気持ちよく晴れた一日。初夏を感じさせるような暑さでしたが、海辺の冷たい風は心地よいいです。気づけばもう紫陽花が咲いています‼️😳野原ではアゲハ蝶や可愛らしい蝶々が花から花へと飛び回り、ウグイスの美声も響きわたっています。

 

 

さて今日のみ言葉は第二サムエル記の講解メッセージに戻ります。

13章において、ダビデの長子アムノンが三男アブサロムにより殺害され、父ダビデが悲しみ怒っていることを知ったアブサロム自身は母親の実家に身を隠しました。その後の父ダビデと息子アブサロムの関係について和解が記されているそのような箇所です。

 

❶ヨアブの計画

1〜17節においてダビデ王の軍団長ヨアブが、この親子の関係修復のために動いた様子が記されています。その動機はなんでしょうか。人は、自分により益をもたらすことであるならば熱心に介入しようとします。ヨアブにとっては自分の地位を守って行くための策略であったことが語られました。

 

第一サムエル記3章を読みますと、ダビデの家系について記されています。

長子はアムノン。三男はアブサロム。では次男はというと、キルアブと書かれているのですが、このキルアブの名前はその後出てこないのです。明確ではなく、あくまでも推測ですが、このキルアブは死亡していたのかもと語られました。もしそうだとすると、王位継承者は三男のアブサロムということになるわけです。ヨアブは考えたでしょう。

ダビデ王は年を重ね、もしもの時には次はアブサロムが王位に就く可能性がある。しかし、彼は今王の反感を買っている。他にも多くの息子たちがいるが、これでは収拾がつかなくなってしまうだろう。とすると、自分の立場も危うくなる。早くアブサロムを呼び戻し、関係を修復させ、自分の立場を守ることが得策ではないだろうか・・・・。

 

ヨアブは先の先まで考えて打てる手は打っておこうと動き始めたのです。

ヨアブの作戦はこの章の前半に書かれている通り、ベツレヘムとヘブロンの間のテコアというところにいた知恵ある女によって進められました。

彼女はヨアブの言う通りに、ダビデに対して作り話を持って訴えていきました。

当時は王👑が裁判官の役割も果たしていたようです。

自分の地方の裁判官の判決で納得がいかない時には王👑に直訴すると言うことがあったのです。

 

彼女の作り話はダビデ王と息子アブサロムとの関係を修復させたい目的がありました。

設定として、彼女はやもめであり、二人の息子が喧嘩して、殺人事件となり、生き残った方が死刑になってしまった。そうなると自分には夫と殺された息子と共に、最後の息子もいなくなってしまう。家系はそして絶えてしまう。王様助けてください。そのようなストーリーです。

 

ダビデ👑は、彼女の話を聞いて同情し「死刑を宣告された子は死なない。もし文句を言う人がいたなら、連れてきなさい」と言うのです。

 

テコアの女が待っていたのは、このダビデ👑の一言でした。

彼女が引き出したい言葉はこの一言だったのです。

 

ここから、この賢い知恵ある女がダビデとアブサロムの関係に、斬り込んで行く。攻めて行くのです。

 

「殺人者の息子が赦されるなら、ではあなたはどうですか?ダビデ王👑」

そのような具合です。

「私に慈悲を与えてくださったあなたはご自分の息子を赦さないのですか」と。

 

ダビデは、ここでハッと気づくのです。🤯

「これは、ヨアブの指図によることとなのか?」と。(19節)

気づいてもすでに遅し。ダビデは神に向かって誓いの言葉も言った後でした。(11節)

 

私たちの現実にも様々なことが起こります。どう判断し、どう結論を出すのか。これは大切なことだと語られました。

ダビデは、この女の作り話をそうとも知らずに聞き「情」で動いてしまいました。

「わたしがその息子を助けてあげよう。文句を言う者がいるなら連れてこい。」と、まるで義理と人情、だと。

私たちはどうでしょうか。私たちの世界観の原点はそこなのでしょうか。

ダビデほどの人がどうして神に祈らなかったのか。そう語られました。

 

