地元をリスペクト。 | 植民所在地3丁目

植民所在地3丁目

Alfooでのブログ『誰も知らない植民所在地』の発展系。所在地わかりました。

でも書いてることは変わらない。

地元を離れて早2年。いわゆる"上京"ってやつをして来て、2年も経てば関東の生活にもだいぶ慣れますが、なかなか地元に帰れないとなると、地元にいた時には欠片も無かった郷土愛が急にすくすく育つものです。時期的にちょうど薄桜鬼 黎明録が放送されて、何波目かの幕末熱が滾った私はホームシックもあいまって、上京して郷土でない地で散った幕末の地元の偉人たちの小説を書き始めてしまいました。今回はその裏設定の紹介がてらメモ。私の地元はどこでしょう?(笑



Ⅰ. 尾形 俊太郎
登場舞台: 1863年~1868年
(壬生浪士組結成~会津戦争まで)
壬生浪士組副長助勤(1863)→新選組副長助勤(1863~1864)→諸士取調兼監察方、文学師範(1865~1866)→新選組副長助勤(1867)→諸士取調兼監察方、甲陽鎮撫隊目付→新選組副長助勤(1868)

<ざっくりと紹介>
島田 魁、山崎 烝、山野 八十八(美男五人衆の一人)と同期。島田、山野とはしるこ会を開く仲で、凹凸三人組と呼ばれている。一方、山崎とは仕事面で一緒になる事が多く、立場の違いから彼に多くの混乱を与えた(仲が悪い訳ではない)。吉村 貫一郎は山崎と共通の後輩で、彼にも同じように混乱を与えたが、斎藤 一の助勤復帰に伴う監察への異動の際、助勤に残った山崎に代わって吉村と共に監察を纏めている。

年齢は沖田 総司や斎藤、藤堂 平助と同じくらい。凹凸三人組では、尾形→山野(3歳程度年上)→島田(更に13歳年上)の順に年齢が上がっていく(因みに、山崎は尾形より8歳程度年上)。

中肉中背の当時の一般男性だが、猛者の多い新選組の中にあっては優男と形容される事も少なくない。が、新選組幹部の中でも数少ない武士の出身で、病弱な長男に何かが起こった時の為に様々な教育を受けさせられた。特に医術、国学に強く、1864年の助勤時代には預かりの隊士たちに医術の一部を伝授し、文学師範では伊東 甲子太郎に対抗する教育を推し進めて隊士の分離を阻止している。
剣術は長らく我流と称し、実際に彼の手で多くが既存の技を改変されているものの、その基礎にあるのは宮本 武蔵の二天一流で、奥義を使う事を許されているので相当格式の高い家の出である事が予想される。ただ、二刀を操るのは尾形の体格では負担が大きく、余程の事が無い限り二刀を同時に抜く事はしない。両利きで、構えの無いスタイルから片手で攻撃する事を得意とする。しかし箸や筆は右でしか持たない為、本来は右利きであると思われる。
彼の剣は技よりもむしろ介錯の上手さ(首を切り落とすこと)の方が有名であり、1867年に助勤に復帰してからは粛清にも手を染めるようになる。

苗字の「尾形」は会津藩から賜わったもので、本来は「緒方」。壬生浪士組入隊当初、彼の出身藩は危険視されており、京での活動に支障をきたすため漢字を変えた。また、本当の名は「俊太郎」ではなく「膽次」のようで、近藤との初対面の時(沖田のことを「宗次郎」と呼んでいる頃)にそう呼ばれている。

重度の書痴で、隊務としるこ会以外ではいつも書物を読んでいる(ひどい時は稽古中にも本を読んでいる)。
酒は自分からは飲まないが、強い。飲まれる事が無い為、要人との酒宴では大抵接待役となる。書物での知識が多い分腰が重い部分があり、芝居を観に行ったり妓遊びをしたりすることが無いので、おひねりを知らなかったりと、世情には疎い面も。反面、山野や馬詰 柳太郎といった美男に好かれることが多く、何かと側にいる事が多いので、変な噂が平隊士の間で流れている(すべては男色家・武田観柳斎のやきもちのせい)。
監察としてのスタイルから、変装や忍のような影に徹さず(密命によって行なう場合もある)、陽動として情報を撹乱させる役割を持つ為、武田や伊東、彼の率いる御陵衛士など反乱分子の信用を得やすく、その分変人どもから奇妙な友情を感じられたりすることも多い。が、そういう者はほぼ100%の確率で彼から粛清されることになる。



次は、Ⅱ. 宮部 鼎蔵 & 河上 彦斎
(宮部 & 彦斎は構想段階のため変更の可能性あり)について紹介します。




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