春爛漫ですね☺️暖かい風に可愛い花々が、こんにちは!と挨拶しているように可愛らしく咲いています。

メッセージはヨシュア記の講解説教が続いています。

イスラエルの民は、ヨルダン川を渡り、これからいざエリコの町へ!と攻め上るために何をしたでしょうか。

今日の箇所はまるで、足踏みをさせられているかのようにも思える記述です。

読者は、さっさと踏み込めばよかったのでは?と思うでしょうか。

「ことを行うよりも、そのことの準備の方が大事」ということ。行うのは実行するのみだから容易だけれども、備えてゆくことがそれよりも遥かに大事だということを覚えさせられるのです。

ここで、神様はその御心の実現のために、何をするべきか、それを語られているのです。

 

1️⃣イスラエルの民について割礼の命令

 

神様がヨルダン川の水を枯らし、イスラエルの民は東から西へと渡ってきました。するとカナン人の王たちの心はいよいよ萎えてしまいました。(1節)

これだけの水の勢いの川なんて渡れやしないだろうと、たかを括っていたのです。

しかし、その川が大きな奇跡とともに、乾いて、イスラエルの民は全員渡ってきた。

たとえどんなに武器をもっても、強い武力を持ってしても、こんな民の勢いの流れを止めることはできないだろう・・・とカナン人たちの気力は失せていったのです。

 

こんなふうに敵の王や民の士気が下がっている時こそ、チャンス!と普通は考えます。冷静に考えても、そのまま乗り込めば占領できる可能性は高いのです。しかし、神様はそれを許されませんでした。すぐに攻めるのではなく、まず「割礼を」と命じられたのです。

 

4節でアブラハム以降、イスラエルの民が神の民であるとして成されてきた儀式・割礼を、荒野での旅の期間中に生まれてきた者たちは受けていなかったことが記されています。

40年間の荒野の旅の中。アブラハムの子として・また神の民としての大切な印「割礼」が行われず、不信仰のゆえに約束の地に入ろうとしなかった民は皆死にました。

 

しかしこれから神が成さろうとされている、イスラエルの民が「約束の地に入る」ということ。このために、神様は民が「割礼」を受けないまま入ることを許されなかったのです。

割礼とは、神への「献身」を表します。

誰も体に傷など付けたくはないものです。しかし「神の民」として「全面的に神に信頼します」という証、今でいえば「バプテスマ」の象徴でもあったのだと語られました。

 

「イエス様を信じるだけで十分だ。洗礼など、どうして人前で水を浴びなければならないんだ」という人がいるかもしれません。しかし、洗礼は、そこで「死ぬ」ということを表し、神さまに自分を明け渡す献身の証として受けていくのです。神の前で自らを低くし、この神に従って参りますという誓約なのです。神様の前にそれが行われてゆくことは非常に大切であり、神様にある信仰生活の中で、一番大事なのはこの「信仰」献身の姿勢なのです。

 

創世記34章で、かつてヤコブの子どもたちは、妹ディナがヒビ人に辱められたゆえにその町を襲う愚かな計画を立てました。その時に彼らが勝手に用いた作戦は、ヒビ人たちに割礼を受けさせ、その傷が痛んでいるのを狙い撃ちして、町を略奪するというものでした。それだけ割礼の痛手、傷は軽いものではないということがわかります。

 

今回イスラエルの民に対して、カナン人たちは戦力・気力を失っていますが、だからといっていよいよ攻めてゆくという時に、もしもイスラエルの民たちが割礼を受け、動けないなら、このタイミングで割礼を受けることにより彼らは滅ぶかもしれない、そのようなリスクがあったのです。

しかし、神様の命じられた通り、ヨシュアのいう通りに、彼らは割礼を受けました。

カナンの地の攻略は、「人間の力」によるのではなく「神の力」によって与えられ、成し遂げられるということをイスラエルの人々は確認する必要があったのだと語られました。

 

自分にとってたとえ、マイナスと思えるようなことがあっても、弱さを強調するようなことがあっても、彼らはその信仰ゆえに主に従ったのです。

 

2️⃣過越の祭りを行った

 

さらに10〜12節で、神様は40年間の荒野の旅で行われなかった過越の祭りを行うように導かれました。それは40年という試練の旅が終わり、神様との契約が再び確立したことを表していたのだと語られました。エジプトでのそしりが終わり、新しい時代が始まり、約束の地での神様の約束の実現をみる時代がやってきたのです。

 

エジプトを出る時に、過越として「子羊の血」が用いられました。それはイエス様の十字架の血を指し示していました。イスラエルの民を神様の裁きから救い出した「子羊の血」は、これから進む約束の地においても彼らの救いと力になるのです。

 

