寒暖の差があるものの、雨降るごとに暖かい春の日を感じるようになりました。そこらじゅうで梅の花も咲き香り、可愛らしい花に心弾みます。🌸

 

日曜学校は、今日の礼拝の箇所から牧先生がお話してくれました。

ちょうど、今礼拝でパリサイ人のお話が続いているので、さらに理解が深まりましたね☺️

パリサイ人らが、勝手に作り出した細かい決まり事の中に、出産や風邪は命に関わることだから安息日でも治療し、関わることは許されるが、骨折や捻挫は🙅‍♀️バツだなんてのがあり、紹介されました。なんておかしな決まりだろうと、今私たちが思うこともこの当時の彼らは必死に守り、人々に守らせ、窮屈にしていたのですから、なんて罪深いのだろうと改めて思わされます。イエス様が怒られた(マルコ2章5節)とありますが、本当に呆れられたことでしょう・・。

 

礼拝は朝顔キリスト教会から三浦師をお招きしてマルコ3章1〜6節より「命を救うキリストの愛」と題してメッセージ。

 

❶人の命を救うのでなく死に至らせるもの

 

当時のユダヤ教指導者たちは、事細かに規則を作り、それを守ることに徹し、人々にもそれを守らせ窮屈にしていました。日曜学校で話した↑このような病気に関する決め事もそうですし、生活の動作に関する小さな動きまで規則で縛っていたわけです。

パリサイ人たちはイエスが憎らしく、彼らの心は嫉妬で満ちていました。

いつ、このイエスという人を罠にはめられるだろうと常にチャンスを狙っていたのです。

そんなこんなの安息日です。

彼らが病を癒やしてはならないとする安息日に、イエスが「片手の萎えた人を癒すかどうか」を彼らは「じっと見ていた」(マルコ3章2節)とあります。

 

ヤコブ4章2節

「あなたがたは欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。

熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。」とあります。

彼らパリサイ人たちは人々からの評価・人気・尊敬を常に得ていたかった。

彼らにとって、イエス様の存在は邪魔で、苦々しい思いが募っていました。

そしてそれはいつしか殺してやろうという(3章6節)思いへと高まってゆくのです。

神を恐れない独裁者の姿をここでも見るのです。

最近でも、サウジアラビア・カンボジア、ガザでの犠牲者、そして直近ではロシアで反体制派指導者ナワリヌイ氏の死が報じられましたが、

「人を殺すのは、欲しても自分のものにならないからです」というこのみことばを思います。

 

パリサイ人たち・律法学者たちは、どうやってイエスを殺そうか、相談し、ルカ書には「訴える口実を見つけるためにじっと見ていた」と記されています。

彼らはイエス様を「安息日違反である」と訴えようとしました。彼らの姿は「人を生かすのでなく、死に至らせる」もの、そのものでした。

イエス様はそのような彼らに言われました。

「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか。それともの悪を行うことですか。命を救うことですか。それとも殺すことですか。」

彼らは黙っていた、とその後に書いてあります。

 

彼らは安息日に人を救うのは善と分かっていたのです。しかし、細かい取り決めで人を縛っていた。宗教指導者たちのそのような態度、自分の正統性を主張し、心を頑なにして高慢になることは、人を死に追いやり、自分をも破滅に導くのだと語られました。

 

エペソ4章18節が読まれました。

「彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。」

箴言18章12節にもこのようにあります。

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」

 

パリサイ人だけでなく、私たちのうちにもこのような高慢な心への誘惑が来るということを覚え、注意していなければなりません。

 

パリサイ人たちは、自分の主張を正しいとし、高慢に心を任せ、それはやがては聖霊に対する赦されない罪となって、我が身を破滅に導いていったのです。

 

マルコ7章21〜23節でイエス様が語られた御言葉がこの言葉です。

「人から出てくるもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出てきます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、妬み、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出てきて、人を汚すのです。」

 

私たちは、この「人から出てくるものが人を汚す、それが罪である」ということを教えられるときに、言葉遣いも本当に大切にしなければならないのだと語られました。

心のうちに隠されている罪が言葉となって出てくるのですから・・・。

心をよく見張り、また示されたなら頑なな心を悔い改め、いつも主のみ前に受け入れられる砕かれた心をいただくことを思いました。

 

❷人のいのちを救うキリストの愛

 

私たち「人」のいのちはすべて神様によって造られました。

イザヤ42章5節には

「天を創造し、これを延べ広げ、地と産物を押し広げ、その上にいる民に、息を与え、そこを歩む者たちに霊を授けた神なる主・・」とあります。

創世記2章7節と見ると

「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻に命の息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」とあります。

人のいのちはすべて天地を造られた神様によって造られ、与えられ、神の御支配の中にあり、そして人は死ねば、ちりに帰るのです。

 

神様によって「息」を吹き込まれた、このいのちは「神に結びつくもの」として与えられました。ですから地上にある物質的・感覚的一時的な欲望に支配されてしまうなら、それは罪の下の奴隷として、人を不幸にし、死に至らせるのです。

イエス様の救いは、断絶してしまい罪の支配の下にあった私たちと、創り主なる神様との関係を回復させる唯一の道です。

ですからこのキリスト・イエス様のもとに身をよせ、そして常に主のもとに行くことを一番としたいです。

 

「人を救いに導く神の憐れみは善を行うこと」だと語られました。

その善とは「良いことを行うこと」ではありません。

「イエス様のもとに行くこと」なのです。

「善」という言葉には「尊いこと」という元々の意味があり、

それはベタニヤのマリヤとマルタ姉妹の話の中で、イエス様がマルタに向かって

「マリヤは良い方を選んだのです」という「良い」という言葉と同じ言葉が使われているのだと語られました。

 

慌ただしい日々の中、忙しい中も、イエス様のみ元に行き、教えられる時を持つということ。密室での神との祈り、とりなしの祈りが、本当の意味でその人を生かしてゆくのだと語られました。

私たちを深く愛し、すべての人にご計画を持ってくださっている神様。

この神様に信頼し、私たちを諦めず、待ってくださる主を見上げる一週間とされたいです。

 

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「女が乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。

たとえ女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。

みよ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。・・・イザヤ49章15節 聖書」

 

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