ナスタチウムの花を摘んでいたら蜂🐝に追いかけられ😖、家に入ろうと思ったら、玄関先にナメクジ😟同じく玄関に見つけたアゲハ蝶の幼虫は唯一、我が家の居住許可が出たにも関わらず、次の日にワクワク探したら、もうどこかへ引っ越した後でした。😔
虫たちも元気に活動、忙しい5月です☺️
さて祈祷会のメッセージはヨシュア記12章に進んでいます。
これまでの総括と言っても良い箇所です。神様がカナンの地をイスラエルの民に与えてくださると言われて、イスラエルの民は40年前の過ちを繰り返さないようにと、右往左往しつつもエリコの町を皮切りにカナンの地を次々と征服して行きました。
1️⃣1ー6節
ここにおいてヨルダン川の東側の二人の王の名が挙がっています。
ヨルダン川の南を治めていたアモリ人の王シホンと
ヨルダン川の北を治めていたバシャンの王オグ。
この二人の王との戦いはモーセが生きていた時代で、申命記2〜3章に記されています。
このヨルダン川に渡る前の領土は遊牧に適していたので、家畜を多く所有していた2部族半がその土地を欲しいと申し出ました。ルベン族とガド族とマナセの半部族です。
彼らは、その地を所有するにあたり、ヨルダン川を越える時は、他の部族ととともにカナンの地での戦いに先頭に立って出るという約束を守り、戦いに出ました。
この二人の王が討ち破られたことにより、カナン人の心は揺り動かされました。
エリコの町に偵察に送られたイスラエルのスパイたちは、イスラエルの神を恐れるラハブによって匿われ、ヨシュアたちを騙してでもイスラエルの神の憐れみにすがりたいと偽装したギブオン族は生きながらえることになりました。
イスラエルの民が不思議な神の力によって、勝利することによって、神を知らない民たちが神を知り、神の家族に入れられることになったのです。
私たちもまた、そのような「証」として、用いられるのだと語られました。
神の選びによって召され、その憐みの中で生かされるキリスト者には、神様は素晴らしい奇跡・恵みを行われることがあります。そのようなことが起こるときに、神様は私たちを通して「神様がどれだけ偉大で、どんな力を持っておられるのか」それを明確に示してくださろうとしているのです。そのようなことが起こるのは、まさに証のチャンスであることも覚えます。
キリストに従う私たち一人一人が、全知全能の神様の素晴らしい御わざに預かったのはいつのことでしょうか?すごいと言われることだけを求めるとそれは神秘主義に傾いてしまいます。神様を信じるということ、これ自体が奇跡です。昨日も、今日も、明日も変わらずに生きて働かれる神様。その神様にあって、一日一日を生かされることは不思議なことであり、神様が定めておられる一つの命をいただいて、歩ませていただいている。神様との交わりが与えられている今、私たちは、常に私たちのうちで力強く働いてくださる主をいつも証する者でありたいです。
2️⃣7〜24節 と13章1節
ここにはなんと31名の王たちの名前が挙がってきます。ヨシュアが指導者になってから、滅ぼした王たちの名前です。
このようにして、モーセとヨシュアを通して、神様がカナンの地に成し遂げられた御業が記されているのです、
この次にくる13章を境にして、ヨシュア記は前半と後半というように分かれるそうです。
12章までは戦いの歴史であり、一戦一戦が真剣な戦い、神様の約束を見る戦いでした。
簡単に勝利したわけではありません。
エリコの町が陥落した後、油断した民はアカンの罪を見落とし、アイの町に一度敗北。
再度立ち上がり攻略・・・・。
私たちの人生もまさにこのように戦いの連続では?と語られました。
決して平凡ではありません。
霊的な戦いが繰り返されているのです。真剣に生きることが常に求められているのです。
13章1節を見ました。
「ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。主は彼に告げられた。「あなたは年を重ね。老人になった。しかし、占領すべき地はたくさん残っている。」
南部・北部・中部・・・。といくつかは占領したがカナンの地全土ではありませんでした。しかし、この多くの戦いのなかでヨシュアは老人になっていたのです。
多分100歳くらいになっていたのでは?と語られました。しかし、神様は
「まだ、仕事は多く残っている」とヨシュアに言われたのです。
ヨシュアはその後110歳まで生きたと記されているので、この時点で後10年残っていたことになります。
ヨシュアにはそれは知らされていはいませんでしたけれども、
✳︎残されている「あと10年」をどいう生きるべきか?✳︎
これは私たちへのメッセージでもあります。
「占領すべき地は残っている。」神様の言葉です。
私たちは「人が」ではなく「神が」何と言われているかを聞くべきなのです。
「神様の御心がある」ということ。
モーセとヨシュアに与えたミッションはまだ終わっていないのです。
