二宮の住宅街を散歩をしていると絵に描いたようなしっかりとした枝をつけた木に、美しく立派に咲く薔薇を育てておられる家が何軒かあり「わあすごいなあ」と思わず立ち止まってしまうほどです。やはり地植えは違うなあと感心します。我が家はプランターなので細い枝ですが、それでも美しくピンクのバラがいくつか咲いて目を楽しませてくれます。🌹☺️

日曜学校では暗唱聖句競争というのをやりました。身体の運動並みに頭で運動しみんなでドキドキ、ワクワクチームごとに発表、盛り上がりました。大人も必死でした。記憶力が良くなりました。・・・😆


さて、今日はペンテコステを記念する礼拝をもつ一日でした。

礼拝の前の日曜学校でもペンテコステの意味について学びました。

ペンテコステ。キリストは、十字架にかかられ、墓から三日目によみがえり、40日間弟子たちの前に現れてくださいました。そして弟子たちに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。・・・聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と約束をして、天に昇っていかれたのです。イエス様からの約束を待って、弟子たちは集まり、百二十人ほどが集まって毎日祈りました。一日が過ぎ、二日が過ぎました。まだ約束の聖霊は与えられません。三日目。四日目・・・そして十日目。使徒たちが皆で心を一つにして祈っていると、強風のような響きが家全体にあり、炎のような舌が分かれて現われ、一人ひとりの上に留まったのです。そして皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせてくださるままに、他国の色々な言葉で話し始めたのです。(使徒2章1〜4節より)

1節には五旬節の日に、と記されています。

これは、約紀元前1446年に、モーセをリーダーとして苦役を強いるエジプトからイスラエルの民が脱出したのちに、紅海を渡る奇跡を通り、モーセがシナイ山で神様から直接「十戒」の戒め、つまり神の言葉を受け取った日を覚えて皆で集まり祝った五十日目のお祭りでした。

これと、イエス様がよみがえり昇天されるまでの四十日と、それからエルサレムで皆が心一つにして約束の聖霊を待っていた十日間をたすと五十日になるということ。

子どもたちとこのことは決して偶然ではなく、イスラエルの民に「神の言葉」が与えられた日と、神を信じる者に「聖霊」が与えられる日が、ともに五十日目であったことに素晴らしい神様のご計画があることに思いを馳せました。☺️

ペテロさんは、イエス様が十字架にかかる時に、「イエスなど知らない!」と3回も否みました。しかし、この聖霊が降ってくださってから、イエス様の福音を大胆に語る者へと変えられたことを学びました。礼拝でさらに詳しくペンテコステについて学びました。

 

礼拝では、油井義昭先生が来てくださり、メッセージを語ってくださいました。「聖霊の降臨と教会の誕生」と題して使徒の働きより。

❶聖霊の降臨

 その時と場所についてです。「五旬節の日になって」と1節に記されています。

この「日になって」という言葉はギリシャ語で「スンプレルースタイ」という言葉であり、スンプレローという原型の変形であると語られました。それをそのまま訳すと「日が満ちて」であり、つまり「五旬節の日が満ちて」という言葉になります。

ペンテコステには長い準備があったのだと語られました。モーセが率いたイスラエルの民がシナイ山で十戒が与えられた日が五十日目であったことも覚えつつ、さらに原始福音について語られました。すなわち私たちを罪と死の縄目から救ってくださる救い主が与えられるという預言が一番初めに与えられたのは「創世記3章15節」であるということ。

そこにはこのみことばがあります。

「わたしは敵意を、おまえと女の子孫の間におく。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

神様の命令を破り、堕落したアダムとエバに対して、語られた後に、神様がヘビ(サタン)に対して、言われた言葉です。「わたし→神様」「おまえ→サタン」「女の子孫→メシヤ」つまり「メシヤである救い主キリストがサタンの頭を踏みくだくであろう」と神様は預言・約束を与えられたのです。そこから約4000年の後に、ついに、神の御子キリストがこの世界に生まれてくださり(クリスマス)、そして33歳で十字架にかかられました。

十字架にかかって、私たち人類の全ての罪をその身に引き受けられるために生まれてくださったイエス様に対して、サタンは、最後まで抵抗し、「十字架から降りろ!降りろ!」と盛んに言ったのだと語られました。(マタイ27章40節)

 

この十字架刑で死なれる瞬間のイエス様の言葉に注目しました。それは「完了した」というお言葉です。この創世記の3章で神様が人間を救済するために立てて下さったご計画と約束・預言を、御子であるイエス様が「完了」してくださったのです。預言が成就されたのでした。

