雨が続きます。紫陽花の花が満開ですね。散歩をしていたら、鳩の群れが食事中。

2024年も、もうすぐ半分過ぎようとしています。。。

 

さて日曜日は「優れた助言を打ち破る主」と題して第二サムエル記よりの講解説教が続いています。

ダビデ王👑は息子アブサロムに追われ城を後にしました。直接対決のために各々が準備する、そんな箇所です。

 

❶アヒトフェルの第二の助言

 

16章21節でアヒトフェル👳‍♂️が「アブサロムに父の側女10人と関係を持つことにより、王の権威を知らしめるのです」と愚かな助言をしました。

16章23節では「当時アヒトフェル👳‍♂️の助言を皆が受け入れていた・・・」ということが記されています。アヒトフェル👳‍♂️はダビデ王👑が心を許していたそのような知者でありました。

しかし、ダビデ王に背いて息子アブサロムに寝返った今となっては、神様にも抗い祝福の道から脱線して、外れていってしまったのです。

 

そんなアヒトフェル👳‍♂️は、アブサロムに第二の助言をしました。

「城を追われて、弱っているであろうダビデ王👑たちを今追い、リーダーであるダビデ王👑の命をとれば、他の人々は無傷で、戦争の痛手を負うこともなく、被害も最小限で済むから今討ちましょう」

アヒトフェルの賢さです。全員が納得した作戦でした。(17章4節)

 

ところが、これがすぐに実行に移されたかというと・・・。

アブサロムが一抹の不安を抱えていたゆえに、そうならなかったのです。

アブサロムは考えていたのです。

「父ダビデ王👑を本当にそれで打ち負かせるだろうか・・・・」と。

兵力のことだけではないのです。ダビデは全ての人が恐れたあのペリシテ人ゴリヤテに勇敢に立ち向かい勝利した戦士です。

さらに、父ダビデ👑は、自分を苦しめるサウルの命を自分の力で取ろうとはしない信仰に厚い人物でした。

嫉妬に狂って執拗に自分を追いかけてくるサウル王の命を奪うチャンスが二度もあったのに、父ダビデ👑はサウルの命を奪うことはなかった。周りのものが「今!今です。サウルを殺してしまいましょう!」と言ったとしても、「あなたは神を恐れないのか」と

サウルを殺すことはなかったのです。

「神様がお立てになった器を、自分が殺すことなどとんでもない」と。

ダビデ👑は、その人がどんなに暴君であったとしても、御心を外してしまった人でも、王として、神様がお立てになったのならば、それを尊重すべきなのだと、そのような信仰に立っていたのです。

 

現代も教職にあり按手を受けた者は、主が選んだ器として主の召に応えてゆくことを思わされます。

ダビデは自分が王として召されたことを信じていた上で「私が手を加えなくても、神様の御心はその時がくれば必ずなるのだ」と、そのような信仰に立つ勇者でもあったのです。

そしてこのように神様を心から恐れ、従うダビデ👑の繁栄を神様は豊かに支えてくださったのでした。

 

アブサロムはそんな父のことを、小さな頃から見、また聞いていたことでしょう。

アムノンとその罪、そしてそれに関して何もしてくれず、エルサレムに戻っても3年もの間会おうとしなかった父ダビデへの怒りを💢抱えながら、さまざまなことを思いめぐらし、心は不安でいっぱいだったのです。

 

そんな中で、アブサロムは、もう一人の知者フシャイ👱‍♂️に尋ねてゆくのです。

「アヒトフェル👳‍♂️はこのように言っているがお前はどう思うか?」(6節)

ここで、フシャイ👨出番です!!!!!

アヒトフェル👳‍♂️の助言は、普通よく考えれば、被害を大きくしないようにと考えられた端的で正当な意見でした。しかし、フシャイ👨はこの意見に対して、素晴らしい言葉の剣で畳み掛けるようにして皆に語ってゆくのです。フシャイの知恵です。

 

「このたびアヒトフェルの進言した助言はよくありません」(7節)この言葉で始まります。子連れの母グマ🐻には気をつけろ、という言葉が語られましたが、

1・ダビデは野で子を奪われた雌熊のように気が荒くなっています

2・ダビデはベテラン戦士です。あのゴリアテに全イスラエルが震え上がる中一人立ち上がったのはお父上だけです。

3・そんなダビデにこちらの兵士がやられたら、一瞬で皆の士気は下がるでしょう

4・ですから圧倒的戦力を蓄えて、それから一気に倒しましょうぞ!

 

フシャイ👨の賢さが際立ちます。

この時、もしも、フシャイ👨が、ダビデ王👑を擁護するような意見を言って、守ろうとしていることが少しでも露呈すれば、アブサロムはきっと疑ったに違いありません。

しかし、このような理由を順序立てて挙げ、アブサロムを納得させました。さらに、徴兵することにより、ダビデ王👑たちが逃げて安全な場所へ辿り着ける時間稼ぎにもなりました。

 

このフシャイ👨の助言が、アヒトフェル👳‍♂️の助言よりも、良い⭕️と皆に受け止められ、

実行に移されていったのです。

アヒトフェル👳‍♂️の助言に人々が従わず、フシャイ👨の助言に従ったということ。これはただフシャイが賢かったからだけではありません。

それは人間的な優劣だけではなく、神様が背後で働かれていたということを見るのです。

「これは主がアブサロムわざわいをもたらそうとして、主が、アヒトフェルノ優れた助言を打ち破ろうと定めておられたからである。」(14節)

