桜も葉桜になってきたなーと歩いていたら、黄色いのばらが眩しく溢れるように咲いているのに気づいて驚きました。ハナミズキの花も可愛らしく咲いています。
 

 

祈祷会はヨシュア記の8章に入りました。アイの町に敗北し、すっかり気落ちしてしまったヨシュアとイスラエルの民です。その彼らに向かって、神様が言われました。

「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民すべて率い、立ってアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたの手に与えた」

 

アカンのことで神様は民をお見捨てになったかというと、決してそうではなく、悔い改めを求められ、彼らを励ましてくださったのです。

アカンを罰し、再びヨシュアの前に神様は現れてくださいました。

神がともにおられる、と言いながらもしも私たちが罪を悔い改めないなら、神と断絶したままになってしまいますが、悔い改める時に神様はお見捨てにならないのです。

イザヤ59章1〜2節にはこのような御言葉があります。

「見よ。主の手が短くて救えないのではない。

その耳が遠くて聞こえないのではない。

むしろ、あなたの咎が、

あなたがたとあなたがたの神との仕切りとなり、

あなたがたの罪が御顔を隠させ、

聞いてくださらないようにしたのだ。」

神様の前を歩む中で、その心に平安がない時に私たちは、よくよく自分の心を調べて、

主の前に罪を悔い改めることが重要です。

神様の前に自分の罪を悔い改め、命令を無視している姿勢を直し、従おうとしなければ、神の御国にある真実の祝福をとどめてしまうことに繋がるからです。

 

ヨシュア記8章1節を読むと、神様がアイの町をすでに「あなたの手に与えた」と語られていることに気づきます。ヨシュアと民が出ていく前に、すでに「与えた」と、過去形で主は宣言されるのです。

感慨深いです。神様はそのように約束の言葉をかけられて「だから恐れてはいけない」と励ましてくださるのです。

 

さて、今回のアイの町とエリコの町は、神様の示された戦いの相違点が三つあるのだと語られました。

1️⃣「戦う民全てを連れて」と言われたこと

前回のアイの町への攻略の際、ヨシュアはスパイを遣わして彼らから報告をうけ、その予測のもと3千人だけが選ばれてアイの町へ向かいました。しかし今回は「全部」で行きなさいと神様が言われたのです。おそらくこの時のイスラエルの民は20万人くらいであったろうというのが学者たちの推測です。

スパイが偵察して、ざっと3千人いれば簡単に勝利するだろう考えたような町。何も20万人総出で行かなくても、と思う人々もいたことでしょう。

 

なぜ全員でいかなければならなかったのか。主が働いてくださるのなら尚更、エリコの町が七度周って城壁が崩れたように、簡単に陥落できそうです。

 

では、神様は一体神の民に何を求められたのでしょうか?

 

それは「主の戦いは全ての神の民の参加が求められているため」であると語られました。

つまり神様の働きがなされる時は、ごく一部の優れた人によってのみではなく、神の民として選ばれた者たちが総力を上げて戦うことが求められているのだ、と。

ある教会では、チラシ配布を通して神様の福音を伝えたいと皆が撒いている間、それができない人々は、そのチラシが用いられるようにと教会で熱心に祈っていたそうです。一部の人だけでなく、それぞれが神様のためにできることを持って共に力を合わせて行くこと。神様はそのような姿を求めておられるのです。

 

2️⃣分捕り物と家畜は戦利品として良いと言われたこと。

エリコとの戦いでは金・銀・銅・鉄以外のものを全て聖絶せよと命じられました。しかし、ここでは、分捕り物の範囲が広がっているのです。普通の聖絶の原則が適応されています。

このことで重要なのは「判断が神様から出ていること」と語られました。

アカンは、欲で目がくらみ「自分の判断」でそれに手を伸ばし、隠し持っていたのです。それが「罪」とされました。

ここで、「神様が」与えると言われたら、それは良しとされたということ。

決して神様に従う者は「禁欲主義」を生きるのではありません。

神様は私たちに必要なものをよくご存知でそれを与えてくださるお方なのです。

アイの町を攻める時のイスラエルの民の現状と必要をよくご存知でいてくださったのです。

 