「あなたは年をとったかもしれない。しかし、あと10年。わたしがあなたに与えようとしている祝福がある。まだ戦っていかねばならない」と。
第二コリント4章16節には
「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」と記されています。内なるものーそれは見えませんが、衰えていないのです。神様は、ご自分に忠実に従う者に命の息吹を吹き続けられるのです。
神様が与えてくださっているミッション。
神様は「まだ救われていない魂の獲得に奮闘せよ」と語られるのです。
まだ終わりの日は来ていません。
自分の衰えを理由に無理というのではなく、神様の御心がこの地上に成るようにと、福音宣教・神の国の到来の日のために全力で臨むこと。
ここで、興味深いことがあると語られました。
この1️⃣1ー6節と2️⃣7−24節を比べたのです。
1️⃣はモーセが生きている時に、ヨルダン川の東において征服した町の数。2部族。
2️⃣はヨシュアが新体制のもとでヨルダン川西において征服した町の数。実に31部族。
一体この数の違いは何なのでしょうか?と語られました。
申命記3章10節には「モーセのような指導者は、もうイスラエルには起こらなかった」と聖書は記しているのです。
神様の視点において、モーセは最高の指導者と言われたのです。
もちろんモーセも失敗しました。しかし、神様のお言葉の中で「モーセよりも優れたリーダーはいない」最高の指導者だと言われたのです。
ですからヨシュアは恐れました。そんな偉大な指導者の後に、自分などがリーダーを務められるのか、と。
では、なぜ、モーセは2部族で、ヨシュアは31部族も征服できたのでしょうか。
ヨシュアが優秀だったからとは言えないのです。この差はなんなのでしょうか?
それは「ヨルダン川を渡ったか・渡らないかの違いのみ」なのだと語られました。
ヨルダン川。それは物理的なことでなく、霊的な意味を指します。
イスラエルの民はかつてエジプトの支配の中・苦役に苦しんでいましたが、モーセを通して神様は彼らを救い出されました。救われた彼らが次に目指すべきものは「約束の地カナンの地に入ること」でした。そのためには彼らはヨルダン川を渡らねばならなかった。彼らが神様を信じて一歩踏み出し、そしてヨルダン川を渡った時に、神様からの約束の地が彼らのものとなったのです。
ここから学べることはこのことです。
私たちは、かつて罪と死の支配に苦しんでいました。しかしキリストを通して、イエス様が救い主であることを信じ洗礼を受けたものは永遠に生きるものとしてそこから贖い出されたのです。そのような私たちの前に「約束」として与えられるとされていたものこそが「聖霊」です。
私たちが信仰を持つときに、聖霊が与えられます。しかし使徒19章1〜3節を見ると、信仰を持っていても聖霊を受けていたことがわからない人々がいたことがわかります。
イエス様を信じている。しかし聖霊がわからない。パウロはそのような人々に、聖霊について語り、主イエスの御名によってバプテスマを授けると聖霊が臨まれ彼らは異言や預言を語りました。
イエスキリストを信じるなら天国に行くことができると知り、信仰によってイエスキリストを信じ受け入れても、聖霊の恵と力がどれほど素晴らしいものかを知らずに歩んでいる人たちがいるのだ、と語られました。
イエス様はヨハネ7章37〜38節において、
「誰でも渇いているなら、わたしの元にきて飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われています。
心の内側、腹の底から、聖霊が流れ出るようになる、という意味です。
私たちのヨルダン川。それは聖霊を知り、認め、この方に全権を委ねるあゆみに踏み出すということなのです。
ヨルダン川を渡り、ミッションを全うすべく、あゆみを強められたいと願わされたことです。
「皆の益となるために、一人一人に御霊の現れが与えられているのです。
ある人には御霊を通して知恵の言葉が、
ある人には同じ御霊によって知識の言葉が、
ある人には同じ御霊によって信仰、
ある人には同一の御霊によって癒しの賜物、
ある人には奇跡を行う力、
ある人には預言、
ある人には霊を見分ける力、
ある人には種々の異言、
ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
同じ一つの御霊がこれら全てのことをなさるのであり、
御霊は、御心のままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。
ちょうど体が一つでも、多くの部分があり、体の部分が多くても、一つの体であるように、キリストもそれと同様です。第一コリント12章7〜12節 聖書」
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