歩いていると何色もの花々が所狭しと咲き乱れ「野の花を見よ。空の鳥を見よ。」と話されたイエス様の言葉が聞こえてくるようです。

 

終末の世にある今。時計となるのは、イスラエルです。「聖書」は私たちに神様の御心・救いについて教え、その三分の一はこれから起こることについて記されています。しかも聖書という書物はこれまでの歴史の中で一つも外れたことのない預言書であり、信頼すべき書物です。「神の言葉」が書かれているゆえです。

世界中で反イスラエルが叫ばれる時代に入りました。神様のご計画は人の思いとは違い、その御心の時に、必ず成就して行きます。心して聖書の言葉に耳を傾け教えられる者でありたいと願います。

 

御言葉は、ルカ書より「目を覚ましているしもべ」と題してメッセージ。

私たちは日々、生活を送る中で「世の終わり」について考えるということは、あまりしないのではないでしょうか。しかしこれまでのルカ書を読み進めてくる中で、イエス様は「金持ち農夫」のたとえを通して、この世の富を蓄えたとしても神の前には富まない者の悲惨な死について語られ、ゆえに「神の国をまず求めなさい。天に宝を積みなさい」🟰貧しい者に施しをしなさい、と教えられました。

それはまさしく「再臨」を私たちが意識するようにというイエス様の御心によるところであり、私たちの人生はこの世で終わってしまうのでなく、次にある天の御国があること、その前にイエス様が再びこの地上にやってこられる日が必ず来ること、そして私たちは自分の今まで生きた人生を精算せねばならないということ、その時には神様から評価され厳しい基準で裁かれる日が来るのですよと教えておられるのです。

「お前は神に従ったか?」

神の前に従っていないゆえに責められる、そのような日がくるのです。

私は罪が服を着ているような哀れな弱い者です。この天地万物を造られた神様の基準になどとても到達できません。神の御心に沿う選択をしてゆけなかった数々のことを責められれば決して立っていることなどできないでしょう。しかし。イエス・キリストを信じているがゆえに、イエス様がその裁判の弁護を引き受けてくださり、その贖いによって「罪なし」「罪を見出せない」「真っ白だ」とかろうじて神の裁きから逃れる道を備えてくださいました。

 

では「その日」に向かって、私はどう生きたら良いのでしょうか。

聞いていたことが現実となって起こる。その日を見据えてこの地上のあゆみをどのように生きたら良いのでしょうか。

 

❶目を覚ましていなさい。

 

35節から、イエス様は婚礼から帰ってくる主人とそのしもべのたとえ話をされました。

当時のユダヤの社会では「結婚」は、人生の節目として尊重され、何日にもわたって祝う行事とされていました。盛大に行われてそれは5日なのか、一週間か10日間なのか、主催者側も出席者も途中退出は失礼とされて長期間にわたって参加したようです。

よって、その家のしもべは、主人がいつ帰ってきても良いように備えておく必要がありました。それは真夜中なのか、明け方なのか。いつだかわからなかったようです。

 

イエス様ご自身が再臨される時も、そのようだとイエス様は話されました。そのイエス様を私たちは、どのようにお迎えするべきか。

 

バビロニアの時代。イザヤやミカなどの預言者が、イスラエルの民に向かって「救い主が来てくださる!」と預言しました。民は喜んで待ちました。しかし10年経っても20年経っても救い主は来なかった。はっきり「いつ」なのかわからないゆえに人々は待ちくたびれ、ついにはそのことすら忘れてしまった。しかし、救い主イエス様は2000年前に「ベツレヘム」で、ひっそりとお生まれになってくださったのです。

 

同じように、再臨はいつかわからない。しかし、イエス様が2000年前に天に昇られる時に御使いが言いました。「あなた方を離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1章11節)

そして黙示録においてイエス様が言われています。「私はすぐに来る」と。(黙示録22章20節)