マタイ6章33節にはこのようにあります。

「まず、神の国とその義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全てそれに加えて与えられます。」と。

荒野でマナを与え、水を与え、うずらを与えられた神様は、私たちの必要を十分にご存知で十分なものを与えてくださる方であることを覚えたいと思います。

 

3️⃣町の後ろに伏兵を置けと言われたこと。

 

ここに戦術の大きな違いがあることがわかります。

エリコの町は、超自然的な方法で陥落しました。でも神様は、全ての場所でいつもその方法を使われるかというと違うのです。

神様はその時その時に応じて、最善の道を用意してくださる方なのです。

エリコの町にはエリコの攻略

アイの町にはアイへの攻略、と。

ですから、私たちは、ああ、あちらの教会があのようにやっているから、同じようにやりましょう、とするのは、浅はかであり、愚かであり、神様の前に私たちは信仰を働かせることが大事だと言うことをも学ぶのです。

ヨシュアは、神様の言葉に従って、このおびき寄せる作戦を使ってアイの町を攻め、勝利しました。

 

18節には、ヨシュアが「あなたの手にある投げ槍をアイの方に伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」と言われた神様の言葉に従い、まるでモーセがアマレクとの戦いの際に杖を上げていたように、差し伸ばしていたことが書かれています。

これにより、神様はイスラエルの民に勝利を与えられたのでした。

私たちも「祈りの手」を上げて行くこと。

神様の力強い働きの前に、祈りの手を上げて行くのです。

 

さて、ここで考えたいことがあります。

「祈り」についてです。

私たちが祈っても、祈らなくても「神様の御心は成る」のです。

ではなぜ祈るのでしょうか。

神様は、私たちが祈らなければ、その「事」がならない、という弱い神様ではありません。

私たちの意志・願い・真剣さによって、それが決まる、そういうわけではありません。

では、なぜ祈るのでしょうか。

このヨシュアやモーセが手をあげたという行為、「祈り」は神様の前にその御業の「付け足し」なのでしょうか。決してそんなことはありません。そうではなく、神様は私たちに求める心を起こし、祈りを通して神様の働きに加わる。そのことを求めておられるのだ、と語られました。

 

私たちにはとてもできないと思ってしまうようなこと。しかし、それが神様の御心ならば、神様は天の窓を大きく開いて、成される方なのです。

人が動いたから、人が祈ったからでなく、私たちは神が動かれ働かれる躍動の中を神の御業に参加させていただきながら通らせていただける、とそんなことを覚えたいのです。

 

そして30節以降にこのアイの町を攻め取った後に、ヨシュアがイスラエルの民全てを連れてエバル山に行ったことが記されていることに注目したいと思います。

この戦いの後、すぐに2日ほどかかるエバル山までの50kmの大移動でした。

そんなことができたのか?と首をかしげる学者もいるそうです。いくらなんでも戦いの後ですから。

しかし、モーセに命じられていたゆえ、彼らは忠実にその言葉通りに向かいました。

なぜ、疲労極まるこの時に?

エリコの町を攻め取り、アカンの事件ののちに、アイの町に勝利した民。

彼らのカナンの地征服の戦いはこれからまだまだ続くと言うことを彼らはよく知っていました。

だからこそ、彼らはエバル山に行き、祭壇を築き、全焼と和解の生贄を神様に捧げ、

神様の祝福と呪いの律法の確認をしたのです。

イスラエルの中心は「どこ」にあるのかを覚える時でした。

イスラエルの中心。彼らの原動力、支え、導き、それは「神のみ言葉」の他の何ものでもありません。

神様に従うときに、彼らは強くなり、勝利の中を歩むことができたのです。

 

神様のみことばが私たちのうちにある時、同じように私たちは力強く、進んでゆくことができるのです。

「みことば」一つによって、支えられ、約束のものを手にして行く。

神様を畏れ、そのみことばにひたすらに従うものでありたいと願います。

 

「主の言葉ーわたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、

わたしの言葉におののく者だ。イザヤ書66章2節後半 聖書」

 

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