願望法から見える人間関係:サンスクリット語の生かし方? | संस्कृतसागर サンスクリット・サーガラ(サンスクリット語の海)埼玉在住サンスクリット語講師

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世界で一番難解と言われる古代インドのサンスクリット語。ヨーガ、アーユル・ヴェーダ、インド思想、インド占星術etc.インド文化に関心を持つ人へ、サンスクリット語の視点を中心に様々な言葉の由来や正書法、雑学について

サンスクリット語の文法を中級以上まで学んだことがある方なら
願望法 (希求法
というのを聞いたことがあるでしょう。

その名前の通り、

「○○でありますように」

というような、
話者の願望について語るときの動詞活用で、
マントラなど神様への祈念文にもよく出てきます。
(呪いをかけるときにも使われます)

「法」という用語だとわかりにくいですが、
法のことを英語ではムードmoodと呼びます。むしろその方が分かりやすいかもしれません。

つまり事実や客観的事象について述べるのではなく、話者の気分や気持ちを表わすんですね。


この願望法、
○○しますように
という願望の意味だけではなく、

○○かもしれない(可能性)
○○だろう(推測)
とか
○○すべきだ(義務)
○○せよ(命令)
という意味にも使われます。

文脈によって訳を考えなければならないので少しややこしい。
ちょうど、英語のcanやmustやmayに似てますよね。

命令法というのもまた別にあるのに、なんで願望法でも命令や義務を表すんだろう???
と疑問に思いますが

やっぱりもとを辿れば
願望法は話し手にとっての願望=「こうあるべきだ」=「当然だ」という前提をもとに話すときに使われているのだろうと思います。


最近ふと思ったのですが、
「○○しなさい」
という直接的な命令口調も嫌ですが、
「○○して当然なのに」という言外の圧力を込めつつの
「○○した?」
とか、
「△△の状態が当然なのに」という言外の圧力を込めつつの
「△△になってない」
という指摘が多いのも、けっこう精神的に疲れます。

特に、

あなたは○○して当然と思うかもしれないけど、私にとってそれは当然ではないですが?

と言えないような人間関係の場合は、ストレスたまりますよ。

もちろん日本語には願望法はありませんが、
「○○して当然」という言外の前提を匂わせている点で、
「○○するべきだ」という願望法と同じ用法だわ、と思いました。

このことに気付いてからは、イラッとする原因が分かって、
相手の言葉を客観的に見られるようになった気がします。