第一サムエル記から、ずっとダビデについて学んできました。

苦しみに苦しみ、試練の中をずっと通されたダビデです。信仰の勇者ダビデと言っても過言ではない彼の歩みを見ました。しかし、ダビデ王👑の晩年は、神様との関係を求めながらも人間の弱さが露呈する、そのような姿を見させられるのです。

 

神様に、このテコアの女の話は本当なのか、聞くべきでした。

窮状を訴えてきたけれども、本当の裁判官は神様、あなたです。と聞くべきだったのです。

神様が全ての解決・本当の答えを持っておられて、知恵なきものに知恵を与えてくださる方だからです。

だから「祈る」べきでした。

私たちも、どんな時も、まず「祈る」べきであるということ。

 

神様の御心というものは私たちが祈らなくても、、それが御心ならば「成る」のです。

祈ったからそのことが「成る」と傲慢にも思ってはいけないのだ、と語られました。

イザヤ書には、このようなみことばがあります。

「天が地よりも高いように、

わたしの道は、あなた方の道よりも高く、わたしの思いは、あなた方の思いよりも高い。

雨や雪は、天から降って、元に戻らず、地を潤して、物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もわたしのところに、空しく帰ってくることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」(イザヤ55章9〜11節)

 

私たちの上に起こる一つ一つの出来事は、神様の全きご支配のうちに起こってくるということ。ではなぜ、日々祈るのでしょうか。

神様がご自身の御心を行なわれる時に、神様が願われていることの中に、私たちは置かれ、含まれていて、たとえ私たちが祈らなかったとしても、神様の御心は成るのです。

神様の許し・権威・導きの中に全てはなされて行くので、私たちが祈ったからこれが成された、祈らなかったから成されなかったと考えることは、見当違いであるのです。

 

私たちがなぜ神に祈るのか。それは「その祈りの中で、神様の御心に自分の心を合わせて行くことなのだ」と語られました。

天地創造をなされ、全知全能であられる偉大な神様のなさることの中にちっぽけな「私」という者が置かれ、その人生を神様はとても心にかけて、ご自分の栄光を表すために豊かに取扱い、何より、神様の喜びの存在としてのあゆみをまっとうさせてくださるということ。ご自分の御心を成すために、用いてくださるということ。

「私」との交わりを楽しんでくださるということ。。。。

祈りについて、私たちは深められて行きたい。。。と願います・・。

 

さて、ダビデ👑は、

このように言われた→かわいそうだな→なんとかしてあげたい→自分は権威を持っている→よし、即、決断・・・と言った具合に、自分の思うままに即決していってしまい、神様の御心を求めずに動いていきました。

しかし自分勝手に撒いた種は必ず刈り取らなければならないのです。

アブラハムの話がでてきました。アブラハムは神様から子どもが与えられると約束を頂いた時に、なかなか自分たちが考えた時に与えられず、遅いからもう難しいだろうと待ちきれずに、勝手に動いてしまいました。その結果イシュマエルというサラでない女性から子が生まれ、サラはその子を追い出し・・・と自分たちで自分たちの失敗の始末もできずに、種を刈り取らねばならなくなる事態に陥ったのです。

 

ダビデ王もまた、自分勝手に出した決断によって、アブサロムをエルサレムに戻すこととなりました。しかし、それで全て解決したわけではありません。

ダビデ王は面会するとは言いませんでした。よって、アブサロムはせっかくエルサレムに戻って来れたものの、家で引きこもることになったのです。

ダビデ王は、王位継承者アムノンを殺したアブサロムを決して赦すことはできなかったのです。

 

