今週は納骨式がありました。教会の墓地の隅にツルキキョウがそっと咲いていました。

花もまた寂しい心を慰めるものだとしみじみと眺めました。神様の造られたものは、素晴らしい。目をあげるとそこらじゅうに「春」。ピンクや白の沈丁花。クリスマスローズも可愛らしく咲いています・・・・。

 

水曜日の祈祷会ではヨシュア記を読み進めています。

3章はいよいよイスラエルの民がヨルダン川を渡り、約束の地カナンへ入ってゆく、そんな所です。イスラエルの2〜3月は春の雨季。温かい気候となり雪解け水がヘルモン山から流れ出ます。ランの原種や美しい花々があたり一面にさく非常に美しい時期なのだと語られました。一方、乾季はというと、川の水量は非常に乏しくチョロチョロとやっと水が流れているだけなのだそうです。ダビデ少年が巨人ゴリアテと戦う時に、川から石を拾ったという記述がありますが、それは川岸にあった石を拾ったのではなく、まさにこの乾季の水が干あがった川底からの石を拾ったのだと語られました。

 

さて、このイスラエルの民がヨルダン川をまず、渡ってカナンの地に入る時というのは、雨季で川がなみなみ溢れる水量の時です。増水で川幅は広がり、非常に広くなって、そこを渡るのは大変なことでした。

ヨシュアは朝早く起きて民や祭司にこの川を渡り進んでゆくことを命じます。(1〜6節)

ヨシュアの心情についてはここでは書かれていませんが、彼がこの川を渡ることを恐れたかというと恐れていなかったことが語られました。

 

なぜ恐れなかったのでしょうか。彼はきっと、かつて38年前に紅海を渡ったことを思い出したのではないかと語られました。

あの時。後ろからエジプト軍が追いかけてきました。前には広い海です。

モーセが杖を挙げると、さーっと紅海が分かれて行きました。

ヨシュアはそれをみて、その道を渡ったのです。海が真っ二つに引き裂かれ、完全に乾いた地が、道が、できたのです。

神様は適当に「さあ大変だ」と道をつくられたのでしょうか。いいえ。「こここそが、わたしが開いた道だ」とその道を用意されたのでした。

ヨシュアはこのことを、体験し、そして、恐れなかったのではと語られました。

 

ところで、このモーセと共に紅海を渡った時と、今回のヨシュアと共にヨルダン川を

渡る時には三つの相違点があるのだと語られました。海にしても川にしても、そこを渡る行為は同じです。聖書を読むときに、繰り返し、同じことが書かれていることを読み過ごすのではなく、表現の違いに神様の聞かせたい心があることに注意することが語られました。

 

1️⃣今回「民を導いたのは偉大な指導者でなく、神の契約の箱であった」ということ。

 

これまで、レビ記・民数記・出エジプト記を学んできましたが、その中で「契約の箱」は民が隊をなして移動してゆく時に、いつもイスラエルの民の真ん中の位置にありました。

それは「神ご自身がイスラエルの民の真ん中に生きておられ、神、主が支配する」という象徴であったのです。しかし、ここでは、契約の箱が先頭に立って進んでゆくのです。

これはまさに、神が進むべき道を示してゆく、ということであり、主が行かれる時に、そこに道ができるということなのだと語られました。

 

「道」があるというのは、進みやすい、ということです。自分一人がもし道なきところを進めと言われたら、それは苦しいことです。しかし、前に誰かがいて、その後を歩む、というのなら、例え険しい道に見えたとしても、ついていけば良いだけですから、どんなに気が楽になるでしょうか。

神は常に先頭に立って歩いてくださる方なのです。

たとえその分野に経験や知識がなかったとしても、私たちの強みは、

「神が先頭に立って切り開いてくださる」。

私たちの信仰の醍醐味は「先立ってくださる神様を体験すること」なのだと語られました。

暗闇・暗中模索と思える中で恐れや不安が満ちてくる時があります。

しかし、神が先立って行かれるなら、神さまを見上げることによって解決をいただくのです。

 

さらに、5節には「契約の箱とあなた方の間には2千キュビトの距離を置かねばならない」と記されています。この「距離」ということを考えさせられます。

よく「神は友です」という人や「慈しみ深き友なるイエスは」の賛美を持っても、勘違いするということがあります。神様は私たちに友のように接してくださるが、決して、私たちと友達ではない。神様という方は不用意に人が近づくことのできない方であることを忘れてはならないのです。

第二サムエル記6章において、ウザという人の記述があります。

彼は、契約の箱が倒れてしまう!助けたい!と善意と配慮の一心で、契約の箱を支えるために手を伸ばしました。すると、その瞬間、彼は死にました。ここで神の聖さが示されたのです。

