焼き付ける太陽と海!二宮です。
暑いけれど見上げると綺麗な青空。そして美しい鳥の声が響きます。
祈祷会のメッセージは、ヨシュア記20章まで進んできました。
ここは「逃れの町」についての記述です。
逃れの町とは?誤って人を殺してしまった人が逃げ込む町、だというのです。
ヨシュア記の1〜19章まで、相続地についての記載がされていましたが20章にきて
「逃れの町」について神様がヨシュアに告げるのです。
この町を設置することは神様の御心の中で大切なことなのだ、と。
神様は、誤って人を殺した人を守ることを大切にされるのだというのです。
過失によって誤って人を殺してしまった人が「逃れの町」に逃げ込み、その町に入ってから、その真偽が問われ、真実ならば、復讐する人がおってきたとしてもその人を決して渡してはいけない、公正な裁判を受けるまでしっかりと保護しなければならない、と記されているのです。
過失なのか、故意なのか。それがはっきりと分けられ、動機と手段が判断されてそこに憎しみ・悪意・敵意があったのかを調べること。
またその町の大祭司が死ぬまでそこに住み、そのあとで、自分の町や家に帰ってゆくことができる(6節)。とそのように詳しく決め事が記されているのです。
この聖書の記す真理とは、ここで「大祭司」とされているのは、私たちにとって「イエス様ご自身」であることを覚えなければなりません。
祈祷会でレビ記・民数記・ヨシュア記・・・と罪の贖いについて見てきました。
人は自分の罪の贖いのために、生贄を自分の代わりに捧げることにより、神の赦しを与えられてきました。しかし、イエス様がこの世界に来てくださってから、私たちすべての罪を一挙にその身におってくださり、私たちは、イエス様の十字架によって、どんな罪をも神様に悔い改めるときに、赦していただけることになったのです。
この逃れの町のことを見るときに、私たちは、「罪を犯した時にどこに逃れるのか」ということを再確認することができます。
神様を知らない人は、罪や失敗をした時に、それを隠そうとして、環境を変え、場所を変え、なんとか自分の力でかくし、逃げようと試みます。しかし、犯した罪・事実はいっこうに変わらず、逃げ切れていると思っても、問題は残ったままで、変わらない。やり直すことはできないのです。
自分の力ではどうしようもない。これが私たち人間の現実です。
私たち人間にはどうにもならない。だから、それを解決できる神様が、ご自分の一人子イエス様をこの世界に送ってくださったのです。解決できるこのお方を十字架にかけ、その十字架にすがる私たちの罪を帳消しにしてくださったのです。
私たちはどこに逃げ込んだら良いのか。
それはこの十字架です。問題を抱えたら、持ってゆくべきは「十字架」一つなのです。
詩篇46篇1節にこのような御言葉があります。
「神は 我らの避け所 また力。
苦しむ時 そこにある 強き助け 」
聖書には 「軽い罪」「重い罪」という記載がないのをご存知ですか?
聖書は「罪」と一言記すのです。
人から見て、軽いと思っても、重くても、そこには贖い・神様との和解のための贖いがなければ、ずっと神様とあなたの関係は絶たれたままなのです。
「罪からくる報酬は死です」という聖書のみことばがあります。報酬とは何かをすれば、何かを受け取る、という意味ですが、私たちが「罪」を犯したら、私たちは「死」に飲み込まれるのです。
この罪とは、何か法的に犯すというものにとどまらず、本質的な問題。
神様を無視したような「的外れな」生き方、神様を否み、拒み、関係が絶たれたままで平気で生きているその状態なのです。
この20章で、逃れの町が6ヶ所備えられていることを見ることができます。距離を測り、逃れの町を均等に置いたのです。
失敗してしまった者をなんとしても守ろうとされる神様の愛を見るのです。
たまたま新聞で、運転のプロであったはずなのにブレーキとアクセルを踏み間違えるという過失で仕事中に人を誤って引いてしまった人の裁判についての記事を読んで、心が痛みました。「自分の不注意で亡くなった方の未来を潰してしまい、遺族から築き上げてきたものを奪ってしまった」と絞り出すような声で後悔の念を口にしたとありました。
人間の愚かさ、弱さと失敗。
私たちは不完全な存在で、力があると思っても、ない。弱い存在です。
神様がそんな弱き私たちの隅々のことまで、心配してくださり、助けを用意してくださっていることを覚え、そんな神様の愛に、ただすがる者でありたいです。
最近皆で口にしますが、一人で読んでいるとわからずに飛ばし読みのようなことをしてしまいがちな私たちですが、聖書の深いところを大事に読み進み歩けることの幸いに心から感謝するのです。
「神は愛です。第一ヨハネ4章16節 聖書」
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