ツツジの花の美しさに圧倒されます♡花に緑に癒される季節✨

祈祷会のメッセージはヨシュア記9章に進んでいます。

イスラエルの侵入を恐れた先住民がどうしたら良いか対策を講じた箇所です。

彼らのうちの大半は連合を結び、イスラエルと戦おうと与しましたが、ギブオンの住民たちは戦わずに和平を結ぼうとしました。

 

1️⃣1〜15節

アイの町の南西に位置したギブオンの民たちは、エリコの町やアイの町の陥落を聞いて、

一体どうしたらイスラエルの民の攻略から命を守れるだろうか。そうだ、和平の盟約を結ぼう。さてそのためにはどうすれば良いだろう、と考えた末、わざわざ遠い国からやってきたように偽装してヨシュアたちの元にやってきました。(4ー5節)

古びた袋と、古びて破れて継当てをした葡萄酒の皮袋と繕った古い履き物を履いて、

古びた上着に、乾いたボロボロのパン・・・と練りに練った策略による変装です。

 

彼らがここまでのことをしたのは、ヨシュアとイスラエルの民に勝てない、と負けを認めていたゆえです。この戦いは背後にイスラエルの神がおられることを彼らは知っていたのです。ですから、たとえ自分たちがどんなに堅固なものを持っていたとしても、この神の前では何の意味もないと悟り、自分たちが聖絶されてしまうことを避けたいと願ったのでした。

 

「孫子の兵法」の名言について語られました。

ギブオンの人々は、この戦いにおいて負ける相手と分かっていて、戦わずに命を保つことにより勝利したい、そのような思いでこのように出てきたのだ、と。

 

カナン人たちの中には連合軍を組んで共に戦えば勝利できるのではと考える者たちも多かったのです。まだエリコの町とアイの町しか失っていない。しかもアイの町では一勝はしているぞ。イスラエルの民にだって弱点はあるのだからやっつければ良いではないか、と。

カナン人の王たちは連合軍を作ったのです。

しかしギブオンの人々は、この連合軍とイスラエルの背後でバックアップしてしっかりと支えられている神を見てそれを天秤にかけた時に、とてもイスラエルには勝てないと負けを認めたのでした。

 

さて、このギブオンの人々がもしも変装してこなかった場合。

イスラエルの民に神様がモーセを通して語られていたことが、申命記7章1〜6節に記されています。そこには

「あなたが所有しようと入って行く土地において、彼らと同盟を結んではならない」

そこにはこのように厳しく命令があったのです。神様が言われた中にヒビ人が入っていますが、ヒビ人の中の一つの部族が今回のこのギブオン人であったのです。

彼らを聖絶せよ、とそこには記されています。

アブラハムの所有地として、その地を完全に手にせねばならない、と神様は言われました。

ですから、ギブオン人が自分達の運命を変えたいと願ってきたとしても、モーセに与えられた神の命令に立つならば、それは受け入れられることはなかったのです。

 

ギブオンの人々は、そんなイスラエルの民とヨシュアの前に、自分達ははるばる遠い国からやってきた者たちだと変装してやってきました。ヨシュアはそれを見て、騙されてしまい、彼らと同盟を組んでしまいました。

 

14節にはこんな一文があります。

彼らは「主の指示を求めなかった」と。

イスラエルの民に対する否定的な聖書のみことばです。

 

最初のアイの町との戦いでイスラエルがあっさり負けてしまった理由。

それは「我々には神がついておられるんだ!」とエリコの町の勝利を体験した後で過信・油断し、アカンの罪にも気付かずに、アイの町を適当な人数で行けば良いと勝手に判断したゆえでした。神様の指示を仰がず、自分の思い、考えで動き、祈りもしないで戦いに出ていったのです。

 

聖歌の539に「見ゆるところによらずして、信仰によりて歩むべし・・・」という賛美がありますが、私たち人間は見えるところに左右されやすく、それによって判断することの如何に多いことかを考えさせられます。

