桜が満開です。見上げるとふんわりと優しいピンクの花びら。そして期待の4月です。進学・進級・就職・・・。ワクワクドキドキの子どもたち、青年たち。親も子も、さまざまな職においても、喜びや緊張、心の気忙しさが入り混じりながら進んでゆきます。
子どもたちの進級を礼拝の中でお祝いしました。さらなる1年の歩みが祝福され、神様と共に歩む素晴らしい時とされますように。
み言葉はルカ書の講解に戻り、12章より「御国を求めなさい」と題してメッセージ。
この箇所の中心的なテーマは「心配すること」です。
私たちにとって、心配のない人生、などなく、多くの出来事が起こってくる中で、一つの問題が終わると、また別の問題が湧き出し、気づけば、絶えず心の中には「心配」があり、いえ、心配がなかった時などないのではとも思うのです。
人それぞれ、立場や年齢相応に、種類は違っても「心配」の種があり、これが心を覆い、病んでしまうこともあるのです。
信仰を持ったと言っても、心配から解放されるとは限りません。
イエス様は、そういう弱い、心配しやすい私たちのことをよくご存知で、この箇所で何度も何度も「心配するのはやめなさい」と言われているのです。
❶
私たちが「心配する」とどうなるか。ある先生が次の6つの心の段階を挙げていることが語られました。
1・感情が不安定になる
2・物事の観察が正しくできなくなる
3・物事への理解が不安定になる
4・判断を誤る
5・疑い深くなる
6・一貫した行動が取れなくなる
心配で心が覆われてしまうと、このようになるのだと言われて、なるほど、と思います。
心配事を忘れるために、お酒を飲んだり、娯楽によって気を紛らわそうとしてみます。しかしたとえ、気が紛れたとしても、中心的な心配事は何も変わらないという現実を見るのです。解決をそこに求めても、それを得ることができないのが現状です。
解決できないと、人は、原因を人のせいにしたり、自分のせいにして落ち込みます。
たったひとつの解決は、「神様のもとに行くこと」であるのに、その大切なことが欠落しているゆえに、「心配」から解放されない。
イエス様は「心配するのをやめなさい」と言われました。
その理由は「生きているということ。存在しているということに目を留めなさい」ということでした。
野の花を見なさい。空の鳥を見なさい。撒かず、刈らず、倉もない。しかし、神がこれを養い、装い、生かしてくださっている。。ましてはあなた方にはどんなに良くしてくださろうか、と。
天地創造のことを考えても、神様がどれだけ人を心を込めて造られたことか。その順序も然り。聖書は創世記1章のみでなく、2章でも人間の創造を語るのです。天地創造について1章で語られてますが、さらに次の2章で、重要な部分、つまり人間の創造についてフォーカスしてさらに詳しく語るのです。
神様は天地万物を「言葉」によって造られました。
しかし人間だけは、土のちりで形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれたのです。(2章7節)「われわれのかたちとして、われわれの似姿を造ろう・・」と。人に心を与えられました。人という存在がどれほど神様にとって特別な、愛を受けた存在かということがわかります。
神様は私の存在をどう見てくださっているか。
私が何かできるから、何かを持っているから愛している、というのではないのです。
私が存在しているということ、生まれ、生を受けているということ。それは神様に愛されていての私があるという前提であり、ここにいるだけで神の愛の中に置かれているのだ、ということなのです。
それがわかるときに、人との対比をすることからも解放され、神様が私を愛し続け必要なものを備え続けてくださるという信頼を神様に持つことができ、よって心配のあまり自暴自棄になることもないのです。
聖書の中に登場する多くの人物もまた「心配」に囚われていました。
例えばパウロのことが語られました。
パウロは非常に優秀な人物でした。初めはイエス様を迫害していましたが、イエス様が出会ってくださってから、彼は異邦人に福音を運ぶ働きをするようになりました。しかし、そんな彼にとって、人から指摘されるほどの何かしらの病、辛い「とげ」があることは悩みでした。その肉体の弱さを持って宣教しても、「なーんだ、お前は神に仕え、その神はなんでもできるというのに、自分自身は治せないじゃないか」そのように言われることもあったのでしょう。
彼はこれが取り去られるようにと「三度も祈った」とあります。(第二コリント12章9節)
真剣な祈りです。しかし、この「とげ」は取り去られなかったのです。
パウロはその祈りの後、神様から癒される代わりに、直接言葉をいただいたのです。
「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」
人から指摘されるような傷を持っていても、それだからこその神にある宣教の豊かな「恵み」にパウロは気づいたのです。
彼の「心配」は、神様の言葉によって解放されたのでした。
ピリピの4章6節にはこのようにあります。
