気づいたら咲いていました、ユリ♡そして道に落ちていたセミ・・・

ブスッと頭が刺さって落ちていたので、急降下でしたね😭

セミの鳴き声、鳥の鳴き声、可憐な花々、波の音。夏を満喫しつつも、熱中症に警戒👀の日々です。

さて、祈祷会はヨシュア記21章。ずんずん👣進んでいます。

今まで全ての部族への相続地の割り当てと、先週は逃れの町についての記述がありましたが、ここで、レビ人に放牧地付きの町々が与えられていったことが記されています。

ただし、レビ人には、相続地ではなく、居住地が与えられた、ということです。

荒野では、幕屋を運んだり、祭儀を行ったりしていましたが、約束の地においては、12部族の主だった町に住んで民を宗教的に指導する役割・務めを果たしました。

 

1️⃣レビ人には三つの氏族がありました。これはレビの三人の息子の子孫です。

長男がゲルション、次男がケハテ、三男がメラリ。

順にいけば長男ゲルション族が一番多い町を所有しそうですが、

祭司アロンの部族、レビの次男ケハテ族が23の町を所有することになりました。

レビの長男のゲルション部族は13の町。三男メラリ族は12の町。

 

モーセもケハテ族でしたし、アロンは大きな過ちを犯しましたが「祭司」であったがゆえに、ここで「アロンの」と記載がされていること、この一点においてケハテ族が優遇されたということを覚えたいと思います。

 

そもそも祭司とは何か、ということですが、預言者は神の言葉を語り、民はその厳しい言葉を聞いて悔い改めます。しかし祭司は、神様と人との間に立ち執りなすことが仕事でした。

罪深い弱い人間にとって不可欠なのは祭司だったわけです。

 

イエス様はヘブル人への手紙に「大祭司」と記されています。預言者であり、神の言葉を大胆に伝えてくださり、さらに神と人との執りなし手として、大祭司の務めを果たし、十字架にかかって全ての人の罪を贖ってくださいました。

 

イエス様は、今も天において私たちの祭司の務めをしておられると聖書は教えます。この大祭司イエス様によって、私たちは、死ぬべき者であったのに、生きる者とされているのです。

第一ペテロ2章9節にはこのように記されています。

「あなた方は、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。

それは、あなた方を闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなた方が告げ知らせるためです。」

 

2️⃣8節から42節をみると、レビ人に対する放牧地と居住地がくじによって分け与えられていったことがわかります。彼らの町は一つのところに集まることなく、それぞれの部族の相続地にまんべんなく散らばっているのです。それは20章で学んだ逃れの町が六つ、イスラエルの土地全体に広がって置かれたのと同じだというのです。

逃れの町に誰もが逃げこめるように設置されていったように、レビ人の居住地は全てのイスラエルの民が神様への執りなしの恩恵に預かることができるようにと、設置されていったのです。

 

教会の働きもそのようなのだと語られました。

神様の御心は、教会の無いところに、神様のみ言葉が伝えられるため、福音が宣べ伝えられるために置かれていくことなのだ、と。

レビ人たちの奉仕は、霊的な奉仕でした。神様と人との仲介者であり執りなし手であった彼らの仕事は、人々にもう一度やり直す機会を与えることであり、人々に励ましと、具体的に立ち直ることができるように助けること、罪を犯し、失敗し、悪魔の方に引かれていってしまったものがもう一度やり直すことができるように手を差し伸べることだったのです。

 

3️⃣43節からは、このヨシュア記13章から始まった相続地の割り当ての結論の部分です。

これが、主が約束しておられたことで、それを神様は成就・実現してくださった。少しもたがわずに、と書かれているのです。

 

これはおかしい!と思うでしょうか?だって終わらないのですから。戦いが。

まだまだこの先相続地において、戦いに次ぐ戦いが起こってゆくのです。

パレスチナの占領になかなか進まず、民は苦しむのです。士師記を読むと、イスラエルの民が困難の最中にある状況をただただみるのです。

 

しかし、神様の目から見て「全てのことは完了した」と言われたということ。

これは事実の描写でなく、信仰面から見た記述なのです。

信仰の目で見る時に、神様の言われた通り「完了した」実現した、ということ。

 

そのようにみることができるかどうかが信仰をもっているか否か、なのです。

ヘブル書11章のみ言葉です。

「信仰は望んでいる事柄を保証し、まだ見ていないことを確信するものです。」

神様の約束はもう実現され、成されている。今はまだ戦いの中に、試みの中に置かれているけれども、神様の約束は必ず、その時が来たときに、私たちの目にも見える形でなされるのだ、ということ。

 

なぜ試練にあうのか。試練こそが、神さまの御心がそこにあるのかを、その中で吟味させられることなのだ、と語られました。もしも御心ならば、信仰はバネのようになり、さらに大きく飛躍するのです。

私たちは、高くジャンプする時に、姿勢をどうするでしょうか?

かがむのです。そして大きく大きくジャンプするのです。

信仰も、まるでそんなふうです。

 

神様の心に自分の心を定めるときに、確実に神様の約束に進んでゆくということ。困難を経験することにより、私たちは自分の力のなさを思い知らされます。しかし、神様は広く、大きく、高いお方なのです。

 

現在のイスラエルについても語られました。大変な中にありますが、彼らが「イエスは主です」と悔い改め神様に立ち返る時が必ず来るということ。凄まじい戦いを見ているとそれは不可能のようにも思われますが、落胆することなく、イスラエルの悔い改めのために祈りを積んでゆくこと。

天の御国は必ず来る!という大きな希望、イエス様を見上げつつの希望の中での今日を祈りつつ生かされたいと願います。

 

「イエスキリストは昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。ヘブル13章8節 聖書」

 

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