祈祷会は共に祈り、神様からみことばを頂く厳粛な時です。
みことばの時は日曜礼拝のメッセージからさらに深いアドバンスコース、とも言えるような学びと気づきが与えられています。
レビ記・民数記・・と講解メッセージが続き、今週からはヨシュア記の学びが始まりました。こちらの恵みも不定期ですが、分かち合えたらと思います。☺️
ここ数ヶ月、民数記をずっと学んできました。1章ずつ毎週進み、その中で、イスラエルの民がエジプトから解放され荒野で38年間の旅をして、いよいよ約束の地に入れていただけるというところ、そして、そのための神様からの命令を学んだわけですが、カナンの地に入るその前で、民数記は36章で終了します。
このヨシュア記は、主のお言葉通り、モーセが死に、いよいよ「約束の地へ入る」というところから始まります。
ちょうど20年ほど前に牧牧師が長野の教会においてヨシュア記の講解を始めた時に、湾岸戦争が起きたことを思い出し振り返って、ちょうどその時テレビの報道番組において、あるコメンテーターが発言した言葉が紹介されました。
「聖書にはね、ヨシュア記って書物があるけれども、この時期に、教会の牧師たちはヨシュア記から語りたくないんですよね。というのは、ヨシュア記はイスラエルがカナンの地を征服する事の正当性を語っていて、今回のアメリカのイラクへの戦争の根拠にもなり得るからですよね。」
ヨシュア記を読み進めてゆくと、なるほど、次から次へと続く具体的な「戦い」について記されています。しかし、実はヨシュア記の主体は「戦い」ではなく「神の約束されるものをいただく」ということなのです、と語られました。
❶前半(1〜9節)
モーセの死後、新たな指導者ヨシュアが立てられ、神様は二つのことを語られました。
一つ目は、「ヨシュアに対する明確な使命」です。
偉大な先達者モーセの後継者として立てられたヨシュアですが、聖書が「モーセという人は地の上の誰にも優って柔和であった」(民数記12の3)と記し、また「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた」とあるように、あまりにも素晴らしい指導者であったこのようなモーセと自分を思うと、そのギャップに負けそうになったのではということも推察できます。
ヨシュアは二番煎じでは、という人もいます。
このヨシュア記1章はその「主のしもべモーセは死んだ」という言葉の繰り返しでスタートします。
どんなに優れていても、人はいつか必ず「死」を迎えるのです。
明らかに自分よりも遥かに優れたモーセを見てきたヨシュアです。自分が常に追いかけてきたリーダーです。しかし、その彼は今、いないのです。
それで終わりでしょうか、いいえ。それは受け継がれていかなければならない。
ヨシュアは、自分の使命を確認したことでしょう。
モーセの志を引き継ぎ、それを次の世代へと継承してゆくのだと。
ヨシュアの使命、それは「イスラエルの民を約束の地に導き入れること」でした。
エジプトでの苦しい奴隷生活からイスラエルの民を救い38年もの間、荒野の道を導いたモーセは「約束の地に入ることができない」と神様から言われました。
ヨシュアがリーダーとして立てられ「モーセが果たし得なかったことをやってゆく」それが神様の御心であったわけです。
ここで、一つ大きな変化が起こっていることにも注目したいと語られました。
「モーセ」とは「律法」を象徴する代表です。
約束の地に入る時に、その「モーセ」がなくなるということ。
それは、つまり、神の国に入ることは「律法」ではないのだ、ということなのです。
これは「福音」が必要ということを印象付ける大切なシーンであると語られました。
ヨシュアのギリシャ名は「イエスー」です。
約束の地に導き入れたのは、「律法」ではなく「イエス様」
これが暗示されているというのです。
神の国に入るには「律法を守る」ことではなく、神のみわざを信じる「信仰一つ」なのだということ。
「モーセ」が死に、「ヨシュア」が立てられた。
「律法」から「福音」へと大きな変化がまさに、ここに記されているのです。
二つ目は「神は明確な命令を出される」ということ。
神様は「すべての律法を守れ」(8節)、そして「強くあれ、雄々しくあれ」と3回も語られてゆくのです。
なぜ、神様はこの言葉を3回もくりかえされたのでしょう?