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、全ての理解を超えた神の平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエスによって守ってくれます。」
私たち人間は、どんなに努力しても、「心配」と思う出来事を取り除くことはできません。
しかし、神のもとに行き「神様はこれをどのように用いられようとするのか」「神様はご自分が愛するこの私に、なぜこのことを与えられたのだろうか」「神様その意味は何ですか?」と尋ねるときに、神さまは、必ずご自身の御心を教え、みことばを与え、神様の恵みを教えてくださるのです。そしてその時、私たちの心に与えられるもの。それは「平安」です。
❷
「心配」は分裂する心の状態なのだと語られました。それに対して「平安」は
「これで良いのだ」という神様にある確信・心を統一させる状態であり、
それをもたらすのは、他人でも自分でもない、神様なのです。
イエス様は「御国を求めなさい」と言われました。
御国とは場所を表しているのではなく、「神の支配」を表しているのです。
今、この世界は、サタンが奪い、常に悪との戦いを強いられている状態です。
しかし、やがてイエス様が再臨されるときは違います。全き神の支配が始まるのです。
御国を求めるとは、神様との正しい関係、神様の支配を求めることであり、その全生活が神様の支配のもとにあるように生きるということです。さらに神様の御支配が周りにも広げられ、私たちが福音を伝え、人々の救いのために祈り、具体的に労して行くことが大切なのだと語られました。
32節では「小さな群れよ。恐れることはない」とイエス様が続けられています。
できること、できないことがあるが、小さくて弱くて傷つきやすくても、ただ神の国を求めなさい、あなた方は神の民として選ばれたのだから、と。
33節でルカは「持ち物を売って施しなさい」とイエス様の言葉を記しています。
自分のために古くならない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい、と。
私たちは地上でどんなに財産を蓄えても、最終的にはその権限を神様が持っておられるということを忘れてはなりません。金持ちのたとえを思い出します。たとえ莫大な財産を蓄えても死んだら次の世にそれを持ってゆくことなどできないのです。
財産は不安定なものです。その不確かな富をどのように用いたら良いか。
聖書は、「貧しい人たちに施しなさい」と記すのです。
神さまはそのように用いられたものを、ご自身にささげられたものとみなされるのだ、と。
箴言19章17節には
「貧しい人に施すことは主に貸すことだ」とあります。
マタイ25章にはイエス様の言葉、
「まことにあなた方に告げます。あなた方がこれらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さいものたちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」とあります。
もし、私たちが、自分の富を人々に分け与えるなら、神様はそれをご自分になされたことと受け止めて、私たちの天国銀行の口座に振り込んでくださるということ。
第一テモテ6章17ー19節
「今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たち全てのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みをおき、善を行い、立派な行いにとみ、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来るべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことの命を得るように命じなさい。」
そして、34節では
「あなた方の宝のあるところ。そこにあなた方の心もあるのです」と記されています。
御国を求めているかどうかは、あなたの「宝」がどこにあるかでわかる、というのです。
私たちの心が「神の国」にあるのか「地上」にあるのか。
私たちが、いつも神様に聴き、どう生きるかは、天国での生き方にリンクしているということ。
天国の門で、イエス様から「善かつ忠なるしもべよ。よくやった」と言われて迎えていただけるのか、「愚か者」とされるのか。
この真理の前に自分自身を点検するものでありたいと思いました。
神の国を建てる、その一大プロジェクトに私たちを招いてくださっていること。
「主よ。私の心をご覧ください」祝祷の祈りの中で、繰り返された言葉です。
主の前に心、平伏し、憐れみを乞い、歩みを強められたいと願うばかりです。
「むしろ、あなたがたは、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。ルカ12章31節 聖書」
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