 

教会の中にあっても、話し合いがあり、いろんな意見が出てきます。そして意見が分かれるということがあります。自分の意見が正しい、こうした方が良いのではと強い意見が出ることもあります。皆が一つとなって神様に祈る中で、多数決で決まることがあれば「神様がそれを導かれた」というところに立つ信仰も大切です。

私たちは、神様の御心を求めると言いながらも、どこかに人間的な要素を持ち込みやすい弱さがあります。自分はこうがいい、こうじゃないと受け止められない。困る、と。

しかし、神様の御心にかなっていることならば、それは必ず成るのです。

 

人間的に見れば、順調に進んでいたのに、パタっと終わる、というようなこともあります。

なぜだろう。素晴らしいことなのに、と私たちは思います。しかし、神様がそれを通して御心を表そうとされていたと考えることが大切です。神様はご自身の御心でないものは止められてゆく方だからです。

 

❷アヒトフェルの死

 

フシャイ👨は、自分の進言が通ったので、その旨をダビデとの打ち合わせ通り、スパイのヨナタンとアヒアマツに託します。ところが、それを見つけたアブサロム側の若者がアブサロムに密告します。さあ大変です!!!!

このスパイ二人は、急いで逃げ、バフリムというところに住む人の家に行きます。

その庭に井戸があったので、その中に逃げ、そこの奥さんが覆いを被せて、麦を干しているふうに撒き散らしたので、アブサロムの家来がやってきて捜索する時も、彼らは見つからなかったとあります!(18〜20節)すごいですね。映画のワンシーンのようです。😳

 

うまく兵が去った後、スパイ2名は、ダビデ王👑の元に走るのです。

彼らから一報を受けたダビデ王👑は、一夜のうちにヨルダンの東の安全な地域に逃げれるように手配したのです。

神様はご自分に従うものをしっかりと守ってくださる。

 

ところで。このことと対照的な記事が次に出てきます。

アヒトフェル👳‍♂️の自殺です。

23節「アヒトフェルは、自分の助言が実行されないのを見ると、ロバに鞍をおいて自分の町の家に帰り、家を整理して首をくくって死んだ。彼は彼の父の墓に葬られた」とあります。

 

アヒトフェル👳‍♂️は、自分の助言が実行されなかったので怒り狂って死んだのでしょうか。なぜ自殺したのでしょう。

自分の助言が棄却され、この戦いは負けると分かったからではないかと語られました。

もしも、負けてダビデに囚われたならば情けない。そしてそんなみっともない姿を世にさらしたくないと考えたのでしょう、と。

 

この「首をくくって死んだ」という一節は、イエス様を裏切ったイスカリオテ・ユダを彷彿させますね。みことばでもそのように語られました。

マタイ27章5節には、ユダが銀貨30枚でキリストを売ったことを悔やみ、首をくくったことが記されているのです。

アヒトフェル👳‍♂️と、ユダの共通点は何か、語られました。

彼らは罪を犯した後「悔い改める」ということなく、神様に赦されるという期待も持たず、みっともないからと不名誉なことだ、と自殺していったのです。

 

第一ヨハネ1章9節にはこのようにあります。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちを全ての不義からきよめてくださいます」

悔い改める、神様の前に謝る、ということは罪人である自分を十字架の前に差し出してゆくことであり、神様が最も求められていることなのです。

 

❸備えたもう神

 

ダビデ👑たち一行は「マハナイム」という場所につきました。ここは今でもあるそうで要塞がしっかりしていた場所だったそうです。

そこで、ショビ・マキル・バルジライという3人の勇士がダビデ👑一行にたいそうなご馳走🍯🥛🧀🌾🫘🫛パンやお肉・乳製品や豆・甘いもの・・・などたらふく持ってきてくれました。かなり有り難かったことでしょう🥹

すっかり疲れ、飢えていたダビデ👑一行はこれに力をもらい、気力も与えられ、想定外のこの素晴らしい支援で、元気復活!再び立ち上がることができたのです。

 

神様はこういう方なのだと改めて教えられました。

すっかり覇気を失い、疲れ切った、何もない彼らに備えてくださった神様。

私たちの神様は、ありえないところで、考えられない祝福を用意してくださるお方なのだ、と語られました。

気落ちし、悲しむときに、神様は「ああ、かわいそうに。でも仕方ないね。頑張って」などと言われないのです。

私たちが、力を失い、行き場を失ったかのように思えても、そこで必ず、恵みを備えてくださり、再び立ち上がる力を与えてくださるお方なのです。

 

あのアブラハムが、せっかく100歳で与えられたイサクを、捧げよと言われて、従ったときに、神様はイサクの命を助けたばかりか、その後、神様ご自身に捧げるための羊まで備えてくださっていたのでした。「主の山に備えあり」ですね。

 

預言者エリヤが、神様に従ったのに、悪王アハブやイゼベルに追われるように逃げた時も、そこに、カラス🐦‍⬛を通して食べ物を与え、休息を備えて休ませてくださったのも神様でした。

 

神様はちゃんと見ていてくださっていて、与え、備えてくださるお方なのです。

生きて働かれ、励まし支え、養ってくださる主に期待する日々でありたいです。

感謝します。

 

「しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。第二コリント7章6節  聖書」

 

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