GWも終わり、気候の変化の中、体調を崩しがちな一週間。そんな中、植物の生命力に改めて励まされ、元気をもらいます。

 

祈祷会のみことばはヨシュア記11章から。

1️⃣信仰一つ

 

ハツォルの王👑ヤビンは、南の国々の連合軍の惨敗を聞き、北の国々の王に働きかけて打倒イスラエルの連合軍を立ち上げます。

具体的な兵の数は記載されていませんが「海辺の砂のように大勢」と書いてあります。

なんと恐ろしいことでしょう。

しかも「馬や戦車も非常に多かった」とありますから最強最多の連合軍です。

私などはホビットの冒険に出てくる到底数えることのできないほどの敵軍を思わず想像してしまいます。

当時のイスラエルは40年近い荒野の旅をしていた人々ですから、馬はもってのほか、戦車なんて一台もなかったのではないでしょうか。

ヨシュアもイスラエルの民もどんなにか怖かっただろうかと思います。

 

そのような連合軍がメロムの水という場所に陣を敷き、イスラエルの民に向かって攻め込んでくる、そんな凄まじい光景が目に浮かびます。

どうしようかと考え祈ったであろうヨシュアに、神様が言われました。

「彼らを恐れてはならない。明日の今ごろ、わたしは彼らをことごとく、イスラエルの前で刺し殺された者とするからだ。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火🔥でやけ」(6節)

 

どんなに敵が大軍で自分たちが劣勢のように見えたとしても、わたしがあなたがたに勝利をもたらすのだから恐れるな、と神様は言われたのです。そして、その励ましと合わせて命令を与えられました。「彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火🔥で焼け」と。

この二つのことを伝えられたのです。

 

勝利が与えられたなら、高級高価な戦車や素晴らしい馬を大量に戦利品として持っていたいというのが人間の当然の考えではないでしょうか。これからも十分用いられます。持っていた方が有利に思えます。

しかし神様はそれをお許しになりませんでした。

なぜか。それは「イスラエルには全能の神がおられ、その神が戦ってくださる」ゆえだと。

カナンの地をイスラエルに与えられるのは他の誰でもない「神」であり、神は責任を持ってそれを果たされるのです。

 

勝利が、そのような武器や力によってもたらされるなどと言わせないように、神様は

「あなたがたはそのようなものを手放し、破棄せよ」と命じられたのです。

詩篇20篇7節が引用されました。

「ある者は戦車を ある者は馬を求める。

しかし私たちは 私たちの神 主の御名を呼び求める。」

この詩の作者はダビデですが、彼の時代には戦車や馬も数多くあったことでしょう。

しかし、そんなもの誇る必要がないと彼は謳うのです。神がおられる。神の御名こそが力だと。馬や戦車を放棄し、本気で神の力に「かけてゆく」こと。自分の力を捨て去り、神様に賭けて行くことを神様は求められているのです。

 

私たちは「神様は全知全能で、不可能なことは一つもない方だ」という。

しかし、実際の生活の中で、神様の御心ではなく自分の心を成し遂げようと奮闘する姿がないだろうか。神様、神様と言いながら従って行こうとしない姿はないだろうかと語られました。

そして、それは「二足のわらじ的信仰」なのだ、と。

「神」を信頼すると言いつつ「自分」に頼り、その感性に従って生きようとする姿そのものです。神様はそこには働いてくださらないのです。全幅の信頼の信仰にこそ、神様は働いてくださるのだ、ということ。

 

トインビーという歴史学者が言ったそうです。

「イスラエルのパレスチナ制覇は、歴史学的常識では到底考えられない出来事である。しかし、イスラエルには、他の国になかったものが一つだけあった。それはヤハウェなる神への信仰であった」と。

 

信仰・・・・・。

しかし、常にイスラエルの民が強い信仰を持っていたかというと、彼らは文句をいい、不平をいい、敵を見てたじろぎ・・・・。そんな不信仰な彼らをお見捨てにならず、離れることをなさらず、未熟さを承知で彼らと共に働き、勝利を実現されたのは神様だったのでした。

 

私たちも同じなのだと語られました。

弱い愚かな存在だけれど、目をあげ、信仰を持って祈るとき、神様はそんな私たちの上に働き、素晴らしい御業をなさってくださる。

 