この言葉を聞いた初代教会の人々は、もうすぐ来られるのでは?といつもピンと気が張っていました。しかし彼らが生きている間、イエス様は来られなかった。そして、使徒時代、来られない。使徒教父時代、まだ来られない・・・と2000年の月日が流れ、その日は今に至るまで、まだ来ていないのです。

 

キリスト教会史を見るとき、再臨を待ち侘びる「再臨運動」が起こり、再臨信仰が熱くなっては冷め、とそれが繰り返されてきました。

私たちが「再臨」について信仰が弱くなるのはなぜか。ある先生が三つのことを挙げられたそうです。

①基本的に人間は「この世界は永遠に続く」と考え、そのように行い、暮らしているから。

②忍耐強くないから。待てない。

③イエス様の真実さに対する不信仰があるからイエス様の再臨を信じる思いも薄れる

 

私たちは、今日「その日」「再臨」が来ても良いと思って備えておく必要があるのだと語られました。

第一テサロニケ5章2節にはこのようにあります。

「主の日は、盗人が夜やってくるようにやってくる。」と。

地震が起こるときのように。思いがけない時に「その日」は来るのだ、と。

目を覚ますとは、心でそのことをちゃんと受け止めて、日々歩むということなのです。

 

❷イエスの再臨において幸いな者とは

 

1・主人に目を覚ましているところを見られるしもべ

2・主人が夜中や明け方に帰ってもいつでもそのようであることを見られるしもべ

 

目を覚ましている、とは、寝てしまわないこと。寝るとは、「ああ。再臨な〜んて、まだまだだろう。あってもだいぶ先なんじゃないかな」と心の紐を緩めて、何の準備もしないことなのだと語られました。

 

再臨が来た時に「ああ!あれもしておけばよかった。これもしておけばよかった!しまった!」とならないように、なすべきことを成しておくことが重要なのだ、と。

「自分の人生、自由に生きたらいいじゃない!」ではなく、十字架にかかって全ての罪を引き受けて罰を受けてくださったゆえに与えられた自由を、しっかりと主のために用いてゆくこと。

よく考えたら、天国にないもの。それは「伝道」です。

ああ!地上であの人に伝えておけばよかった!と後悔しないように、自分の中で、仕方がないと勝手に折り合いをつけることなく、祈りの中で導かれて行きたいと願うのです。

 

❸神の御心を私の心とするということ。

 

39節で、イエス様が「このことを知っておきなさい」と言われています。これはとても重要なことを言うからよく聞きなさい。心を開いて聞きなさい、そんな言葉です。

 

いつ来ると伝えてくる泥棒はいません。泥棒のように、思いがけない時に、イエス様は来られるのです。

毎日毎日、「今日イエス様が来られるかもしれない」と玄関をきれいに掃除していた人の話が語られました。私たちは、いつイエス様が来られても「はい。イエス様!」と言える準備をしておくこと。

第二ペテロ3章9節にはこのようにあります。

「主はある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなた方に対して忍耐しておられるのです。誰も滅びることがなく、全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

しかし、主の日は盗人のようにやってきます。・・・・」

 

イエス様は、全ての人を招いておられ、待ってくださっていると言うこと。

私たちが生きるこの時代。悲しい事件が、戦争が、そしてとても聴くに耐えないような恐ろしいニュースが、日々耳に入ってきます。

しかし、契約の主であられる神様は、じっと耐えておられるのです。

ノアの時代に約束されたように、ご自身の時の決めておられるその日が来るまで世界を滅ぼすことをせず、

全てのことをよくご覧になっておられる神様にとって耐え難いような人間の堕落や悲劇を前にしても、黙って耐えてくださっているのです。

神様の心を我が心とし、やるべき務めを示されたら、従うものとされたいと願わされます。

 

「しかし愛する人たち、あなた方はこのことを見落としてはなりません。

主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。第二ペテロ3章8節 聖書」

 

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