薔薇が綺麗です😍

あちこち明るく美しくしっかりと咲く花々に、勇気をもらいます。☺️

さて礼拝メッセージは、ルカ書の講解が先週でしばらく終わり、今週からは去年の講解説教として第一サムエル記1章から続いていたものが久しぶりに、再開されます。

今朝はそのつづきで第二サムエル記の13章から語られました。

タイトルは「アムノンとアブサロム」です。

 

ダビデ王の人間としての弱さが強調されている箇所です。神の子であるイエスキリストはこのダビデの子孫としてこの世に生まれてきてくださいました。

神に選ばれた主の器「ダビデ」です。しかし、このダビデは、私たちと同じように弱さを持っている人間であり、常に主の御前にその弱さを認め、憐みを乞わねばならない器でした。

今日の箇所はもともと彼が持っていた弱さが露呈される、そのような箇所です。

 

❶何もしなかったダビデ

1節から14節にかけて、ダビデの子アムノン王子の愚行が記されています。読むに耐えないような事件です。異母兄妹タマルに恋をしたアムノンがイスラエルの掟を破ることになると悩む中、悪友の臣下ヨナダブに悪知恵を吹き込まれそのままそれを実行に移し恐ろしい罪に踏み込んだ、そのようなことが書かれているのです。

 

これを聞いた父ダビデは19節で「激しく怒った」とあります。しかし驚くことに「怒ったのに何もしなかった」のです。怒りの先になすべき行動が記されていないのです。

なぜか。それはダビデの中に、自分がバテシェバと不適切な関係を持ちそのことを隠すためにその夫を戦争の最前線に送り殺人を行ってしまったという罪の意識・後ろめたい思いがあったからです。もしも息子の罪を指摘した時に、そのことを言い返されたら返す言葉がないという思いがあったのでしょう。

 

人の罪を見て、それを批判・指摘した時に「では、あなたは?」と聞かれ、もしも思いあたることがあれば、何も言えない。そのようにして、やりたい放題の悪が蔓延する中、もしも誰も何もいうことができず、注意する人がいないとしたら、それは悲惨なことです。

 

ダビデは、たとえ自分の罪を指摘されたとしても、神の前に認め悔い改めた者として、神の赦し・教え・命令をしっかりとアムノンに伝え、悔い改めを促し、この罪のために主が贖ってくださる神の掟を伝えるべきでした。

愚行に対して、しっかりと対処すべきであったのです。

 

預言者イザヤは、神様から召された時に「いえ、わたしの口は汚れていてとてもそのような役目はできません」と主に答えました。すると主は、イザヤに触れ、彼をきよめて、預言者として遣わされたのです。神の裁き。癒し、回復を知る者として、私たちキリスト者は、神様が語れと言われた時に、罪を見る時には勇気を持って、主に赦されたものとして「言う」べきなのです。

 

❷神の裁きとして

アムノンによって傷つけられたタマルを支えたのは、実の兄のアブサロムでした。

恐ろしい愚行を誰からも裁かれず、諌められることもなかったアムノンに対して、アブサロムは復讐の時を狙っていました。

そして2年の年月が過ぎた後、復讐の時はきました。

アブサロムは、アムノンを殺し、自分の母の実家であるゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げた、と記されています。(37節)

 

「父親ダビデの曖昧な態度」が、二人の息子を失うことになりました。

悪行を働かれ、妹は傷つき、自分も傷ついた。しかし誰も何もしてくれない。

何の罰もくだらない。タマルやアブサロムの引き裂かれた心を励まし慰めるものは何もなかったのです。

ある先生が、この箇所を「肉欲・悪知恵・強姦・暗殺・・・と人間の犯す罪が羅列されており、神の名がどこにも出てこない箇所である」と言われたそうです。

 

神を信じる者は、全知全能の神が守り、導いてくださる人生を歩みます。

しかしこの世はどんな世でしょう。

学校に行っても、友達と話していても、テレビをつけていても、

そこには聖書の言葉はありません。神様の声・言葉を聞くことはないのです。世の中とは、そういうものではないでしょうか。

 

そういう中に生かされている私たちに常に聞こえてくるのは、

この世の肉欲・悪知恵・様々な恐ろしい事件・・・。

当事者でなくてもいろんなことが、耳に入ってくるのです。

サムエル記の著者はこのような恐ろしい事件をどのような思いで書いたのか。この13章の事件を読み解くヒントは何か?それは12章10〜12節にあるのだと語られました。

それは預言者ナタンの預言です。

こう記されています。

「今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑みヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ。

主はこう言われる。『見よ。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で奪い取り、あなたの隣人に与える。彼は白昼公然とあなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れてそれをしたが、わたしはイスラエル全体の前で、白日のもとでこのことを行う。』」

 

のちにこの言葉は次々と成就し、性的な罪ということでこの13章の事件が預言の成就の起点となり、祝福も呪いも「神の言葉」は実現するのだということを私たちは知るのです。

神の前に生かされ「神のみことば」に養われるとはどういうことなのか。

「神の言葉」にどう応答して生きてゆくのか。非常に厳粛な思いにさせられます。

 

❸心にとめるべきこと。

 

1️⃣人は種を蒔けば刈り取ることになる。

ガラテヤ書6章7節にはそのような御言葉があります。

アムノンは姦淫の罪を犯し、アブサロムは殺人の罪を犯しました。

これはまるで、バテシェバと姦淫の罪を犯し、その夫ウリヤを殺した父ダビデの罪のコピーです。

カエルの子はカエル、と言います。

父ダビデの悪、自己中心な自分勝手な悪が、他人の家庭から奪い、その家庭を破壊しました。そしてどうでしょうか。今度は自分の家庭が破壊されていったのです。

 

このようなことを見ると、神は愛の方なのになんて厳しいのだろう。ダビデは悔い改めたではないか。神は赦してくださったではないか。と私たちは思います。

しかし、忘れてはならないのは、私たちがしたことはこの世において、綺麗に真っ白にはならない、ということなのです。自分がしたことの責任を問われ、私たちは罪を犯して赦されても、それは帳消しに流されないということなのです。罪がなくならないとは非常に怖いことです。

ダビデはバテシェバとの間に生まれた第一子が死んだ時に、自分自身の罪がどれほど恐ろしいものなのか。家庭が壊された時に初めて目が開かれたのではないでしょうか。

一時的な楽しみから、一生の苦しみを得たのです。

ダビデは神を信じながら、その愛を教えられながら、神の赦しと癒しを、その人生で問いかけてゆくあゆみだったのではないでしょうか。

 

2️⃣最悪な状況の中でも神の御手は働いている。

 

辛い毎日を過ごすダビデ。

これからサムエル記を順に学んでいきますが、この暗闇・苦しみの中において、

様々なところを通らされるダビデを神様は見捨てないということを学ばされます。

全てをよくご存知で、ご自分に従う者・ご自分に憐みを乞う者に、全てを益としてくださり、マイナスをプラスに変えてくださる神様を知るのです。

詩篇119篇71節にはこのような御言葉があります。

ダビデの告白です。

「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。

それにより、私はあなたのおきてを学びました。」

 

裁きや試練はその時は喜ばしいものではありません。

しかし、そこから引き上げてくださる神様が、私たちを育て上げてくださる。

そのことに心を留めていきたいと思います。

 

「苦しみにあう前には 私は迷い出ていました。

しかし 今は あなたの御言葉を守ります。詩篇119篇67節  聖書」

 

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