楽しみにしていたナスタチウムの花が咲きました。食べれる花ということでワクワクしていましたが、葉っぱもサラダとして食べれるそうで、サラダに入れて食べてみようと思います。暖かくて、鮮やかな花の色に元気をもらう季節ですね・・・。

日曜学校では巨大オセロやドンじゃんけんぽん!でわーいわ〜いと子どもたちは元気いっぱい大人たちは汗をかきかき遊びました。😆午後は今流行りのモルックで楽しいひと時でした。

 

さて、御言葉はルカ書より「忠実で賢い管理人」と題してメッセージ。

 

❶イエス様は忠実で賢い者を求めておられる。

 

41節でペテロがイエス様に「たとえ話は私たちのためですか、皆のためですか」と質問しました。12章の1節を見ると、足を踏み合うほどの群衆が集まってきた、と記されています。

律法学者やパリサイ人と言い争ったイエス様。その会話を聴いていた群衆はもっと聞きたいとイエス様の元で留まり、聞き続けていたのでした。ですから、ペテロは、イエス様にこのような質問を投げかけたのです。ところが、イエス様はその質問に答えずに、違うたとえ話を始められました。

 

このたとえ話には一人の管理人が出てきます。彼が仕える主人には多くのしもべがいました。主人はこの人と見込んだ彼を管理人とします。彼は主人から多くの仕事を任され、忠実にその仕事をこなし、必要な報告をすることが求められていました。

会社でも社長がおり、雇用されている社員がいるわけですが、その中から同じ雇われている身でありながらリーダーとして主人の心に叶う人が選ばれチームを束ねて行くことが求められてゆきます。

主人がそのリーダーに求めることは「忠実さと賢さ」なのです。

 

ここで「賢い人」とは、単に頭が良い、という意味でなく、「分別・判断力がある」ということなのだ、と語られました。

それはペテロの質問への答えでもありました。

つまり、イエス様が求めておられるのは、弟子たちであるとか、そうでないとかでなく、

「忠実で賢い人」なのだよ、ということなのです。

 

❷報いと罰

イエス様は「忠実である」ということの大切さを教えるためにたとえ話を始められたのですが、この管理人の務めとして、他のしもべたちの食事の世話をするということが(42節)書かれています。彼は彼らの食事の世話をし、自分の使命を全うし、さらに他の人の仕事も手伝うという非常に忙しく大変な仕事を担っているのです。イエス様は、それをしっかり務めて、さらに主人にその姿を見てもらえるのは幸いだ、と言われました。

 

そのような彼を見た主人は、その人に自分の全財産を任せるようになる、と44節で言われています。当時は貨幣経済の時代ではなかったので、全財産とは主人の持つ人脈や信頼を含めた全てのものであったろう、つまり主人の代理人と言ってもいいような地位であったのではないかと語られました。

 

このしもべの話は、創世記の兄弟たちに売られたヨセフがポティファルの家で奴隷として仕えていた姿を思わせると語られました。ヨセフは一介の奴隷でした。(創世記39章4節)しかし、主がいつも彼と共におられ、彼が賢く忠実に仕える姿を見て、主人は彼を重宝し、やがて自分の全財産を彼に委ねるようにまでなったのです。

ヨセフの歩み。それは忠実な者の歩み。彼は信頼を勝ち得てゆき、その報いとして主人は全てのものを彼に委ねるようになっていったのでした。

 

イエス様ご自身も神様に忠実を果たし、従われました。その忠実なイエス様によって救われた私たち一人一人のイエス様への姿はどうであろうか。考えさせられます。

45節からは不忠実なしもべの様子が描かれています。

驚くことに不忠実なしもべは、不信仰な者と同じ扱いをされると書かれています。

不信仰な者は、神の国に入ることができません。

ですから、不忠実であることは、天国に入ることができない、と言われているのと同じです。

マタイは「そのしもべは泣いて歯ぎしりするのだ」と書いています。

「あー!!!本当は神の御国に入れるはずだったのに!」と。

 

群衆のほとんどはユダヤ人でした。彼らは日々の歩みの中で、律法を守り、それゆえに当然神の国に入れると思って生きていたのです。自分たちはアブラハムの子であり、選民であるからと神の民であることを自負して疑うことがなかった彼らに対して、イエス様は不忠実であるならば、不信仰なものと同じ報いが与えられるのだと言われました。

 

律法を守ること=「行い」こそが神の国に入れる条件と信じていた彼らに、内側に信仰が見られないなら、信仰を働かせて神に忠実に生きない限りは神の国に入れないのだと教えられたのです。

 

NTライトという先生はプロテスタントの中で、脚光を浴びている人ですが、その理由として「イエス様の福音に安住してしまって、自分なりの解釈で福音を都合よく受け入れている時代であるからではないか」と語られました。

 

「私はイエス様の福音を聞いて信じたから大丈夫」

「聖霊の証印があるから、大丈夫」と何もせず、その生活にクリスチャンとしての証「行い」が何も見られないならば、それは本当にクリスチャンと言えるのだろうか。御国に入ることができるのだろうか、という疑問を投げかけているのです。

 

NTライト先生のいうこと全てを受け入れるのは疑問でもありますが、しかし、もしその人がキリストを自分の救い主と信じ、受け入れるならば、その人生・生活に変化が見えるのは当然なのです。ローマ12章にはこのようなみことばがあります。

 

「あなたのからだを神に喜ばれる聖なる生きたささげものとして献げなさい。それこそあなた方にふさわしい礼拝です。

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神の御心は何か。すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」と。

 

クリスチャンとして、命を贖われた者の選択として、何を神様は求めておられるのか、

今私の人生に何を語っておられるのか。耳を澄ませて、その御心に従うということ。

そうやって日々、変えられてゆくということを心の中心に据えて生きたいのです。

 

❸主人である神の御心を知るものとされましょう

 

この福音書の著者ルカは最後の部分を変えて、マタイの「歯軋り」を省略し、47〜48節を加えています。

 

主人の思いを知っていたか、知らなかったで、同じ過ちをしたとしても罰の重さが変わってくると語るのです。

「主人の思いを知っていた」というその「思い」とは、熟慮して出した決意や計画という意味です。他人の計画など家族や親しい友人であったとしてもそれを理解することは非常に難しいことです。ですから正確に主人の計画を行うということでなく、主人の意思や主人の決意を理解し、そこに自分の思いを寄り添わせていくことが求められているのでは、と語られました。

 

祈祷会で学んだ民数記においても、故意に犯した罪についてが15章30〜31節に記されています。知らずに犯した罪については許され(22〜29節)、そうでない罪ついては厳しく処罰されているのです。

ヤコブ3章1節には

「多くの人が教師になってはいけません。あなた方が知っているように、私たち教師は、より厳しい裁きを受けます。」と書かれています。

教師になったら、「過ち」ではなく、「故意の罪」となってしまうから、安易に教師にはならないほうが良いと言われているのです。

 

ルカ書12章48節

「多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます」とあります。信頼の度合いは責任の度合いとなるということ。

しもべは主人を選べないが、しかし、選ばれたら主人に従って行くことが求められているということ。

主人の心を知ろうと尽くし、主人の意思を実現しようと精一杯努力するしもべは主人の信頼を受け、多くのものを委ねられるようになる。

信仰者として、主のしもべとして選ばれた私たちは、神様に喜ばれる歩みを求めてゆきたいと願わせれます。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選び、任命しました。

それはあなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、

また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。ヨハネの福音書15章16節    聖書」

 

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