しかし、このこともおかしいことなのだと語られました。

ダビデ王自身もバテシェバとの関係の中で、悔い改め、神様から「赦される」ということを体験したはずなのです。人間の欲と醜い罪を隠したいという先に、恐ろしい罪を重ね、もしも預言者ナタンが遣わされ、ダビデの罪を指摘しなければ、この罪は隠蔽されたままでした。しかし、ダビデは観念し真の悔い改めを神様にして、赦しを与えられたのです。

 

そのように自分は赦された者であるのに、人の罪を赦すことができないダビデの姿は

イエス様が言われたたとえ話を思わせる、と語られました。

マタイの18章23節から35節です。

1万タラントの負債を持っていた家来が、王様に返しきれない額であることをかわいそうに思われ、それを全部免除されます。彼は感謝しますが、その帰りの道でばったり自分に対してたった100デナリの負債がある仲間に会いました。赦されたのだから赦すのかと思いきや、彼のしたことはその仲間を責め、赦さず、それどころか彼を牢獄に放り込んでしまうのです。王はそれを聞くと彼を牢獄に投げ入れました。イエス様はこのたとえを話されて最後にこう言われました。

「あなた方もそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなた方に、このようになさるのです」と。

 

ダビデ王は息子アブサロムを赦さなければならなかった。しかし、厳しい態度で向き合ったところに、彼の信仰の不一致、彼の信仰に一貫性がないということを見るのだと語られました。

 

エペソ4章31節にはこのようなみ言葉があります。

「無慈悲、憤り、怒り、怒号、罵りなどを一切の悪意と共に全て捨て去りなさい。」と。

 

私たち人間一人一人は、偉大な神様の前にちっぽけな虫ケラのような存在であることを覚えていなければなりません。

互いに許しあい、愛し合い、そして心一つとなるということ、それこそ神様にある愛の交わりであり、互いに仕えあって行くということが求められているのだ、と。

 

❷ダビデとアブサロムの和解

 

14章の25節から読んでゆくと、そこにはアブサロムの容姿の美しさが記されています。

イスラエルのどこにも彼ほどその美しさを褒めそやされた者はいなかった、と書かれています。

容姿の美しさを記す文章は、記憶に新しく、第一サムエル記の最初の頃に出てきます。

それは、あのサウル王👑です。

人々は容姿端麗なサウルを王として選びました。しかし、私たちが学んだことは

信仰は容姿の美しさとは比例しないということです。

肉体的な美しさは神様からの賜物です。しかし傲慢になりやすいことも確かです。

26節にはアブサロムの髪の毛の重さまで記されています。

どんなイケメンだったか🤴想像できませんが、このアブサロムは、のちにこの髪の毛ゆえに死を迎えることになります。

 

第一ペテロ3章3節には

「あなた方の飾りは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい、それこそ、神の御前で価値あるものです」と書かれています。

 

私たちは神の御前に自らが「どういう者であるか」を謙虚に考え、求めて行くことを思わされます。

 

さて、父ダビデ王👑は息子アブサロムを赦さず冷遇したゆえに、アブサロムの怒りを買いました。

エペソ6章4節にはこのようなみことばがあります。

「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。」

私たちは、このようなダビデの姿から、人間関係において、平和を壊してしまう言動を省み、「和解の福音」にあることを考えて行くべきなのだと語られました。

赦しについて。

悔い改める時に赦される、ということについて。

イエス様ご自身が「和解の務め」を全うしてくださった方であることをもう一度覚えつつ

そのイエス様について行く者は、それに倣う者とされたいです。

 

今日は日曜学校で同じところから牧先生がお話ししてくれました。その中で

聞いていた小学生の男の子が自分もまたそのように許せないでいることがあるのだ、と

返事するのを聞いて、大人も同じだな、とジーンとしてしまったことでした。

 

神様の赦しがあるということ、さまざまな試練の中にあっても、神様がくださったキリスト、その赦しにすがるものであることを覚えつつ過ごしたいと思ったことでした。

 

「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。エペソ5章10節 聖書」

 

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