紫陽花の上をツバメが忙しそうにとび、ウグイスの鳴き声も聞こえてくる6月も後半。梅雨入りと思いきやもうそこら中でひまわりの花が元気に咲いているのを目にして、季節が巡るその速さに驚かされるここ数日です。

さて、礼拝はダビデ👑と息子アブサロムの戦いが佳境に入ってきました。

❶ダビデとヨアブの違い

 

ダビデは1節で、自分と共にいる兵を調べました。そして戦法として、千人隊長、百人隊長を任命していきます。

兵の三分の一を、ヨアブの指揮のもとに

兵の三分の一を、アビシャイという、ヨアブの兄弟の指揮のもとに

兵の三分の一を、イタイというガテ人の指揮のもとに配置しました。

 

ダビデ👑は、身内のみでなく、ガテ人を起用しました。

ガテ人とは、元々はルーツを辿るとペリシテ人であったことが語られました。

イスラエルと敵であったペリシテ人の間には長い間戦いが続きました。

しかしそんなガテ人出身のイタイを隊長に任命したことを見ると、いかにダビデ👑という人が懐の広い人であったかがわかるのだと語られました。普通は自分の身内だけで周囲を固めてもおかしくないわけですから。

 

ダビデは自分もこの戦いに出てゆくことを伝えます。しかし、兵士も隊長もこぞってダビデに反対しました。「あなたは私たちの1万人に匹敵するのです。あなたが死んでしまったら全てが終わってしまうのです」と。

ダビデはそんな彼らの言葉を聞き、戦いに出てゆくことを思いとどまるわけですが、

皆の前でこの三人の隊長に一つのことを願うのです。

「どうか私に免じて、息子アブサロムを緩やかに扱ってくれ」と。

殺さないでくれ、助けてくれ、という意思を直接的ではないけれども伝えたのです。

 

ダビデ👑は、城にも帰れず、安心して過ごすこともできないのに、敵となってしまったアブサロムの死を決して願わなかったのです。それは息子アブサロムを愛しているゆえでした。自分の軍の勝利を願いつつもアブサロムとの和解を願い待とうとしていたのです。

私たちもまたこのようなダビデの愛に学ばされます。家族や友人。たとえ関係が悪くなったとしても、相手のために祈り、待つこと。。。。

 

6節以降では、戦いがダビデ👑軍に有利に進んでいっていることが記されています。森に熟知しているダビデ軍。ゲリラ戦となった今、密林でアブサロム軍は方向感覚を失い、食物も得られず、壊滅的になっていきました。

そんなアブサロムが9節でバッタリ、ダビデ👑軍の家来たちに出会してしまいました。アブサロムは逃げます。しかし、彼の豊かな髪の毛が、樫の木に引っかかり、彼は宙吊りになり、乗っていたラバ🫏は、そのまま行ってしまった(9節)と書かれています。

 

それが兵士によって見つけられました。

見つけた兵士はすぐにボスのヨアブのところに。彼は、自分の手でアブサロムを殺すことなく、まずヨアブのところに来たのです。それは、ダビデがこの隊長たちに「息子アブサロムを緩やかに扱ってくれ」と話すのを聞いていたからです。この兵士はダビデの言葉を聞き、ヨアブのこともよくわかっていました。「あなたは素知らぬ顔をなさるでしょうが」と付け加えているからです。もしも、私が手を下したならば、全ての責任を私に負わせるでしょう、と言っているのです。

 

ダビデとヨアブが対照的に描かれています。アブサロムにもまたイタイにも寛容であるダビデに対し、軍の長として仕えていたヨアブは部下からも信頼されていない人物だったのです。ダビデもヨアブについて「私にとって、彼は手強すぎる」と言っています。非常に豪傑であったヨアブは家来たちの心をとらえていなかったのです。家来たちの心はダビデの方に行っていた。ダビデ👑は愛情が深い人であったのでした。

 

はてさて、私たちは、いったいどんな人柄を目指してゆくべきでしょうか、と語られました。

冷たい態度をとる人は、人が離れていきます。しかし愛情深い人のところに、人は寄ってくるのです。私たちが目指すべきは「イエス様」です。

イエス様が、この世に登場してくださる前。民たちは、当時の宗教指導者たちに従っていました。

パリサイ人

サドカイ人

律法学者

祭司たち

です。しかし、イエス様の登場によって、この構図は崩れ去りました。

民の心が、イエス様の方に向かったからです。

ですから、それまで民に尊敬され一目置かれていた宗教指導者たちは、イエス様を妬み、結託してイエス様を殺す相談をし、計画をし、ついには十字架にかけました。

 

どうして人々はそこまで、イエス様に惹かれたのでしょうか。

神の子だったからでしょうか。。

いいえ。「イエス様が愛の方だったから」なのだと語られました。

宗教指導者たちは、律法に生き、それを守るように、正しいことを教え、また自分たちが作った戒めを守るために、汚れていると自分たちが定めた人々に、近寄ることさえしなかった。