 

エゼキエル36章27節には「わたしの霊をあなたがたの内に授けて、わたしの掟に従ってあゆみ、わたしの定めを守り行うようにする。」

ヨエル2章28節には「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。

あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」とあります。この聖霊降臨の予言を神様は与えてくださっていたのです。

 

イエス様はよみがえられた後、ルカ24章49節において「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」と言われました。

使徒たちはその言葉に従い、10日間の間祈り会を持っていました。

イエス様がくださった約束を待ち望んだのです。その期間は弟子たちの心を謙遜にさせたのだと語られました。

弟子たちは祈るごとに、自分たちがいかに福音宣教に不適格であることを示され、自分がどんなにわがままで、不信仰で、無であることかということを自覚させられたのではないか、と。

それこそが、御霊なる聖霊を迎えるための尊い「心の準備」であったのだ、と。

 

そこには、使徒たちを含めて120人の人々がいたことが使徒1章15節に記されていますが、そ中にイエス様の弟たちである「ヤコブ」「ユダ」(のちにヤコブとユダの手紙をそれぞれ記しています)がいたのだと語られました。

イエス様が30歳になって、家を出られ公生涯に入られた後、

さんざん「兄ちゃんよ!」と兄であるイエス様を侮っていた、そのような弟たちだったのだと語られました。

その彼らが、この聖霊の働きによって変えられたのです。

これはキリスト教の強力な証となったと語られました。

 

ガラテヤ4章4節に「時が満ちて」という言葉がありますが、このペンテコステの日に、まさに「時が満ちて」聖霊の注ぎがなされ、使徒の働き2章の2〜4節にある強風と炎のような舌とともに御霊が注がれ、見えない神様が「行動なさる神」として生き生きと120人の上に注がれたのです。大いなる聖霊のバプテスマを受けたのです。

ヨハネ3章8節には「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのかわかりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」と書かれています。

エペソ5章18節には「葡萄酒によってはいけません。そこには放蕩があるからです、むしろ聖霊に満たされなさい。」と書かれています。御霊に満たされるとは、ギリシャ語で「プレーロオー」🟰「人の思いを全く支配してしまうこと」満たす、ということなのだと語られました。

 

聖霊に満たされた使徒を含めた人々は、聖霊が語らせてくださるままに他国の言葉で福音を語り始め、世界の様々な国から来ていた人々は自分の国の言葉で、無学な使徒や人々が語っているのを聞き驚き呆れて「彼らは酒によっているのだ」と言ったりしました。(13節)

その彼らにペテロは「酒によってなどいない。これは預言書にあることが成就されたのです」(15節)と決して恍惚状態によることではないと語ってゆくのです。

 

酒に酔うと人の知性・感情はコントロールを失ってしまいます。しかし、聖霊に満たされるときに、人は、知性においても感情や意志においてもしっかりして、何よりも、自分の罪がはっきりわかりコントロールが効くように変えられるのだ、と語られました。

聖霊の満たしによって、キリストに満たされ、キリストに信頼し生きるように私たちは変えられ、イエス様との個人的な結合・絶え間ない信頼と従順のうちに多くの実を結ぶことになるのです。(ヨハネ15章5節)

ガラテヤ書2章19節の「キリストと共に十字架に付けられ、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」というパウロの告白のようにされるのです。

自我と罪を追い出し、神にある聖さと義と神様への服従が心を支配するように変えられる。喜びに満たされ、神様の愛が注がれてゆくのです。(ガラテヤ5章22ー23節)

 

❷明確な入信

 

使徒2章37節〜ペテロの語るヨエル書の預言の成就と、メシヤ予言の成就によるキリストの救いなど、説教を聞いた聴衆は自分たちがキリストを十字架につけた張本人なのだということに気づき、悔い改め、ペテロの勧めるように洗礼をうけました。まさに聖霊の働きです。

 

ペテロの説教の中心は「キリストは聖霊を受ける方であり、聖霊を授ける方である」ということ(2章33節)でした。

聖霊の「内住」英語でこれは indwelling という言葉であると語られました。

人がキリストを知り、告白できるのは聖霊の働きであり(第一コリント12章2節)