ある学者は「ヨシュアが若く、モーセのように熟達した実力がなく、民は自分に従ってくれるだろうか、と恐れいていたのでは?だから神様が3回も繰り返し、完全な守りがあるから大丈夫、進め!と言われ励まされたのではないか」と言っています。
しかしこの言葉の背景に広い視野を持って見ると、単にヨシュアは民を従わせれば良いのではない、ということを知るのです。
この状況。この先ヨシュアを待ちかまえていたものを見た時に、そこには「恐れ」しかなかったでしょう。
なぜなら、この後約束の地に入ってゆくなら、戦いが延々と続いてゆくという現実を避けることができなかったからです。
「約束の地」に入ったらすべてのものが開かれて「どうぞ!」と迎え入れてくれる、そんなことはありませんでした。
その地に住んでいたカナン人たちは、敵からの攻撃を恐れ、例えばこれから出てくる「エリコの町」も家が壁といったような分厚い城壁で町を作り固め、難攻不落の町と言われていました。そんな町をこれまで侵略しようとした人たちさえいないほどだったのです。
そんなところへ、38年間荒野を放浪し、武器らしい武器も持っていない民がゆくのです。カナンの他の町もそれなりに堅固なガードをしていたことでしょう。
一勝したからといって済むのではなく、全部征服するには、果てしない戦いが繰り広げられてゆくのです。
ヨシュアの抱えていた悩みは、単に民が従うか否かでなく
これから進む約束の地での困難であり、
今までは荒野生活でも、優秀なモーセという指導者が明確な指示を出してくれて、そこに従っていれば安心であったのに、
これからの戦いにおいては、彼はもうおらず、自分が指導してゆかねばならない。他には誰もおらず、神に聞き、進むのみなのだという現実だけが待っていたのです。
だからこそ、神様は3度にもわたって
若きヨシュアに言われたのです。
「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」と。
神様がともにおられ、ともに働いてくださる。そこに私の勝利がある!!!!
私たちにも励ましの神様が、そのように励ましてくださるのです。
アラン・レッドパスいう英国の牧師が言われた言葉が紹介されました。
「クリスチャンは 勝利に向かって 努力するのではない。
クリスチャンは 勝利によって 働き続ける者だ。」
キリストにある者はすでに勝利を与えられているのです。
それを持って戦い続けてゆくのです。
だから大胆に勝利と勇気をいただいて進んでゆく。
みことばを握って・・・。
❷後半 10節〜18節
ヨシュアが民に対して語ったことが書かれています。
一つ目は
「食糧を準備しなさい」(11節)と。
3日後にヨルダン川の向こう側を所有地として得ることが、もう神様によって約束されているから、と。
神様はイスラエルの民を荒野において、マナやウズラをもって養い続けてくださいました。
これまでずっと神様が、食糧を用意してくださっていたのです。
しかし、約束の地に入ったら、自分の手で食糧を得るようにと、神様は言われたのです。
以前は一方的に、ただただ、上からの恩寵を受けていた。しかし、土地が与えられた時に、これからは神様に対する依存心から脱却し「自分自身の手によって」糧を得てゆくことを神様は願われたのです。恵みにただ甘んじることを神様は望んでおられないということ。
私たちは、なんでもかんでも神様がしてくださる、ではなく、自分に与えられた恵みや使命を放棄しないで、そこで一生懸命労し、神の恵みを感謝して生きることを求められているのです。
二つ目は、この約束の地に入る前に、土地を望み与えられた2部族半に対しての言葉です。
民数記でもすでに学びましたが、東側においてすでに彼らは土地を受け取り、家畜をそこで飼い生活を始めていました。彼らは自分からその土地を欲しいとモーセに申し出たわけですが、その相続地を受けとるための条件は、イスラエルの民が約束の地に入り戦う時に、必ずともに戦う、ということでした。
ヨシュアはこの命令を守ることを、確認し、命じます。
なぜでしょうか。これからの約束の地での戦いが大変で、2部族半を除いた9部族半で戦うことが困難だったからでしょうか?戦力がこれだけでは足りなかったからでしょうか?
いいえ。ここで求められたのは「イスラエルの民が一つとなって戦う」ということでした。
この時、始めて力が発揮されるのだ、と。
この後の士師記などを読みますと、イスラエルの民がてんでバラバラで、そのような体勢ゆえに、戦いを仕掛けられると敗北する、といったことが繰り返されています。
各々自分たちが思うように生きるようになってしまったことの悲しい結末です。
神様の力が発揮される時は、一人では長続きしていません。長く神様の栄光を見るのは、まさに神の民が一つとなっている時なのだと語られました。
誰かが、最前線に出たり、後方で戦ったり、その戦いの形態はどうであっても、皆が戦いに一つとなって出た、総動員で出たこと、そこに神様の力が溢れ出たことを民たちは見たのです。
その地を「与えている」という完了形がこの1章の中に何度も記されています。
戦う前から「勝利」がわかっているのです。
「与えている」ものを、現実的にいただくためには、
イスラエルの民が心を一つにして戦うことが求められたのです。
もし全知全能の創造主・神の教会に、力がないとしたら、それは自分のことしか考えず、てんでばらばらだからです。自分たちの主張ばかりをして、まとまろうとせずに、心はばらばらでいいと思ってしまう。
神の栄光が表されるために、神のみ言葉を聞いて一つとなること。
明確・明瞭な形で神様の栄光を見る方法。それは、このことに尽きるのです。
これからヨシュア記を学ぶ中、理想と現実を交差する道程で「私たちはどこに立つのか」ということを教えられて行きます。
「勝利者」としての歩み。その学びに期待します♡
タイトルにした「勝利者」という言葉は、小坂忠さんの曲を思いださせます。
今日のみことばにある「強くあれ雄々しくあれ」というみことばを歌にした曲もまた心に響きます。☺️
大切な神様のみことば・賛美⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎感謝します。
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「神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通して、キリストを知る知識の香りを、至るところで放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に捧げられた芳しい香りなのです。滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われう人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです・・・・第二コリント2章14〜16節 聖書」