5年前のこと | 植民所在地3丁目

植民所在地3丁目

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2011年3月11日なにしてた? ブログネタ:2011年3月11日なにしてた? 参加中
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ニヒヒ←この系列の絵文字を使いたいのだけれども
ニヤニヤ


阪神淡路大震災のことは、ニュースを見るだけだったことや年齢もあっておぼろげにしか覚えていないのですが、東日本大震災についてははっきりと記憶に残っています。

私は5年前に神奈川に引っ越してきまして、震災当日は一連の引越手続きを終えて町田市のホテルにいました。
スムースに住居が決まり、帰熊の予定より1日早く終わったので「明日は新宿に行ってみよっかなと、前日夜に考えていたのですが、当日朝になると初めての都会の疲れが一気に出て「引っ越したら新宿には好きなだけ行けるようになるから、今回は帰ろう・・・」ということになり、ホテルでグダグダして喫茶店でまたグダグダした後、昼前の新幹線に乗って熊本に帰りました。

震災が起きた時刻には新幹線は福岡の小倉あたりまで進んでおり、移動に全く影響はありませんでした。車内にいる時に大家さんから電話がかかってきて少し出たのですが、途中でぷっつり切れ、以降全く繋がらなくなったので、少し不安にはなったものの(ちゃんと契約できたのかをね)電波状況のせいだろうとさして気にしませんでした。思えばあの時、震災真っ只中だったのですね・・・

普通に帰宅すると家族が待ち構えていて、「よく無事に帰ってきた!」とものすごい褒められました。普通に帰ってきただけであんなに褒められたのはたぶんあの時くらいです。九州住まいだと東日本の状況って本当にわかりませんから、かなり心配していたみたいです。ニュースで自分が数時間前に通った場所の混乱具合を見て、「・・・同じ名前の別世界に私はいたかな?」と思いました。


その10日後の放射能騒ぎがピークだった頃に、神奈川に移り住みました。震災の翌日に九州新幹線が開業したので、早速乗ってみたのですけれども、しめやかな空気でしたね。
新生活の門出という華やかな気持ちは全くなく、移住前日までこの状況で行くか行かないか家族会議を繰り広げておりました。
買い占めや郵便運搬の麻痺が起きていることは、報道特番や九州のあらゆる店から乾電池やミネラルウォーターが消えていくことから分かったので、食料や水、トイレットペーパー、電池式の携帯用品など非常用を中心に、荷物は手持ちを多めにして移動しました。送った荷物は2~3週間遅れで確か届きました。
書類は案の定行き違いになっていたので、直接職場へ行って特例で再発行してもらいました。その際、職場の建物を見ると、ある棟が建築年数もあって崩れておる
ゲッソリ私が正式にそこの所属になった頃にはその棟は取り壊されて更地になり、最近、新しい棟がそこにできましたが私は完成を見ることなく去ることになります。これもまた、震災の歩みの一つか。

移住した日は買い物どころでなく、試しにスーパーに行っても棚は殆ど空っぽでした。幸い、計画停電から外れた地域だったので電気が途切れることはなく、その日の夜はポポポポーンをパソコンで延々と聞きながら懐中電灯の明かりのもと熊本から持って来た弁当を食べていました。それ以外は何もなかったけれど、家があるだけいいと逆に感謝の思いが自然と湧き上がってきましたね。
この時、母が心配して&荷物運びの手伝いで一緒に神奈川に来てくれたので寂しくなかったけれど、これ、一人だったら完全に泣いてたね。直接被災した訳ではないですが、こんな経験はもうしたくないです。


結局、私はあの地震を経験してはいないので、その後の余震に結構びびらされることになりました。少し大きい地震がくると、すぐにえねっちけーつけて確認しちゃう。「あの地震に比べると、大したことない」って移住してあらゆる人に言われましたけど、そういう問題か・・・?まぁ、やたらめったらパニクってる人間よりはましか。

5年経ち、また新たな門出を迎えることになりましたけれども、あれほど記憶に残る引っ越しはなかろうなぁ。いや、ないといいなぁとしかいえないのが災害列島日本。
だからね、首都機能を早く分散させましょうってば
ムキー