雨空の下、可憐に咲く花々に心和みます。我が家はカメムシの大量発生に格闘中です💦

終わりかけのいちごも🍓まだ健在のナメクジに食べられてしまいました。よく見かける🐜アリも走っていますね。速度がスピーディーになっていることに驚き・・・。

さて、水曜日はヨシュア記の16章に入りました。

16章・17章はヨセフ族の相続地について記されています。

ヨセフ族は、二倍の祝福を受け、ヨセフの子エフライムとマナセの二つの兄弟の部族に相続地が与えられることになりました。

 

1️⃣前半1〜4節

ヨセフ族(エフライム族とマナセ族)には、イスラエルの土地全体の中で南の部分が割り当てられました。その土地の中央に位置する実に広大で良い土地がこのヨセフ族に与えられたわけです。これは部族長が決めたのでなく、くじを通して神様が彼らに与えられた土地でした。

神のみぞ知る世界。神の御心に従って彼らに与えられた土地だったのです。

神様が彼らにこの一番良い土地を与えたかったのであり、神様が願われたからそのようになったのです。

 

なぜ、ヨセフがこんな恵みにあずかれたのでしょうか。それはヨセフの功績と信仰のゆえだったのだと、それゆえにマナセとエフライムが相続することができたのだと語られました。

ヨセフの人生は「真実な生涯」として、神の前に認められたのです。

 

ヨセフは10代で兄たちに売られ、エジプトでポティファルという主人のもとで奴隷として仕えました。さらに総理大臣になってからも、その権力の座に甘んじず、家族を助けるために、自分にひどいことをした兄弟たちを許し、自ら手を差し伸べてその生活を支えました。その真実を貫き通した生き方を神様はご覧になり「神が共におられた祝福の人生」をヨセフだけにとどめず、子孫にまでその恵みをお与えになっていったのです。

 

ヨセフの記述を通して、私たちも信仰者・キリスト者とされたこの恵みを一代で終わらすことなく、次世代・さらに次の世代へと継承してゆく祝福にあずかりたいと思わされます。

祝福の基として、選ばれ、さらに次の世代へと真実な生き方を目指してゆく。

 

ヨセフを通して子孫に与えられた祝福は、後のキリストの生涯を通して私たちに与えられる祝福を思わせるものだと語られました。

イエス様の公生涯。常に、どれほどまでに神様の御心を行おうと考えられていたことか。そしてそれを実践されていたことか。神様の御心にかなったことしか、神様にしなさいと言われ、神様が願われることしか考えておられなかった。愛深き人格者であられたのです。

イエス様のご性質は神様の本質を表されていました。

イエス様は「わたしを見た者は、わたしの父であられる神を見たのです。わたしと父は一つだからです。」と言われました。

神様の御心に100%従っておられたイエス様だからこそ、このように言い切ることができたのです。

 

ヨセフの真実な歩みに神様が応えられたように、イエス様の名を信じた人々には神様の子とされる特権を、神様は与えると約束されました。

神様ご自身の「子」としてくださる祝福。

神様を「お父さん」と呼ぶことのできる祝福を与えてくださると言われたのです。

あなた方は子とされたのであるのだから「わたしの名によって願うものは何でも神様から与えられる」とイエス様は言われました。

キリストご自身が、ご自分を「無」にして、徹底的に神様に従った祝福を、キリストの名を信じた私たちは受けてゆくことができる。何という素晴らしい祝福でしょうか。

 

2️⃣後半5〜9節

ヨセフ族の相続について、まず、弟のエフライム族の割り当てが書かれています。

次男が最初にされているのです。これは創世記の48章を読むとわかることですが、

ヨセフの父であるヤコブ(イスラエル)は、ヨセフが前に連れてきた二人の孫息子👦👶を前にして彼らに手を置いて祝福しました。当時は右手が祝福の手であったようです。

その際ヨセフは、父ヤコブが間違うことがないようにとヤコブの右手に息子マナセが来るように、二人の息子👦👶を並ばせたのです。ところが!!!!

