アヤメの花が咲いているのを見つけました。紫色の美しく凛と咲く姿を見るとなんだか勇気が湧いてきます♡
祈祷会のみことばはヨシュア記、10章に進みました。
今ではイスラエルの首都となったエルサレムですが、当時のエルサレムを中心とする五つの国家は連合軍を組み、イスラエルと盟約を結んだギブオンに対して攻撃を仕掛けてきました。
「このエルサレムの王と人々は非常に恐れた」とあります。なぜか。それは「ギブオンが、王国の都の一つのように大きな町であり、またアイよりも大きく、そこの人々がみな勇士だったからである」とあります。(2節)
人間的に見れば強い大きな国であったのに、神を恐れてイスラエルの民に加えられたギブオンの人々は、この連合軍が戦いを挑んできた時に(5節)すぐにイスラエル軍・ヨシュアに助けを申し出ました。(6節)
ヨシュアはその申し出に対して早速二つのことをしました。
1️⃣30km離れたギルガルから、夜通し歩き連合軍と戦いを交えた。
神様はギブオンの申し出を受けたヨシュアに対して「恐れるな。わたしが彼らをあなたの手に渡した。」と言われました。そしてヨシュアはその神様のことばを聞いて、御心を受け止めすぐに立ちあがり、行動しました。
五つの連合軍と比べたら、イスラエルの民は、兵力の面でも武器の量や質を見ても、かなり弱かったのではないかと語られました。
人が見た感じではイスラエルが不利であることは一目瞭然。負けが見えるような戦いだったのです。
しかし、主の言葉を聞いた時に、自分の目や認識に頼り判断して「私たちは弱いから」「小さいから」「力がないから」とヨシュアは言いませんでした。
「神様。どうか待ってください。祈らせてください。もう少し確信できたら進みます」とも言わなかったのです。
ヨシュアはなんと、その夜のうちに軍を作り、整え、攻撃していったのです。
私たちも何かを決めるとき、神様が「今」と言われても、「まだ違う気がするな」「無理な気がする」「今でなくてももう少し様子を見て」「また次の機会に」とモタモタして、神様のタイミングに自らを合わせるということをしないことが多々あります。
「躊躇しないで、すぐに踏み出せ」と神様が言われる時。十分に祈り備えることはもちろん大事ですが、同時に示された時にすぐに動けないというのは、不信仰でもあるのです。
「今しなさい」と言われて「待ってください」ではなく、それを信仰として受け止め、応答できる私たちでありたいし、常に備えるべきなのだ、と語られました。
聖書の中の偉人を振り返りました。
アブラハムは、神様の約束によりようやく与えられたイサクを可愛がりその成長を喜びました。ところが、ある日神様がアブラハムに言われます。
「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」と。(創世記22章2節)アブラハムは耳を疑ったことでしょう。「え?」なぜ?」と、戸惑ったに違いありません。
神様が空に輝く数えきれないほどの星、海の砂の数のように、あなたの民を増やすと言われ、愛息子イサクを与えてくださったのです。そして年齢的にも枯れ果てた老夫婦の元に生まれたイサクは、まさに「神様のみ言葉の成就」でした。そのイサクをなぜ・・・・。
しかし、次の節3節には何と書いてあるでしょうか。
「翌朝早く、アブラハムはロバに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れていった」とあるのです。アブラハムは神の声を聞き「翌朝早く」夜明けにモリヤの山に向かったのです。
ヘブル書11章17節〜19節において、このアブラハムについて記されています。
「信仰によって、アブラハムは試みを受けた時にイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただ一人の子を捧げようとしたのです。
神はアブラハムに『イサクにあって、あなたの子孫が起こされる』と言われましたが、
彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、
比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」
使徒の働きにおいても(13章2〜3節)使徒たちが礼拝し断食をしていたときに、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとパウロを聖別してわたしが召した働きに就かせなさい」と言われました。するとアンテオキアの教会は、さらに断食し祈って、二人の上に手を置いて彼らを送り出した、と記されています。
私たちは、自分の考えで、すぐに人間的な思考で、神の言葉を受け止めようとする。しかし、神様が行けと言われるタイミングにそれを自分の思いを超えた神様が言われた言葉として「はい。従います。」と従順して行動することが求められるのです。
ヨシュアはこのような信仰で出てゆき、神様はそのヨシュアと共に戦ってくださいました。
ヨシュア記10章11・12節を見ると、神様が敵軍をかき乱し敵の軍の上に雹の石を降らせたと書かれてあります。石のような大きな雹が降ってきて、敵軍は死にました。剣で死んだ者より、雹の石で死んだ者の方が多かった書かれています。この戦いは「主の戦い」であったことがわかるのです。
