暖かな天候が続きます。ミモザにフリージア、ローズマリーやスイセンとともに、チューリップも顔を出し、すずらんが、可愛いらしく咲いて、風に揺れながらおしゃべりしているようです。🥰
日曜日のメッセージはルカ書12章13ー21節。「貪欲に気をつけなさい」と題して。
12章に入り、イエス様は弟子たち・群衆に向かい語られている様子が記されています。
そこへ突然。ある一人の人が、イエス様の話を中断するようにして「質問させてください!」と入ってきました。これまでイエス様が律法学者やパリサイ人と話している姿をみて感心し、尊敬の念を持ちつつ、この人だったらと「ちょっといいですか????」そのように、割り込んできたのではと語られました。
1️⃣富のまどわし
イエス様に質問してきた人が抱えていた悩み。それは兄弟との間にあった親の遺産の分け前についての問題でした。「イエス様!どうか解決を与えてください」そのように言ってきたこの人に対して、イエス様は「わたしはあなたの裁判官でも調停人でもない」と断られています。ある意味冷たい応対です。「わたしはそのような立場にいないのだ」と突き放されているのです。当時の宗教指導者たちは時にユダヤ人の中で仲裁役を頼まれ、そこに積極的に関わっていたものと思われます。
イエス様は、その人に向かい、財産の縛りから解き放たれ「いのち」がどんなに尊いかを説かれていくのです。「いのち」と「モノ」のどちらが尊いかを問われれば、この世一般的にも「いのち」だと言われるでしょう。しかし、そのように真理を知っていたとしても、お金・財産・富に特別な関心を持って、それを追い求めるという現実が私たちにはあるのだ、と語られました。
財産を蓄えることは、豊かな生活を保障するという考え。この人も、そのような考えの先に「遺産を独り占めしようとしている兄弟から、いくらかでも分け前が欲しい。どうか私に財産が入るようにしていただけないでしょうか」とイエス様にお願いするのです。
しかしイエス様は「あなたの考えは間違っている」ときっぱり言われるのです。
「いのち」はこの世という限られた空間にあり、私たちが「富」に目を向けていると「永遠のいのち」に目を向けることができなくなってしまう。近視眼的な生き方になってしまうのです。
目の前にあるものはよく見えるが、先にあるものは見えなくなってしまう。視座の高さが違うのだ、と。私たちは、もっと先の永遠の視点に立ってみ言葉を語ってくださる神様に目を向けなければならないのです。
「いのち」は実は地上で終わるのではなく、永遠のものであるというということを主はここで教えられているのです。
私たちの限られた「何十年のいのち」でなく「永遠のいのち」を考えて、今を生きるということ。
富を蓄えるな、と言われているのではありません。与えられているもの、持っているものにとらわれずに永遠の視点で今の「富」を見、用いていきなさいと言われるのです。
もし目の前にある短く低い視点でしか見ていないならそれは残念なことであり、心がいつの間にか「神」でなく「富」に占められていくということを知らねばなりません。
2️⃣イエス様は例えを通して何を教えようとされているのか。
16節から「ある金持ち」のたとえ話をイエス様はされました。
種を蒔き、たくさんの作物ができました。幸せな気持ちになった彼は、ところが、不幸の淵に突然、落とされることになるのです。
「自分のために、この先何年分もの蓄えができた。大きい倉を建てて、穀物・財産全てをそこにしまっておこう!さあ、休み、食べて、飲んで、楽しもう」彼が、なんていい考えを思いついたんだ!と喜んで決めたその晩、彼は「死」を迎えるのです。
彼は努力の末、自分の人生を豊かにし、遊んで暮らせるほどのものを得ました。しかし、「もの」が命を保つのではない、生死の権限を持つ方がおられる。そのお方を見ようともしなかったところに、彼の愚かさがあったのです。
ずっと生きられる人はいません。必ず、私たちは「死」を迎えるのです。
長期的な計画を立てたとしても、それを果たせるかどうか、そのことすら確信は持てないのです。果たせるかどうか、それは全て神の手の中にあるということ。
命は儚いものです。
聖書の中に「私たちは神にも仕え、富にも仕えることはできません。」というみことばがあります。富は神のライバルになり得るのだ、と語られました。
「富」は、私たちの心に侵入し、神を追い出し、心をガッチリと鷲掴みするものなのです。
「富」は偽りの安心感を与えます。「これだけ持っているから大丈夫。神に頼らずとも、飲んで食べて楽しむことができる」と。
放蕩息子の心を掴んでいたのもこの「富」でした。そして彼の判断力は鈍くなっていったのです。神でなく「富」に仕え、神を追い出した人の心に何が残るか。
それは「自我」「自己」であるのだと語られました。
17節から19節のこの金持ちの言葉には、「私の」という言葉が繰り返し使われています。
「私の」作物をしまっておく場所がない
「私の」倉を壊してもっと大きいものを立て
