肥後細川家第11代藩主・韶邦(よしくに)鎧『栗色革包紺糸射向紅威胴丸具足(くりいろかわつつみこんいといむけくれないおどしどうまるぐそく)』
わたしはこれでよしくにさんに惚れました。
実は、この鎧を見るために先日わたしは永青文庫美術館に行ったのですが、常設展示でなかったために見ることは出来ませんでした。あーまた展示してくれないかなぁ!
守りに入っていなくて素敵ですよ!!(爆
初めてこの鎧を見た時期、私は戦国BASARAの毛利さんにハマっていて、毛利さんの兜まじパネェとか思っていたんですけど、そんな中でそろそろ藩主に手を出そうと思って調べていたところ毛利さんを超えんばかりの異彩を放つよしくにさんの鎧に
「ゴキブリじゃねえか!!」
と叫んでしまった次第であります。
これを被ってよしくにさんは戦闘の指揮を執ったのか・・・
永青文庫に置いてあった本に、同じく韶邦所用の『黒皺革包紺糸威二枚胴具足』が載っていたんですけど、そちらも素晴らしい黒光り具合で、本には「カモシカを思わせる頭立」と記述されていましたが、一緒に行った友人との協議の結果、やっぱりゴキブリだよなという結論に至りました。
久々のリスペクト、今回はその藩主さまを取り上げます。
Ⅱ-Ⅶ. 細川 韶邦(名は「よしくに」と読みます)
登場舞台: 1863年~1866年(八月十八日の政変、第二次長州征討)
〈ざっくりと紹介〉
肥後細川家第11代藩主。老獪な者達が実権を握る西国雄藩に囲まれながらも、肥後を導いてゆく若き藩主。父は肥後版「そうせい候」こと斉護(なりもり、「肥後六花」と呼ばれる品種の内、肥後花菖蒲を定着させた)、姉は越前藩主・松平 春嶽の正室勇姫(いさひめ)、2番目の弟は津軽藩主・津軽 承昭(つぐあきら)。
藩論についてはただでさえ藩が分裂している中で兄弟間でも揉めるも(1番目の弟・護久および3番目の弟・護美は尊皇攘夷)、藩主として非常に強い決定権を持ち、肥後を佐幕に導く。徳川を「関ヶ原以来の盟友」と呼び、恩義というよりは同志の感情で幕府に尽くす一方で、九州が元来尊皇の土地であり、肥後藩士たちにとって尊皇が心の拠り処である事も理解している。その為、尊皇の志も否定せず、地侍(宮部 鼎蔵、横井 小楠、河上 彦斎など)や、細川以前に肥後を統治していた加藤 清正、佐々 成政の子孫や遺臣(佐々 淳二郎など)も藩政に組み込んで土着人と家臣団の融和を進めた基本的には良き藩主である。幕府・朝廷双方からの信頼も篤く、幕命で薩英戦争の警備に、朝命で下関戦争の援護にそれぞれ兵を差し出している。が、その信頼が却って倒幕・朝敵の路線となる長州藩との軋轢を生み、維新後に肥後が討伐の対象となる原因を作ってしまう。
幕末もまた乱世である為か、藩祖忠興に最も似ていると云われる。自藩の藩士に対しては「我が子どもたち」と呼んで結構な思い入れがある。一方で藩士と血の繋がりが無い事を気にしている節があり、島津 久光にそれを揶揄されて機嫌を悪くする事も。民たちの心も清正が捕らえて離さないので、自身も清正を大事にしつつも、藩士らに対して過保護な面があるのは否めない。故に、尊皇を謳いながらもその実天皇を無視して偽造文書などを作成し、倒幕に導こうとしている長州藩を二重の意味で嫌っており、「我が子」を関わらせまいと強硬手段に出る事となる。また、細川家そのものが対島津の防波堤である為、薩摩藩の事も快く思っておらず、攘夷か開国かに関しての問いに対しては「夷狄も薩摩も変わらない」と言い放ったほど。福岡藩は藩主が島津からの養子となり長州藩にも靡いている事、佐賀藩は徳川と関わろうとしない事から、西国全般に神経を尖らせており、攘夷・開国を論ずるのは自分の役目ではないと思っている。その為、攘夷・開国に対する意見は特に無いが、第二次長州征討に関しては幕府に必要性を問い、納得のいく答えを得る事が無かった為に意見が対立、しかし押し切られる形で兵を出す。薩長同盟の存在は無論知らなかったものの、薩摩が背後にそびえる状況から長州と薩摩に挟み撃ちにされる事を予期、猛攻の内に幕府に援軍を頼むも、幕府は兵を出さなかった。ここで幕府を見限り、兵を退いて対薩摩に充てると共に、小倉藩に城を焼き払うよう指示、城主を始めとした小倉人を保護する。徳川に対する信頼を失って以降は人間不信に陥り、肥後の地を守る事により一層頑なになるも、大政奉還後、信頼していた尾張藩に促される形で新政府側につき、津軽藩の援軍で箱館戦争まで参加。忠興以来、肥後藩主となってからは唯一前線指揮を執った殿様となる。