一方、イエス様はどうであったかというと、重病人・人々から忌み嫌われている人々のところに自ら出てゆき、癒していかれたのです。

どちらに人々の心が向くかは一目瞭然です。

 

ザアカイの話が出ました。

彼は、ローマの手先になっているとユダヤ人たちに嫌われていた取税人でした。悪知恵を働かせ私服を肥やし、周りの人は誰も彼に近づかなかった。

そんなザアカイの心の中には、ポッカリと穴が開いていた。そして愛の深いイエス様を一目見たいと、通りに出ていきました。背の低い彼は人だかりでイエス様を見ることができない。

大人なのに、木に登ってまで、イエス様に近づこうとした。そのザアカイを、イエス様はふと見上げられて名を呼ばれたのです。「ザアカイ。今日あなたの家に泊まることにしているから」と。声をかけ、家を訪ねてくださったのです。共に食事をしてくださったのです。

 

イエス様の公生涯にずっとそばでイエス様を見て、共に過ごしてきた弟子たちのことも語られました。彼らは、愛の深いイエス様のそばにいながらも常に「誰が一番偉いのか」とせめぎ合っている情けない状態でした。彼らに対してイエス様が「新しい戒めを与えましょう」と切り出されるのです。「互いに愛し合いなさい」と。

私たちは、自分が人を遠ざけるような者であるのか、あるいは人を近づけるような者へ向かっているのか、よく自省し、イエス様に目をあげて倣う者でありたいです。

 

❷どのような死を迎えるか

 

ダビデが緩やかな扱いをお願いしていたのに、ヨアブは迷うことなく、木に引っかかって宙吊りになっているアブサロムを槍で突き、家来とともに、彼を殺してしまいます。

残酷な最期です。

ヨアブ自身が、次の後継者・王として期待して逃亡していたアブサロムをエルサレムに呼び戻したのでした。そうすれば自分の地位も安泰になるであろうと仲介役を買って出たのに、ダビデ王の赦しを得ることもできずに、そんなアブサロムに恨みや怒りの感情もあったのでしょう。そして、感傷的なダビデ王👑の言葉に従うことには、何の解決も得られないと判断したのです。アブサロムが生きていてはイスラエルはどうなるだろう・・・と。

回復を待とうとしたダビデと自分の感情のままに動くヨアブ。ここにも対照的な二人の姿が見えるのです。

 

ヨアブは殺したアブサロムを深い穴に投げ込んで、そこに非常に大きな石塚を築いたと記されています。(17節)この石塚とは、見せしめのためにする行為であり、死者を辱める行為であったとされています。かつて、あのアカンが戒められ殺された時にも、石塚が積み上げられました。これはアブサロム軍の士気を完全に失わせるためでもあり、こうしてアブサロム軍の兵士たちはみな逃げ帰ってしまいました。

 

私たちは、みな「死」を迎えます。まだまだだろう。もうすぐだろう。人それぞれ、自分の死を考えたり、考えなかったり。

しかし、聖書は「人には一度死ぬことと、死後に裁きに会うことが定まっている」とはっきりと伝えるのです。

神の裁きに、一人一人が立たせられます。その時に

「生涯どのように生きてきたのか。」

「神の御心に従って生きたか。」

「委ねたことを全うしたか」

「罪をちゃんと払い済みにしたのか」と

問われるのです。

もしも、イエスキリストの贖いによる和解を受け入れずに、罪を告白しないで神の前に立つなら、永遠の滅びに置かれると聖書は警告しているのです。

永遠の滅びとは、いわゆる地獄図ではありません。永遠に神様との関係を断たれるという世界です。

 

今、私たちが生きているこの世において、神様は良い者にも悪い者にも、同じように太陽を昇らせ、恵み、命を下さっています。チャンスを与えてくださっています。

しかし、「死」を迎えたら、そうではないということを心していなければなりません。

 

私たち人間は、誰も死んで帰ってきた人がいませんから、いろんな想像をします。

自分に都合よく、色々グレーに、ことをうやむやに考え、調子よく思い描くのです。ふわっと天国があって・・・・。と。

しかし、聖書は語ります。キリストを信じる者と信じない者を右と左に分ける、と。

私たちは、この地上のいのちが与えられている間に、キリストを受け入れるのか、拒むのかを選ぶことが求められているのです。

 

こどもの日曜学校では、今日この暗唱聖句を覚えました。

「人はたとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。マルコ8章36節」

自分のいのち、とはただ単に命を指すのでなく「神様との交わり」のことです。

もしも全世界を手にいれ、欲しいものを全て手に入れたとしても、私たちは「死」を迎えるときに、それを何一つ持ってゆくことはできず、私たちが「得た」と思ったものは、するすると私たちの手を滑り抜けてゆくようになくなるのです。