 

相手の人数に多い少ないに関係なく、神様はイスラエルの兵士全員で行け、と言われました。そうでなければ勝ち取れないと言われたのです。その命令に従っていればよいのに、神の指示に従わずあっさり敗北してしまった民の姿を想うときに、私たちがまず「立つべきところはどこか」見ゆるところによっていないか?信仰をそこに働かせているのか。自分が決めようとしていることについてしっかりと考え、向き合わなければならないことを教えられるのです。

 

「神の御心 v s 自分の考えや世の価値観」

どこに比重を私たちは置くのか。

 

2️⃣16〜21節

「彼らを生かしておく」という盟約を結び、族長たちは誓いましたがそれから3日して、彼らの嘘が明るみに出ました。イスラエルの民はギブオンに向かいましたが、時すでに遅し。

同盟を結んでしまったが故に、彼らに危害を加えることができませんでした。

 

「ギブオン人たちが嘘をついたのだから、そんな盟約は破棄したら良い!」と言ったでしょうか。民が族長たちに不平を言っても、族長たちは破棄できるにもかかわらずそれをしませんでした。なぜ、彼らはそんな義理を立てて、同盟の約束を守り通したのか。

そこには「契約」ということに重きを置いた彼らの信仰がありました。

 

ヨシュアや族長たちが、ギブオン人たちと結んだのは、「人と人」との盟約でなく

主の名にかけて誓った(18節)盟約だったのです。

神の前に成された契約であったゆえにヨシュアと族長たちは忠実に果たさねばならないと悟っていたのでした。

 

「契約」ということについて語られました。

神と私たちの間に結ばれる契約。

キリストが私たちの罪を背負って死んでくださり、よみがえって下さったことを信じ、感謝し、それゆえに永遠の命を頂いたということ。

私たちが「その根拠はどこにあるのか?」「保証はどこにあるのか?」と問われた時に、答えるべきは何によってなのでしょうか。

それはひとえに「神のみ言葉、聖書に書いてあるから」なのです。

私たちの信じる神は真実であり、契約の神です。

聖書はその神の言葉であり、その約束の上に私たちは立つのです。

 

人と人が、主の名によって結ばれるなら、神がその仲立ちとして立ちそれを守ってくださる。

最近では人前結婚というものが出てきました。しかし結婚は神の造られた制度であることを忘れてはなりません。

神の御前に人と人が結ばれる際に、牧師が宣言する式文の中には「神が引き合わせた者を引き裂いてはならない」という一文があります。神の御前に成された契約として、主が結ばれた約束を私たちは最後まで果たす、そのような責任を与えられているのです。

 

イスラエルの民はギブオン人に騙されたことに不平を言いましたが、ギブオン人たちは殺されることなく、その命は救われ、奴隷となるというところに落ち着いたのです。(22〜26節)

 

3️⃣22〜27節

最高責任者であるヨシュアがギブオン人たちを呼んで、最終的な決着をつけました。

ギブオン人たちは命が助かるならば奴隷として働くということを受け入れて行きます。

 

ところが27節で驚くべきことを見ます。

ギブオン人たちはただ単にイスラエルの民に仕える者というのではなく「主の祭壇のため、主が選ばれる場所で」仕える者に変えられたと、聖書は記すのです。

彼らが悔い改め、改心するならば、大いなる民の一部として、それはあのラハブのように恵みのうちに加えられていったのです。

 

かつては滅ぼされるべき存在だったのに、神に用いられる器へと変えられてゆく。

かつては神の民ではなく、異邦の民であった私たち。

私たちも、イエス・キリストを信じる信仰によって、滅んでも仕方のない者であったのに

尊く用いられる者へと変えられてゆく。その恵みを、ここにおいても見させられるのです。「アメージンググレイス」驚くべき恵みです。

愛溢れる神様に感謝します。

 

「あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。第一ペテロ2章10節 聖書」

 

二宮山西キリスト教会のHPはこちら↓☺️✨