さらに、12〜13節には驚くべきことが記されています。
ヨシュアの祈りです。ヨシュアは人々の前で神様に、敵軍を全滅にするために追い続けられるよう火が沈まないように「太陽よ動くな、止まれ」もう少し時間をください、と祈るのです。
そして太陽がまる1日ほど沈まなかった、と聖書は記すのです。私たちはこんなことを聞くと科学的見解ではあり得ない、起こり得ないと言います。そんな超自然的なことが起こるのか、と。
しかし、なぜこのようなことが起こったのか。それは私たちの理性・理解を遥かに超えた神様の存在と働きである、ということを知らされるのです。
聖書の記述は、私たち人間の知性や理性を超えた神の力であるのだ、と。
ここに信仰が求められているのです。神様は、私たちの理性や知性に収まってしまうような小さな
お方ではないのです。私たちの枠組みに入ってしまうようなお方ではないのです。
それは、私たち「を」造られた神であって、私たち「が」作った神ではない、ということなのです。
14節には「主が人の声を聞き入れられたこのような日は、前にも後にもなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。」とあります。
ものすごい奇跡が起こったのでした。なぜこのようなことが起こったのか。そこには神様が喜ばれる「信仰」がありました。
神様の言葉に忠実に従い、前進してゆくならば、私たちの予想を遥かに超えた神様のみ業がなされるということを私たちは信じるのです。
私たちは、そのような神様のみ業が、信じる者の上に、そして教会の上に起こるという「信仰」を失ってはならないのです。
2️⃣ヨシュアはマケダの洞窟に逃げて隠れていた五人の王を捕らえて木にかけた。
敗北した連合軍の王たちを追い、ヨシュアは厳しく処罰しました。
五つの国を次々と攻め取り全てを聖絶し、その王たちを木にかけたのです。
ヨシュア記が読まれない理由がここにあります。
私たちは、今の世で起こっている戦争を見るときにも、多くの犠牲者が出ていることに心を痛めます。その上、もしも勝利したのにさらに敗北した人々を殺す様子を知れば、それはあまりにも非道であると、ですからここでヨシュアはなんて冷酷無比な人間なのだろうと考えます。
私たちは、このヨシュアの行動の背後に神の命令を見なければなりません。
つまり、ヨシュアは神が「せよ」と言われたことに従ったという記述なのです。
神は愛の神なのに、なぜこのようなことを!と思います。
ここで「聖絶」ということへの理解が求められるのです。
これは大量虐殺の記述でなく、神の命令を描いており、神の祝福の基として置かれるためにこのことがなされたということを記しているのです。
聖絶という言葉の元々の意味は「分離」なのだと語られました。
なぜこの時代に、このことが必要だったのか。それは、イスラエルの民に約束されたカナンの地には、すでに異教的習慣が入りそれがはびこっており、彼らは自分たちが作った神々を崇拝していたのです。
もしも、そのような人々をその地においておけば、神の民であるイスラエル人が聖さを保つことができないということを神様は知っておられたのです。
ヨシュアのあと、士師→サムエル→ダビデ→ソロモンと歴史は流れ、やがてイスラエルの国は北と南に分かれて行きます。
その歴史を聖書で見るときに、彼らが簡単に異教の神になびいていってしまった様子を見るのです。
この世の価値観を持つ人々の影響は、キリスト者も非常に受けやすいということを思います。
第二コリント6章17〜18節にはこのようにあります
「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。
ー主は言われるー
汚れたものに触れてはならない。
そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、あんたがたはわたしの息子、娘となる。全能の主は言われる」
世と交わるな、と言われているのは、肉的な意味でなく霊的な意味です。
霊的な意味で「交わるな」「離れよ」と主は命じられているのです。
生きる神に従ってゆくならば、どちらを優先にするのか、と。
出エジプト記20章8節にはこのようにあります。
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」
ここでは「ガデーシュ」という言葉が使われており、それは「分離」と訳されるのだと語られました。
日曜日。神様はこの日を聖別して、神の民として生きよと命じられたのです。
では、なぜこの日を聖なる日とするのか。それは神様が命じられたからなのです。
礼拝を守る🟰信仰。それは繋がっているのだと語られました。
神のみ言葉の前に、私は立っているだろうか。
神様が聖別せよ、聖絶せよ、と言われていることに従順しているだろうか。
与えられている「信仰」を働かせて、神様に従う者となりたいと思わされたことです。
「あなたがたは信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。第二コリント13章5節 聖書」
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