合、いったん東京駅までのぞみスーパーエクスプレスで行き、そこから北陸新幹線に乗るのが一番早いルートになったりします。全ては山のせい。
東濃も山が多い地域なだけあって、とても美しい紅葉を見ることができます。
(土岐市:曽木(そぎ)公園)
(恵那市:恵那峡交差点)
(中津川市:栗きんとん)
中津川は花より団子ならぬ紅葉より栗きんとんというオチ。
岐阜県最東端であり長野県と接している中津川市は、栗きんとん(栗茶巾)発祥の地といわれており、栗きんとんの名店が二大巨頭で存在します。それが「すや」と「川上屋」。
「すや」の栗きんとんはより栗の素材感が強く、ほろほろと崩れそうな食感。「川上屋」の栗きんとんは砂糖の甘みとコクが強く、しっとりとした食感でした。どちらかと聞かれれば私はすやの味が好みでしたが、次もきっと両方のお店の栗きんとんを買いますね。
結局、中津川では色気より食い気で紅葉なんて実は見ていないのですが、すやでの買い物を終えてぶらぶら歩いていたら、なんと
んっ?
「桂さんが中津川に身を隠したのは、文久2(1862)年6月、29歳のころ」。ひ、ひえぇ・・・(年齢のことはもう言うまい・・・)つまり、まだ「逃げの小五郎」デビューしていない時期。ならば、何から身を隠していたのかというと、文久2年当時、長州藩は長井雅楽(ながい・うた)により藩論がまだ公武合体となっている状態であり、藩論を尊皇攘夷に覆したい桂は江戸から京へ上る藩主・毛利 敬親に直談判するべく中津川の友人を頼り、身を隠したというもの。その場所が説明板の立っているところであり、当時は料亭『やけ山』だったとのこと。結果として、桂は藩主のキャッチに成功し、ここ『やけ山』にて直談判。桂「じゃ、尊皇攘夷ということで。いいですねー?」藩主「そうせい」を引き出し、その談判のわずか2週間後、長州藩の藩論は尊皇攘夷へと変わる。藩政の方向を尊皇攘夷に変えさせたという歴史的に大変重要な「中津川会談」の舞台がここである。