全ての霊を見分ける指標はここにあるのだ、と語られました。聖霊に導かれなければ、私たちは「イエスは主です(イエス=キリスト)」と告白できないのだ、と。

この告白が公になるのがバプテスマです。人々は自分の罪を強く示され、イエスキリストを自分の救い主として信じ受け入れることを告白し、この日3000人もの人がバプテスマを受けたのです。

 

罪を認めさせる働きは聖霊によるもので「私は罪人であると認める」ということ、認罪は聖霊によって促されるものなのです。

「罪」とは、「犯罪」の罪でなく、自分の内側にある「本質的な罪」についてであり、それに対して悔い改めの心が与えられるということ。この聖霊による内的変化により、バプテスマという外的変化が与えられるのです。

 

❸生きた礼拝

41節に「3000人ほどが仲間に加えられた」とあります。彼らは「いつも使徒たちの教えを守り」と書かれています。つまり、教えられなければ、わからないということを認め、権威を与えられている使徒により教えられ、使徒的共同体としてパンを裂き(聖餐の恵)祈り、霊的訓練を受けたのです。

 

❹教会の誕生

43〜47節にはこのようにして初代教会が誕生したということが記されています。

聖霊による一致が与えられ、それぞれが与えられた賜物を用いあい、宮に集まり、神様を礼拝することになったのです!

聖霊降臨日は、教会の誕生日ということになります!☺️

聖霊により、キリスト者は強められ、教会が成長し、キリストの花嫁として栄光から栄光へとキリストに似たものとして変えられてゆくのです。

 

今日はメッセージの導入に「炎のランナー」のモデルとなったエリック・リデルについて語られて嬉しかったです。私個人にとってもこの映画は、人生の大きな転機のきっかけとなった映画です。エリック・リデルは1902年に生まれたオリンピック陸上選手でした。

ケンブリッジの4人の若き陸上選手が活躍する華やかな舞台。しかし、競技日に近づく頃、100メートル走に出場するエリック・リデルは、その日が日曜日であることを知ります。彼は陸上選手であると同時に青年宣教師でした。すでに練習や備えのための3年という期間の間に、オリンピック出場のために教会の奉仕の中で多くの犠牲を払っていましたが、安息日に競技があるということは彼にとって決定的な大きな悩みとなり、彼は「出場しない」という決断をするのです。イギリスの皇太子が説得に来ましたが、それにも応じませんでした。団長にも妙案が浮かばぬ中で、出場仲間のリンジーという選手が「自分の400メートルは日曜日ではないから、エリックと交代する」と提案したのです。それならば、信仰を守ることができる、とエリックは感謝してその申し出を受けました。

 

当日。エリックは400メートルの予選を勝ち抜き、決勝に出場します。

この時に、エリックにある人が紙切れを渡しました。なんと書いてあったか。

「第一サムエル記2章30節 わたしを重んじる者をわたしは重んじる」神様の言葉です。

(後で油井先生に教えていただきました。「この紙切れが渡されたという話は映画にはなかったでしょう?」と。

油井先生が1970年アズベリー大学で学ばれた時に、かわばたさんという友人がイギリスでこんな素晴らしい証があったんだ!とこの話を教えてくれた時に、エリックが手渡されたという紙切れのことを伝えてくれたそうです。その大分後の1982年にこの話が映画「炎のランナー」として制作されたのだそうです!!)

 

エリックはメダルを得ましたが、この時の「私は神の言葉を伝えるために召されたが、同時に速い脚も授かった。走る時に喜びを感じる・・・」というような言葉が、確か映画で流れました。エリックが天を見上げるような姿で走りきるシーンと共に・・・。泣きました。。。感動が蘇ります。

エリックリデルはのちに、中国奥地伝道団の一員として、中国に渡ります。

彼の両親や妹も、宣教師一家でしたが、最後は脳腫瘍で敵軍日本人の収容所で43歳の若さで天に召されます。

1948年8月に日本軍は敗戦、ポツダム宣言を受諾。その3ヶ月前にエリックリデルは亡くなっています。

しかし驚いたことに、彼が亡くなったこの日本軍による収容所は閉鎖された後に、霊修院として、キリスト教の神学校に生まれ変わり、福音を伝える伝道の働きにつながりました。

中国には1億人をこえるクリスチャンが生まれ、聖霊の著しい働きを見ます。

このための一粒の麦として、エリックリデルが用いられたことが語られました。

 

聖霊の大いなる働きが今も続いていることを覚えつつ今週の日々の歩みがみことばと祈りのうちに大いに導かれてゆきますように。感謝して

 

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。第二コリント3章18節     聖書」

 

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