11節でもう空からマナが降らなくても、飢え死にすることは無くなりました。

カナンの地では十分与えられる、あとは彼らが自分の手で糧を得てゆくのです。イスラエルの民の中で「マナが降らないんだけど?」とヨシュアに言ってくる人もいなかったのです。自分たちで備えてゆくということ。それさえも主が備えてくださっているということ。

 

私たちは神様の恵みによって生かされています。恵みというのは、何かしたから報酬として与えられるものではなく、一方的に与えられるものです。しかし、それに甘んじて力が与えられても自発的に動かず、恵みへの応答がなければ、私たちは依存によって自立できなくなってしまうのです。恵を与えてくださる神様に、与えられている力をもって何ができるかを考える。何を持って応答してゆくかを考えるということ・・・。恵みによる成長を覚えます。

 

3️⃣主の軍の将と出会った

 

13節。ヨシュアの前に「一人の人が抜き身の剣を手に持って」立っていた、と記されています。抜き身の剣とは、鞘から抜かれた剣という意味ではありません。

それは「神の力強さ」その勢いを象徴しているのだと語られました。

 

主なる神が今、自分の前に立っておられる。

私は今まで、この箇所で大切な部分を読み過ごしていました。

それは、13節のヨシュアが「エリコにいたとき」という言葉です。

本当にあの堅固な城壁を崩せるのだろうか。。。それはどのようにしてだろうかとヨシュアはエリコの町が一望できるところまで見にきていたのだろうと語られたのです。

神様は、ヨシュアがそこに来るとご存知で、そこでヨシュアを待っておられたのでは?とも語られました。

 

ヨシュアにとってこの主との出会いは大きな励ましでした。

神様ご自身がご一緒に戦ってくださる。もうあの高くそびえ立つ城壁を恐れなくても良いのだ、と。

私たちも、同じなのだと語られました。とても、自分では無理だと思うような大きな壁が立ちはだかっていたとしても、それに怯えなくても良い。神様がともに戦ってくださるという確証が与えられるなら、と大きな大きな励ましをいただくのです。

 

パワーズの「足跡」の詩が紹介されました。

主とともに海岸を歩く夢を見た。足跡は二人分だった。しかし、よく見ると一人分の足跡のところが、ところどころにある。考えてみれば、それは自分にとって試練で辛く苦しい時のもの。神様どうしてその時に私を一人置いていかれたのですかと神様に問うと、それは違う、あなたは一人で歩いていたんじゃない、その時、わたしはあなたをおぶって歩いたから一人分の足跡なんだよ、神様がそう言われた。そんな意味の詩です。

 

地上の歩みを、私が一人で戦っていると、私たちはいつも思い込んでしまいます。

しかし、主が私を背負って戦ってくださっていることを知るなら、

限界があり、人よりも劣るところがあり、どうしてこんな私が世にあって戦いに勝利し、神様の御心の道を歩めるのか、と「自分」に目がゆくのではなく、

「神様」に目をあげるところへと導かれてゆくのです。

 

14節で、ヨシュアは神様に問います

「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか」

すると神様はこのように答えられるのです。

「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っているところは聖なる場所である。」(15節)

この言葉で思い出すのは・・・・と語られました。

あの、モーセの燃える柴の木のシーンです。

出エジプト記3章5節です。

モーセがエジプトのパロの元に遣わされる時に、燃えているのに燃え尽きない不思議な柴の光景を見ようと近づいてきたモーセに向かって神様が「履き物を脱げ」と言われました。

これは「汚いから靴を脱ぎなさい」とか「無礼だから」という意味ではなかったのです。

 

当時、靴を脱ぐということ。それはすなわち「奴隷になりなさい」という意味だったのだと語られました。主人の前では靴を脱がなければならない。

「ヨシュアよ。これからあなたは戦いに向かってゆく。その時に、あなたはわたしのしもべになるのか、ならないのか。あなたは自分を明け渡すのか?どんなに困難と見えても、わたしは勝利を与える」神様はそのようにヨシュアを励まされたのです。

 

私たちとて同じなのだと語られました。イエス・キリストの十字架に贖われたのに、いつも敗北感を味わうのはなぜでしょうか?

神様を信じたのに?

神様の導きの中を歩んでいるのに?

なぜ敗北感を感じて生きるのでしょうか?

それはー「あなたが靴を脱いでいないからでは?」

いつも、「自分」が優先。「自分」を前面に出し、思いを通そうとし、「自分の思うがまま」で行こうとする。自己実現を目指す人生は愚かしく、神様にある勝利が与えられことなく、敗北感がいつも伴うのです。

主の前に、自分の靴を脱ぐこと。主に自分を明け渡すこと。それが勝利ある人生の唯一の秘訣だと語られました。

 

占領する以上に、整えられるということが大切であり、それを問われているということ。

私が、私が、と自分を前面に出さず、主の御言葉の権威の前にへりくだって、主を告白する歩みを強められたいと願わされたことでした。

 

「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。ヨシュア記1章9節 聖書」

 

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