私たちが神を助けることは必要ないのです。

「神様は私たちが信じるから、神様なのではない。」

「神様だから、私たちは信じるのです。」

神様にとっては善意でさえもご自分に不用意に近づくことを許されないのです。

聖書のエペソ1章23節にはこのようなみことばがあります。

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」

つまり、私が何か神様に対して、してあげなければ、ではない。

神様には私たちの助けなどいらないのです。

石ころからでも人を創造できるお方です。

私たちは、神の主権・力をしっかりと心に留めて、謙虚にへりくだり、

ただ、なすべきことを自発的に行う、それだけなのです。

そして「神の『前に』出てしまうことは許されない」ことを覚えておかなければなりません。

「神様の後ろ」これが私たちのおるべきポジションです。そして従い行くのです。

それは決して近い距離ではありません。

このヨシュア記3章4節には「2千キュビト」🟰約900メートルとありますから。。。

 

この神様の後ろを歩むことにより、祝福を受け、それを誇ることもまた間違いであるとも語られました。それは、神様によって開かれ進められていた「道」であり、そこを従いゆく存在なのですから・・・。

ウォッチマン・ニーという聖書註解者の言葉が紹介されました。

「神の前における二つの罪がある。第一に拒否の罪。すなわち神様の命令に従わないで、それを拒否するという罪。そして、もう一つは、でしゃばりの罪。すなわち、神様の命令がないのに、人間的な考えによって自分で進んで行こうとする罪である。」

従わない罪、だけでなく、神様の命令よりも、自分の思いが優先してしまうことで失敗することが私たちには多々ある、ということです。

神様が先を行かれる時に、神様が私に求めておられることは何か。何が良いことで完全であるのかをわきまえ知る、そのために自分自身を捧げ、それが示されたら大胆に進んでゆく、ということ。

 

2️⃣モーセの時は海の水が分かれたのを見た後に、民は進んだが、今回は「奇跡を見る前に、契約の箱を担いだ祭司が一歩踏み進んだ」ということ。

 

目の前に、勢いよく流れるヨルダン川を見ながら、祭司たちにヨシュアは「川に入れ」と命じました。7節には神のご計画がここにあって、なぜこのことが必要だったのかが書かれています。ヨシュアはずっと偉大な指導者モーセをみてきたが、彼が死に、バトンを渡されて恐れがありました。民は、このヨシュアの言った言葉がその通りになり、モーセと共におられた神がヨシュアとも共におられる、ということを知らなければならなかったのです。

神様はご自身がヨシュアを大いなるものとして選ばれたということを民に見せねばならなかったのです。

7節「主はヨシュアに言われた。『今日から全イスラエルの目の前で、わたしはあなたを大いなる者とする。わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを彼らが知るためである」と書かれています。

 

これからカナンの地で直面する戦いにおいて、神ご自身が勝利をもたらされることを民に知らせるという目的もありました。

10節でヨシュアが言っています。これからカナンの地にすむ七つの部族があるが、神様はその部族を追い払われる、と。

イスラエルの民はその約束を信じ、戦いをせねばなりませんでしたが、勝利をいただくには、生ける神が彼らと共におられて、神ご自身が追い払われるのだ、という確信を持たねばならなかったのです。その確信を持つためにはどうしたら良いか。神様は奇跡を通らせることにより、それを民に示されたのです。

民は武器や強い人にではなく、神によって勝利をいただく、ということ。

このヨルダン川の奇跡を通して、民は神様がくださった約束が本当なのだ、と知るようになるのです。

 

私たちキリスト者の信仰の醍醐味がここにあるのだ、と語られました。

キリストの十字架の贖いを信じ、永遠の命を得て、神の約束の地に足を踏み入れる、ということ。

この世の歩みは、毎日、毎日戦いです。決して順風満帆ではない。しかし、この戦いのただ中で、信仰を持って生きる、ということ。心を騒がせ、不安に陥れられ、失望するのではなく、信仰者なのか違うのか見分けのつかない歩みをするのではなく、「ここに私とともに主がいてくださる」この信仰一つによって立つのです。

 

3️⃣モーセは杖を差し伸べた時に海が分かれたが、今回は「祭司たちの足が川の水に浸った時に奇跡が起こった」ということ。

 

16節を見ますと、アダムという町の20キロほど上流から流れでる水が、がけ崩れによって、止まった様子が書かれています。

そんな調子の良いことが起こるか?作り話なのでは?とという人もいます。

私たちキリストに従う者にも「なんて都合のいいことが?」と言われるようなことが人生に起こることがあります。

私たちの神は、ご自身に従ってくる者に対して、本当に私たちに都合の良いようにその道を開いてくださり、私たちはそこを、主の後ろを進んでゆくのです。

信じないところに、神は働かれません。

しかし、信じて、確信のもとに導かれている時、私たちが踏みださないという選択肢などあるでしょうか。

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです」ヘブル11章1節です。

信仰を働かせる歩み、でありたいと願います。

 

「信仰によって人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、水に呑み込まれてしまいました。ヘブル11章29節 聖書」

 

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