これまた忠興以来と云われる端整な容姿をもち、「肥後の牛若様」と称されるなど京の人々に絶大な人気を誇る。しかし、本人は京に愛着が無い上、肥後人とは異なる京風の顔立ちの為、自身の容姿を気に入っていない。独特の美学の持ち主でもある模様(例のゴキブリ兜より)。因みに甲冑は時代を超えた忠興のお下がり。
藩士同様に信心深い一面を持ち、特に加藤 清正(本妙寺)と稲荷神(高橋稲荷神社)を大切にしている。好きな動物は狐。油揚げも好きだが酒は好まない。甘党で、好きな食べ物は朝鮮飴。
維新後は熊本藩知事となるも、家督を護久に譲って藩知事を辞任、華族として東京に移住する事になる。だが、その後も元藩士や肥後を想う気持ちは変わらず、「我が子」河上 彦斎の処刑の際には処刑場へ赴きその最期を見届け、怪しくなってゆく九州の情勢には仮面の下で心を痛めていた。また、このあたりから自身も徐々に病に蝕まれてゆく。「稲荷の加護は尽きた」の言葉を最後に、明治9年10月23日、「我が子」たちを案じながら世を去る。その日は奇しくも神風連の乱の前日であった。
※ 以上は資料を踏まえた小説の設定になります。
よしくにさんについてもう少し語らせて頂きますと「我が藩は維新に何ら貢献していない」と、かなり卑屈な事を言ったそうです。繰り返しになりますが、第二次長州征討は藩主にとっても彦斎にとっても大転換期となっていて、彦斎が高杉さんたちに失望して長州を離れたのをきっかけに長州藩は肥後藩に対する敵意を剥き出しにします。一方で藩主よしくにさんも幕府に失望し、大政奉還まで割とガチで引きこもっています。あまり話題にはなることは無いのですが、よしくにさんはこの時結構ショックを受けていたみたいです。肥後が肥後として一つになっていたのは実はこの時かもしれません(爆)
この経緯あって肥後は長州から嫌われ、薩摩とも元々仲が良くなかったので、明治が明けてからの新政府の圧力は相当なものだったんですって。肥後が討伐対象であったことは何度か触れてきましたが、よしくにさんはその渦中にいて、新政府の為に多大な兵を出したり、佐幕であった自分が藩知事を辞めることで何とか討伐を免れようとしました。しかし、それでも状況は変わらず、横井 小楠の弟子が多数を占めていた肥後人の新政府役人が旧佐幕派と勤皇党に対する弾圧を始めます。そのやり方は結構苛酷で、例えば、池田屋事件で死んだ松田 重助の弟・山田 信道は彼らと同じく新政府に恭順派の役人で明治政府にいましたが、罷免の上投獄。彦斎の処刑もその一つ(横井 小楠ら実学党は幕末に肥後藩からかなり冷遇されていたので、その反動ともいえそう)。明治政府は結局、実学党系の役人を政界から一掃、肥後の地は唯一感情的わだかまりの無い土佐藩出身の役人の監視下に置かれる事になります。
こうやって見ると、長州人との話題に事欠かなくも肥後が決して話題に上らないのは、ある意味必然かも。と同時に、長州が会津がだのやったやられただの恨みだの言っても、皆それぞれの立場で必死に生きようとしたんだよと思わなくもない。犠牲の数なら肥後も土佐や薩摩に負けていないぞ(爆)
現在、大河とかけて薩長土肥の西国雄藩で観光を盛り上げるプロジェクトを始動しているみたいだけど、そうやってつるむから会津あたりの反感を買うんじゃないかなあ・・・・・・?福岡熊本大分まじアウェイだし。てかおまえら実はそんなに仲良くないことをこちとら知ってんだぞ!(笑)
とまぁ、最後は愚痴っぽくなってしまいましたけれど、小説の方はよしくにさんも登場してカオスな感じになってまいりました。そして永鳥さんと武市さんが退場・・・・・・ (இ﹏இ`。)
何だかんだで書き上げられそうなので、「なろう」に載せられるよう最後まで頑張りたいと思います୧⃛(๑⃙⃘◡̈๑⃙⃘)୨⃛