「私の」穀物や財産は全てそこにしまっておこう
「自分の」たましいに言おう
「わが」たましいよ
この金持ちはひたすら「自分のために」むさぼる罪を重ねていったのでした。
エペソ5章5節
「このことを知っておきなさい・・・・・むさぼる者は、偶像礼拝者であって、こういう者は誰も、キリストを神との御国を受け継ぐことができません。」
コロサイ3章5節
「地にあるからだの部分・・・・そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です」
というみことばの言う通り、むさぼり「貪欲」は偶像礼拝であり、それは神様の御心に反するものとして、裁きが待っていると聖書は教えるのです。
「富」に仕えることは真の神でなく、偶像に仕える「偶像礼拝」であるということ。
イスラエルは、神によって選ばれた「神の民」でした。
しかし3000年という時間の中で、真の神を捨てて、パレスチナ周辺の人々が崇めていたバアルやアシュタロテを拝んだり、適当な態度をとり、それでも自分たちを「神の民」と言っていたのです。
「神様を大切にしている、第一としている」と言いながら、富につかえ、いつの間にかその影響をうけ、さまざまな事柄に関して、自分たちの都合の良いように、自分の考えに合うように変えていってしまうならば、それは「自分のために蓄えるもの」の姿であるということ。
3️⃣神の前に富む者
聖書に出てくるヨブという人について語られました。
ヨブは東の国一番の金持ちでした。しかし、サタンの申し出によって、財が、健康が打たれ、家族が取られ、全てを失いました。神様がそれを許されました。ヨブはその時に、告白するのです。「私は裸で母の胎から出てきた。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と。
私たち人間は誰一人として、生まれる時に、何かを持って生まれてきません。
裸一つで誕生し、そして、この世を去るときも、何も持ってゆくことなく裸一つで死ぬのです。私たちは、生きる年数とともに、神様の御許しの中で、いろんな物を与えられ生活します。
しかし、たとえどんなに素晴らしいものを手にしたとしても、それは一瞬でなくなり、奪われるということが起こるのです。最終的に私たちは、死を迎えるならば、何も持たないまま地のちりに帰ってゆくのです。
葬儀において「お棺の中に生前のその人の好物や遺品を入れましょう」ということが行われることがあります。心情は理解できますが、死んだ人はそれを持っていくことはできず、天国に行って「これを持ってきました」などということはないのですから、虚しいことです。
生きている間に私たちが与えられているものは、実は、神様が私たちに一時的に預けてくださっているものであるということを私たちはここで確認するのです。
私たちは、つまり、物の「所有者」ではなく、物の「管理者」である、ということ。
そしてさばきの日。神様の前に一人一人が立たされていく時に、
私たちは聞かれるのです。「お前はわたしの命令に従ったか?」「わたしが預けた財産をどう用いたか?」と。
タラントの例え話が語られました。
5タラント・3タラント・1タラント。人それぞれに主から預けられたものがあるのです。
「あなたに〇〇年という人生を与え、多くのものを預けたね。あなたはそれをどうしたんだ?」神様がそのように聞かれるときに、「いただいたものを用いて、このようにしました。主よどうぞお納めください」と、私たちの人生をいかに神様のために用いたか、そのように言える歩みをしたか、どうかを問われる時が来るのです。
聖書は具体的に、貧しい人を顧み、また必要な人に分け、神の国の前進のために捧げること、それが神様からの称賛を受ける道である、と教えます。
箱根駅伝の話が語られました。
区間を走り終えた選手が、後ろの伴走車に乗っている監督から「〇〇!よくやったぞ!」と声をかけてもらうそのようなシーンを見ることがあります。
一生懸命力を尽くして走りきり、へとへとな選手も、監督のその掛け声に嬉しそうな表情をして、応えるのです。信仰のレースもまた同じです。
苦しい、辛いことがあります。神様に与えられた地上のレースを走り通し、天に凱旋するときに「よくやったね!!!!!!」と「善かつ忠なるしもべよ!!!!」と褒めて抱きしめていただけるのか、それとも、「愚か者!」「怠け者!」とお叱りを受けるか。
神からの称賛を受けるために、貪欲に気をつけ、神の御心を求めつつ、主を見上げて歩んで行く時の積み重ねでありますように。。。😌
「あなたが『そのことを知らなかった』と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それをご存知ないだろうか。人の行いに応じて、報いをされないだろうか。箴言24章12節 聖書」
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