ここで😳びっくりすることが起こりました。何と父ヤコブは、孫息子👦👶の頭の上に手を交差させておいて祝福の祈りを始めたのです。

驚いたのはヨセフです!「お父さん!違います!間違えてます。長男はこっちで、次男はこちら」とヤコブの手を引っ張って🫴直そうとしました。

ところが、ヤコブはそんなヨセフに言うのです。「息子よ。私にはわかっている。あえてそうしたのだ」

そして次男エフライムの頭の上に祝福の右手をおいて、祝福の祈りを続けたのです。

こうして、ヤコブの祈りの通りに、弟は兄より大きくなり、国々を満たすようになるという「逆転現象」が起こりました。

 

聖書の中には、兄弟が🧑👦たくさん出てきます。

カインとアベル、エサウとヤコブ、

新約聖書では放蕩息子などもそうです。

この兄弟たちは、弟の方に祝福があり、何だか神様が兄よりも弟を選んだり愛されたりしているように思えて来ます。

しかし、それは違います。

そもそも「長子の権利」を決められたのは神様ご自身でした。

神様のルールに則って、長子たちには祝福が与えられていったのです。

ここで覚えなければならないことは「一旦決まってしまったことは変えられない訳ではない」ということなのだと語られました。

 

神様の恵み・お取り扱いは、一方的なルールによってではなく、一方的な恵みのゆえに、次男が選ばれていくことが起こったのだ、と。神様の恵みからこぼれてしまうように思えるような人にも神様は祝福を与えられる方なのだ、と。

神様は人間的な優越で恵みや報酬を考えられるのではなく、どんな立場であっても、愛し恵みに入れてくださる主であることを覚えたいのです。それゆえにへりくだることが非常に大事なこと。。。

 

3️⃣ヨシュアが特筆すべきこと10節

 

この10節にはゲゼルに住むカナン人を、エフライム族が追い出さず、彼らを奴隷として住まわせたということが記されています。

そこに住んだ「カナン人は、強制労働に服すことになった」という言葉で締めくくられているのです。

さらっと読んでしまう一節です。

ところが非常に大変な事実がここにあります。

 

神様にヨセフからの祝福・恵みを受け継いだエフライム族でした。

しかし、ここで神様の命令に反しているのです。

 

神様は「聖絶せよ」と命令されたのに、彼らは自分たちの勝手な判断で、カナン人をそのままそこに残したのです。

つまり、そこに神様以外の「宗教」を残すことになったのです。

こうしてエフライム族は神様の民なのに、やがて神様を否むようになっていきました。

 

神様はこのような問題を見越しておられたので、カナンの地から、完全に彼らを追い出すようにと命じられていたのです(聖絶)。しかし「私たちは、ここまで従ったから」と完全に従わなかった。

従ったふりをしている状態を続けたのです。聖絶せよと命じられたのに「この辺でよし」と妥協してしまった。

 

イスラエルの歴史を紐解いてゆくと、約束されたルールに従わなかったゆえに、今に至るまで問題が起こっていることを私たちは見るのです。

つまり、先祖がやり残してしまったことを、子孫が負っていくということ。

世界中がそれを目にして考えさせられる「今」なのです。

 

私たちもここから学ぶことがあります。

第一ペテロ2章11節にはこのようなみことばがあります。

「愛するものたち。私は勧めます。あなた方は旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」と。

私たちは一時的にこの世界に命を置かれている存在であり、キリストを信じる者が永遠に置かれているのは、天なのです。この世でどう生き、振る舞うのか。

私たちが魂に戦いを挑んでくる肉の欲を避けるとはどういうことなのか。

それは単なる禁欲主義という生き方ではありません。

罪によって堕落した人間の本質を持った哀れな己を、十字架によって全てを負って下さったキリストによって赦されたことを覚え、古い罪の性質から解放された者であることを自覚して生かされるということ。

 

コロサイ3章5節にはこのようにあります。

「ですから、地にある体の部分、すなわち淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」

 

神様は、私たちに戦いを挑んでくるような罪を、殺せ!聖絶せよ!と命じられるのです。

「大体でいいよ、罪と妥協して、共存して生きなさい」とは言われないのです。

殺せ、そのような誘惑を絶て!と言われるのです。

もしそこにチャレンジしなければ、私たちは、エフライムの人々と同じなのです。

 

当面はとりあえずコントロールできているように思えても、その「欲」を残しておくゆえに、次から次へと起こってくる問題に悩まされ、やがては祝福を失ってしまう。

 

私たちは、私たちのたましいが勝利するために、この戦いを決して放棄してはならないということ。

イスラエル民族は、やがて、ユダ部族以外は皆、北イスラエルとなり滅ぼされ、ユダ部族だけが残ったのです。

「ここで決断したことが、後を決めてゆくことにつながった」ということを見て、改めて考えさせられることです。

神様の前に、祝福を受け取ってゆく歩みを私たち自身が選び取ってゆくということを、しっかりと考えてゆきたいと思わされたことでした。

 

「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。コロサイ3章2節 聖書」

 

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