ブラックベリーが少しですが実ってきています。砂糖で煮てみました。種をこすといいですよと聞いたので、こしてみました。どんよりなお天気が続いていますが、酸っぱいものを食べて元気を取り戻したいです♡

礼拝は第二サムエル記の21章から「何を持って宥めを行ったら」と題してメッセージ。

この21章からラスト24章まではサムエル記の「付録」みたいなものという学者もおられるそうで、時代的背景が記されていないため、20章の後に起こったこととは明言できず、さらにこの後の列王記の序論とも言われることもあるとのことです。

 

❶罪を持ったままでは、神の祝福を受けることはできない。

 

1節でダビデの統制の中で3年間の飢饉が起こったことが記されています。

当時のイスラエルは農耕社会。実りが与えられるということは、神様からの祝福の証と捉えられていました。ですから、1ヶ月、2ヶ月・・せめて1年・・・雨が降らないくらいならば、誰も気にも止めず耐えられたのかもしれないのですが3年間雨が降らないとなると、これは、おかしいぞ、なぜ神様からの祝福・恵みの雨が止められてしまったのだ!となるわけです。そこでダビデ王は神様に伺いを立てました。

すると、神様からの応答があったのです。

「サウルとその一族に、血の責任がある。彼がギブオン人たちを殺戮したからだ。」と。

 

このサウルがギブオン人を殺戮したことに関しての罪について、今祈祷会で学んでいるヨシュア記の9章3節が開かれました。記憶に新しいところです。

イスラエルの民がエジプトの奴隷時代から解放され、荒野で38年間を過ごした後、約束のカナンの地に入るわけですが、そこで神様はあらゆる偶像と民が接触しないように、すべてのカナン人を聖絶するように命じられました。ヨシュアをリーダーとするイスラエルの民はそれに従っていたわけですが、ギブオン人たちはイスラエルの民を恐れて、まるで遠い地方からやってきたように偽装し、演じて、自分たちと和平条約を結んでくれるように願い、騙されたヨシュアたちはそれを神様の前で誓って許可してしまったのです。後から嘘を知るわけですが、神様の前で誓ったこともあり、彼らは特別に許可を得てイスラエルの民の中で奴隷として生きていくことになりました。しかし、単なる奴隷ではなく神様への礼拝の民として数えられるように用いられていったのです。そんな恵みをいただいたギブオン人たちに対して、前王であるサウル王は神様への誓いを軽視し、乱暴を働き、残酷な仕打ちをしてしまったのです。それゆえに、イスラエルの地は祝福を失ってしまったのでした。

 

神様はサウル王が酷いことをしたので感情で怒ったのかというとそうではないのだ、と語られました。神様の怒りとは、正義が行われていないことに対する怒りなのだ、と。

神様は「愛」なる方であり、同時に「義」である方です。

神様は正義のお方であり、間違いはないのです。

この地が神様によって創造されたとき、初めに造られたアダムとエバはこの神様の似姿として造られました。それは神様のご性質に似て造られたということです。

罪を持たないものとして造られたのです。ところが彼らに「罪」が入った時から、

アダムとエバ、そしてその子孫であるすべての人間は神の怒りの対象となってしまいました。神の義の基準を守れない存在になってしまったのです。

ですから、そのような私たち人間は、義であられる神様に見捨てられても仕方のない存在でした。しかし、神様はこのアダムとエバによる罪が脈々と流れる人間に、神様に背く人間に、救済計画をすぐに用意されました。それがイエスキリストです。

アダムとエバから約4000年を経て、聖書の預言通りにこの世界に神の御子イエスキリストが生まれてくださったのです。今から2000年前のことです。

100%神様であられ100%人となって生まれてくださったイエス様。

罪を一つもお持ちではないイエス様。

このイエス様が十字架にかかって、死んでくださったのは、そのイエス様を自分の救い主と信じる者に、永遠のいのちを与えるためでした。

大きな犠牲を払って死んでくださったイエス様によって、神様ご自身の「義」は満足させられたのです。

ローマ兵によって殴られ、なじられ、罵られ、唾をかけられて

「我が神、我が神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と十字架の上で叫ばれたイエス様。このイエス様の血潮によって信じる私たちは、永遠の命をいただいたのです。

