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1年越しのリスペクト紹介、小説第2弾は3つの記事に分けております。その記事の2つ目。熊本人についてこれ程どっぷりと浸かり、詳細な設定を作る事が出来るのはとても嬉しいです。特に、彦斎は某人斬り漫画のモデルという事でかなり有名になったので、この期に堂々とキャラを使う事が出来るのに心躍る反面、その某主人公がすごく際立っているので、こちらではどう差別化を図ろうか非常に迷うところであります。幸い、私の執筆する方は彼がメインという訳でもないので、それほど荷が重くはないのですが。

では、紹介です。


Ⅱ-Ⅱ. 河上 彦斎(名は「げんさい」と読みます)

登場舞台: 1856年~1866年(久坂 玄瑞の九州遊学~長州征討後)熊本城勤め坊主職(1850)→参勤交代。肥後藩細川家第10代藩主・斉護に伴う(1853)→暗殺など、肥後にて暗躍(1855~1862)→京都警固親兵に任命、坊主職を解かれる(1863)→八月十八日の政変。活動の拠点を長州に移す(1863)→上京。佐久間 象山暗殺(1864)→長州征討。この時、長州軍幹部に任命(1864)→帰藩。脱藩罪で投獄(1867)→出獄。明治政府に出仕(1868)→陰謀罪により処刑(1872)
〈ざっくりと紹介〉小柄で華奢、女・童と間違われる点では某人斬り漫画の主人公と同じだが、いわゆる狐目で左目の下に泣きぼくろがある。暗殺の際にはきじうま(人吉市の民芸品)を模した仮面で顔を隠し、臙脂色の着物を着て返り血を目立たないようにする。仮面の下は涙で濡れているとも。その姿から、正体を知る者や暗殺の目撃者からは「肥後の黒稲荷」といわれる。稲荷寿司が好物でもあり、久坂からは度々その事でからかわれる。
母藩である肥後から重用されており、肥後から出る事が少ないため標準語がなかなか上達せず、拙い標準語が混ざった熊本弁を話す。おかげで、熊本弁なのに話し方が片言。熊本人と会話をする時は熊本弁が標準語となるため、普通の喋り方となる。
松田 重助、永鳥 三平、佐々 淳次郎と並ぶ勤皇党の四壁(久坂・高杉がいわれる"双璧"とは意味的に違い、前線で動く肥後勤皇党の四方の壁に過ぎぬ、背後には大物が控えている事を表している)で、彼らの中では最年少。元々、教育も剣の習いも受けていない稚児であったが、宮部に拾われ、彼の師匠の元で教育と武芸の手解きを受ける。恩人である宮部を護ると誓う一方で、教育によって得た判断力を生かし、自らの意思で天誅活動を行うようになる。そのため、思考する事をやめ盲信的に上司の命令によって暗殺を行う土佐の岡田 以蔵に同族嫌悪に近い気持ちを抱いている。
剣は我流。片手抜刀の達人であり、小柄さを生かした低い姿勢からの逆袈裟斬りを特徴とする剣技を使い「玄斎流」と称する。道場試合など、型にはまった剣術では転がされ負けてばかりで人斬り彦斎を知らぬ者からは侮られる事も多いが、実戦においては無敵を誇り、新選組の近藤 勇でさえ隊士を彼と戦わせる事を躊躇う。新選組と最も因縁の深い人物の一人であり、当人達が意識せぬ内に幾度と無く接触している(八月十八日の政変、池田屋事件直後、禁門の変など)。佐久間 象山を暗殺し、その息子(三浦 啓之助)が新選組に入隊するなどもはや宿命といえる。一度、沖田 総司と接触し一触即発の事態になるも無傷で肥後へ戻っている(新選組監察方・尾形 俊太郎が沖田を止めたため)。
宮部と同じく、信頼する者に対しては情に篤くそうでない者には冷たいが、宮部と異なり実行犯を担うため宮部以上に恐ろしい存在。1858年の時習館党代表の襲撃を実行したのは彼である(なお、襲撃された緒方 文兵衛宅は新選組隊士・尾形 俊太郎の実家。この点でも彦斎と新選組は因縁の関係にあるといえる)。
攘夷を掲げ、長州のサポートに徹するも、最終的には攘夷をやめ外交を選んだ長州閥にその存在を危険視され、桂 小五郎(この頃は木戸 孝允)の命令によって処刑されるという凄絶な最期を迎えた。


次は、本編で宮部・彦斎と共に尊皇攘夷活動を展開した肥後勤皇党の三風(さんぷう)について紹介します。




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