当時パレスチナにおいて一番力が強かったのはペリシテ人たちでした。またフェニキヤという経済大国もありました。いくらイスラエルの民があがいたところで、勝てっこないような国々があったのです。しかし結果的に勝利することができたのは、神を信頼する「信仰一つ」によったのであり、そのことゆえに神様の御名が崇められることを神様は喜ばれたのです。

 

ヨシュアは、このようにして、恐れるな、と言われた主の御言葉に奮い立ち、メロムの水にいた敵軍を攻めて勝利を得ました。そして、命令通りに全ての馬の足の筋を切り、戦車を焼いて、神様のお言葉の通りに行ったのです。

 

これと対照的な姿も語られました。

後に出てくるサウル王の姿です。サウル王は「行ってアマレクを討て。全てを聖絶せよ」と神様に命じられます。ところが彼は自分の勝手な判断と考えで、一部を残しておいたのです。

「これくらいいいじゃないか」

「神様はこれくらいのことは許してくださるだろう」

浅はかな考えです。神様の命令を守ろうとしなかった。

サウルは、聖絶せよと言われたのに残したことが問題となって、王座をダビデへと移されてゆくのです。

「主は、全焼のささげ物やいけにえを、

主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。

見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、

耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(第一サムエル記15章22節)

サムエルを通して神様が言われたのです。

 

ヨシュアは全てのことについて「主が命じられた通りに」主に聞き従った。何度も記載されるこの文は、非常に感慨深い言葉です・・・・。

 

2️⃣心

 

16節以降からは、これまでの南と北の戦いをまとめるように書き留められています。

ヨシュアはイスラエルの民と共に、戦い、戦い、戦い抜きました。

南部連合軍、北部連合軍に勝利してもなお、カナンの地全制覇のため、ヒビ人をのぞく全ての住民と戦って行かねばならなかったのです。

なぜ、そんなに戦い続けねばならなかったのか。

20節にその理由が書いてあります。

「彼らの心を頑なにし、イスラエルに立ち向かって戦わせたのは、主から出たことであった。それは彼らを容赦なく聖絶するため、主がモーセに命じられた通りに、彼らを根絶やしにするためであった」と。

 

この「彼らの心を頑なにし」という言葉は、イスラエルの民が出てゆくことを拒んだエジプトの王ファラオを思い出させます。

モーセが何度もファラオの元に行きますが、しるしを見て心が揺れ謝罪すると思いきや、わざわいが過ぎてしまうと、モーセと民に抗い、反抗を繰り返すのです。

私たちは聖書を読みながら、なぜファラオは反省しないのだろうか、悔い改めないのだろう、と不思議に思います。

しかし、聖書を注意深く読んでゆくとこの御言葉にあたるのです。

「わたしが彼の心を頑なにする」(出エジプト記4章21節)

つまりファラオの心が頑なになったのは、ファラオ自身によるのではなく、神様が頑なにされたゆえだったのです。

結果、イスラエルの民を追い詰めたファラオは死を迎えるのです。

 

神様は人々の心を開くことがおできになるのと同時に、

その心を頑なにし、閉ざすこともおできになる。

ある人々においては、悔い改めることのないようにと頑なにされるというのです。

心が柔和でなく、頑なにされ「ごめんなさい」が言えない。

 

ファラオが破滅の一途をたどり、力強い主の御業に屈服して民が解放されたように、

このカナンの地の王たちの心が頑なになりイスラエルと戦ったことにより、カナンの地の住民は一掃されました。

悲劇のように見えます。しかし、彼らの頑なさゆえにイスラエルは容赦なくこの地を聖絶し、彼らは偶像の影響から守られました。神様は、一掃する御心を行われ、悲劇のまま終わらせず、この地を祝福の地に変えられていったのです。

 

イエス様の十字架も、神様がある人々の心を頑なにし、イエス様を憎ませ、十字架につけるようにされました。大変な悲劇です。しかし神様は、この十字架を通してイエスキリストを信じる全人類を救うという御業を実現してくださったのです。

 

ローマ8章28節には

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となることを私たちは知っています。」という御言葉があります。

全知全能の神が、その力を持って私たちの人生に働いてくださる。

私たちは、歴史に働かれる神に抗うのではなく、神様の御心に我が心を沿わせ、

神の御心を我が心とするということを覚えたいと思います。

神様の奇しい知恵と愛を心に思いながら・・・・。

 

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。第2歴代誌16章9節a 聖書)

 

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