そしてあるものは、神様の前に自分の魂だけであるということ。その魂が神様との交わりに入れられるのか、否か。これが一番重要なことなのです。

 

❸罪の苦しさを経験することの意味

 

ヨアブは、ダビデの勝利を告げることに際して、クシュ人を遣わします。

外国人兵士ならダビデが怒らないかもしれないと考えたのかもしれません。しかし

その兵士がでた後、すぐにアヒアマツが「やはり私も、クシュ人の後を追って走って知らせに行きたい!」とヨアブに願いでます。

 

アヒアマツは、走って、走って、そして、クシュ人を追い越して(23節)ダビデの元へ、この戦争の勝利を、吉報と疑わずに告げにゆくのです。

が、すぐに、なぜヨアブがクシュ人を遣わしたのかを悟ることになります。

アヒアマツに会ったダビデの第一声は「勝ったか?」ではなく

「若者アブサロムは無事か?」だったのです。

途端にアヒアマツは、しどろもどろになってしまいます。質問に驚き、とまどい、曖昧な返事をしてしまうのです。そして、その後、ダビデは到着したクシュ人に同じように

「若者アブサロムは無事か」と問うのです。

クシュ人の返事を聞いたダビデは、身を震わせ、泣きます。

33節を見ると、ダビデは「我が子よ」と5回も連呼しているのです。

 

戦いの勝利でなく、悲痛な叫びをもって、愛する息子アブサロムの死を悼むダビデ。その悲しみは、バテシェバとの罪からくる報いであることを改めて悟り、自分の人生に家庭に、こんなにも大きな悲劇が起こったことに対する恐れであったに違いありません。

 

本当は自分が死ななければならなかったのに、身代わりのようにして、息子たちが次々と死んでしまった。自分にとっては一時の罪だと思っていた。しかし、罪と定められ、呪いを受け、なおその罪の影響を自分の人生に受けつづけねばならない。ダビデはことの重大さをひしひしとその身に感じ、受け止めたのでした。

 

私たちは「どんな罪でも、聖霊を悲しませない罪以外は赦される!」と「赦されたんだ!」とただただ喜び、軽く考えます。

しかし、戦争が終わっても、人に対して、自分に対して犯した罪が、爪痕を残し、人々を苦しめるように「罪」自体は残り、私たちを苦しめる、嘆かせるものであることを覚えなければなりません。

 

「罪は赦されたのでしょう?なぜそんなことをいうの?」というかもしれません。

ダビデはナタンによって罪が示され、悔い改め、バテシェバの子は死に・・・と長い期間をかけてなぜ、こんなに罪の代償を負わせられるのだろうと考えます。

しかし、神様が「罪を犯すことを軽く考えないように」と罪の恐ろしさを教え、そこから離れるようにと、目的を持ち、導いておられるということに心を留めたいのだ、と語られました。

 

罪を犯しても悔い改めればすぐに何でも赦される、と罪を犯し続ける時に、私たちを蝕むものがあるということ。神様は痛い経験を通して、私たちに罪の苦さを・恐ろしさを教え、私たちがそのような罪から離れ、罪を憎み、御心に沿う生き方ができるようにと導いておられるのです。

 

そして、それゆえに、どんな罪でもイエス様の十字架の贖いで赦されることの感謝を、その福音に生きることの恵みを知ることができるのかもしれません。

このメッセージを聞いてから、しばらく、考えていました。

ヨハネの8章に姦淫の現場で捕えられた女性の話が出てきます。

彼女は宗教指導者たちの罠にはまり、捕えられて連れてこられたわけですが、

イエス様は、律法に従ってこの女性を石打ちにするのかしないのかと迫る宗教指導者たちに「罪のない者がまずこの人に石を投げなさい」と言われました。

それを聞くと年長者から一人、また一人と去ってゆき、その場には、その女性とイエス様だけが残されました。

イエス様は、彼女にいうのです。

「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。」

そして次です。

「これからは、決して罪を犯してはなりません。」

今回このダビデの罪と罪から来る報酬について、考えさせられた時に、

私たちが考える以上に罪というものは恐ろしく、またどす黒く、そして、イエス様に救われてもなお、この罪の罠が至る所に撒かれていることを思いながら、

イエス様のこの最後の言葉は、命令文だけれども、願いでもあるのだと、ふと考えたのです。

 

神様は、私たちが罪から離れ、神様の与えてくださる助けによって、それをすることができるように、いつも神様の平安のうちに過ごすことができるように、願っておられるということ。「罪について」深く考えさせられたことでした。

 

この18章はダビデの悔い改めで終わっています。そしてここからダビデの生き方が変わってくるのです。

負の鎖に縛られていたものから、解放され、立ち上がるダビデのように、

私たちも、またキリストの十字架と復活の力によって、福音に生きる恵みを思いかえしつつ、このイエス様の愛に応えて生きる者とされたいと願います。

 

「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。第一コリント1章18節   聖書」

 

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