 

戻りますが、ギブオンの人々は、ダビデ王に呼ばれて「何をなすべきか」と尋ねられました。すると彼らは「お金は入りません。イスラエルの他の人々の命も欲しません。しかし、サウルの一族の者たちを根絶やしにしてください」と答えました。

彼らは仕返ししたいのでもなく「罪を犯した人たちの子によって償われるのだ」といったのです。報復しないといっているのにおかしいのではないか、と考えます。

しかし、彼らの問題としているのは、神様の前で結ばれた契約がいとも簡単に破られ、それゆえに地が汚れたのだと、だからもう一度神の祝福の中に戻る必要があるのだ、と主張したのです。民数記35章33節に神様の命令が書かれています。

「あなた方は自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地にとって、そこで流された地は、その地を流した者の地以外によって宥められることはない。

あなた方は、自分たちの住む土地、わたし自身がそのただ中に宿る土地を汚してはならない。主であるわたしがイスラエルの子らのただ中に宿るからである。」

創世記9章6節には

「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。」

償いというのは同等のものによってしか贖われないのだ、と書かれているのです。

それは人数や他のものでなく、成されたことに対する同等のものだというのです。

ギブオン人がこのような神の民に与えられた律法をよく理解し、そのことを主張してきたことにまず驚きます。彼らは、礼拝に生きる民に入れられてから律法をもよく学んでいたに違いありません。

彼らのいうとおりにダビデ王は取り計らい、サウルの子・孫を七人差し出し、ギブオン人は彼らを処罰されます。義であっても悲しいことです。

処罰された子の母はどんなに辛かったでしょうか。昼も夜も空の鳥や野の獣が死体に触れないように守ったと記されています。

ダビデ王はそれを聞いて、サウル王とヨナタンの骨と共に彼らを埋葬しました。

イスラエルの民は、このことを悲しみ、神様へ悔い改めの祈りをしました。

14節には「神はこの国の祈りに心を動かされた」と記されています。

 

❷神様と正しい関係を持ちましょう

 

15節からは年取ったダビデ王👑の話です。

戦士ダビデでしたが、疲れてしまって、ペリシテ人との戦いの途中、命の危険にさらされます。すると勇士アビシャイがダビデ王を助けます。この時にダビデの部下たちは

「あなたはもうこれから、我々と一緒に戦いに出ないでください。あなたがイスラエルの灯火を消さないために」というのです。(17節)

高齢になって、まだまだ頑張るぞと威勢を張って頑張ろうとする人々には少し耳の痛い話かもしれませんが、年齢とともに、老いを感じ、一線から退くことが大切なこともあるのですね。それがその人と、また周りのためになることがあります。

 

ここで素晴らしいなあと思うことは(15〜22節)アビシャイとか、シベカイとか、エルハナン、ヨナタンといった物凄く強い戦士がイスラエルの中で続々と育ってきているということです。20節には手の指、足の指がそれぞれ6本ずつ、つまり計24本の指の闘志(少年ダビデが倒したゴリヤテの子孫)が敵のペリシテ人にいたと書いてありますが、その闘士をやっつけてしまうほどの強い戦士が出てきたのです。

これは、イスラエルの国が神様によって祝福されていた証でもありました。

新しい人々を次々と興し、祝福を継続させてくださったのです。

 

私たちが祝福を願う時。

神様の前に、ちゃんと罪を解決されているのか、これが祝福の大前提です。

日曜学校でも学びました。

山の上から流れ出る川の流れを、土砂が堰き止めている写真を見ました。

神様の豊かな恵みと祝福は、私たちに大変な勢いで流れてくるものです。

しかし、それを堰き止めてしまうものがあります。

それは「罪」です。この罪があると、豊かな神様の恵みが、流れてこない。

もしも、それを知ったなら、私たちがすべきことは、一つ。

神様の前に、罪を告白し、悔い改めること。なのですね。

 

「神へのいけにえは 砕かれた霊。

打たれ、砕かれた心。

神よ。あなたはそれをさげすまれません。詩篇51篇17節  聖書」

 

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