今朝は、大切な人のお葬式でした。
私にとって、フランスの最初の一歩となった小さな南仏の鷲ノ巣村、その村人たちが集まるバー兼ブラッセリーのオーナー、通称デデのお葬式。
ダヴィッドが当時住んでいたアパルトマンの目の前がそのバーだったから、最初に3ヶ月訪れたときは、到着翌朝から、日本に帰る当日まで、私はかなりの時間をこのバーで過ごしました。
朝はクロワッサンとカフェオレを。ランチはグラスのロゼワインとその日の定食を。夕方からはアペリティフ、そこで仕事が終わったダヴィッドと合流して…そんな毎日。まだフランス語はまったく話せなかったので、この店のデデや妹のナタリーとはジェスチャーを交えた子供のような会話でした。
その頃はまだ、フランスで暮らすかどうかなんて決めていなかったし、東京での生活のほうが自分にとっては100倍リアリティがあったので、完全にヴァカンス気分。すぐには村にも馴染めず、このバーにいてもあくまでもお客さん。本を読んだり、書き物をしたり。それが、すこしずつ、この店で村の人とアペリティフをしたりするようになると、ビーチやスーパーへの買い物、美術館に誘ってもらえるようになり、友だちができていきました。
日本に帰る前日の夜、皆が私に内緒で、サプライズのパーティを開いてくれました。仲のよかった村人がみんな集まってくれ、いっしょに飲み、騒ぎ、写真を撮り…。そのとき、珍しくデデが真面目な顔で私に言ってくれた言葉が忘れられない。
「もし、奴と別れるようなことがあっても、俺たちとの関係は変わらない。いつでも待ってる。いつでもここに帰っておいで」。
若い時はカジノでディーラーとして働き、自身も賭け事が好きだったものの、ある夜、相当な額を負け、そのお金を返すために誘惑から逃れるためにフランス北部の田舎に引っ越し、たぶん死にものぐるいでレストランで働きながら返済。その後、南仏に戻り、村のバーを買い、結婚するも、息子が生まれると同時に離婚。その後はずっと独身をつらぬき、店の上で暮らし、仕事に邁進、数えきれないほどの女を泣かせ、儲けたお金も旅行や女性や狩猟などで大いに使い、毎晩、店でシャブリを飲み、しかしアルコールは太るからと夜は食べないストイックな面も。ある意味、大いなる“俗物”なのに、意外と敬虔なクリスチャンで、絵を描くことが好きで、大きな油絵を自分の部屋で描いてた。一度、セザンヌの話をしたとき、描きかけの絵を見せてくれたっけ。俺だって飲んだくれてるだけじゃないんだぜって言いながら。彼のセザンヌ評は忘れちゃったけど。
私が最初に出会った頃、当時20歳の若い女性と付き合い始め、どうせすぐ別れるだろうと皆に言われながらも、数年前に何を思ったか、結婚してしまった。当時、彼は60歳。
その後、癌に冒され、それでも治療を受けながらいつも店にいて、行くと、「おお、元気にしてるか?」と頬にキスしてくれた。
先日、最後の旅にと、いままで行きたくて行けなかったラスベガスへ妻と二人で行きました。そして、カジノで10万円ほど勝ち、満足しつつも気分がちょっと悪くなったと外のベンチで二人で涼んでいるときに、眠るように亡くなったのだと。
若い妻や赤の他人のアメリカ人に多大な迷惑をかけ、本人は大満足で昇天だなんて、そもそも、そんな状態でラスベガスだなんて、まったく、最後の瞬間まで、どんだけ能天気でわがままなんだって話だけど、これ以上ないほど、彼らしい死に様ではある。
今日、教会に入ると、彼の好きだったジョニー・ホリデイの「L'envie」が流れていました。教会の中は、彼を見送るために300人、400人、あるいはそれ以上の人でぎゅうぎゅう詰め。けんかっ早くて、口が悪い人だったけど、愛されていたんだな。
彼はまだ65歳だったし、妻も若いのだから、まだまだやりたいことはあっただろうと思うけれど、それでも、このあっぱれな大往生ぶりに、今日、皆が心の中で拍手喝采しただろう。世の中に何か大きな貢献をしたわけでもなく、自分勝手に好きなように生きたただのプレイボーイに、何が拍手だと思う人も多いだろうけど、実際、今の世の中、好きなように生きるというのが何より難しいんじゃないだろうか?
フランスは、そういう点で、人と違っていても、それをどうこう批判する風潮があまりないので、彼のような生き方も難しくないのかもしれない。
しかし、感嘆に値するのは彼だけじゃない。最期までバーに立つのを支えた妻や妹、義理の弟たちもすごい。リスクを覚悟の上で旅に同行し、あるいは見送ったのは、最後の夢を叶えてあげたい、彼の望むように人生を全うさせてあげたいという気持ち、彼への愛だと思う。はたして自分にはできるだろうか。
絶縁状態になっていた息子は、最期まで顔を出さなかった。行く、と言っていたのに。それを悪く言う人がいても、「二人にしかわからない問題だから」「家族というのは、いつだって複雑なものさ」と、さらりと流してくれる人たち。私が出会った頃はとても仲が良く、二人で店を切り盛りしていただけに、残念でならないけれど。彼は彼のやり方で、父にさようならをしたのだと思う。
逝ってしまった彼には、もう伝えられない私の気持ち。
私にとって、あなたのバーが、フランスの入り口でした。ありがとう。あなたの寛容さや優しさ、そしてあの言葉のおかげで、私は、いま、ここにいます。
あぁ、やっぱり、言いたいことは死んじゃってからじゃだめだ。生きているときに伝えなければ。
こんな後悔はもうしたくない。強く、心に刻もうと思う。
サプライズパーティのときの思い出の一枚。私の人生を変えたこの日のことは生涯忘れない。
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私にとって、フランスの最初の一歩となった小さな南仏の鷲ノ巣村、その村人たちが集まるバー兼ブラッセリーのオーナー、通称デデのお葬式。
ダヴィッドが当時住んでいたアパルトマンの目の前がそのバーだったから、最初に3ヶ月訪れたときは、到着翌朝から、日本に帰る当日まで、私はかなりの時間をこのバーで過ごしました。
朝はクロワッサンとカフェオレを。ランチはグラスのロゼワインとその日の定食を。夕方からはアペリティフ、そこで仕事が終わったダヴィッドと合流して…そんな毎日。まだフランス語はまったく話せなかったので、この店のデデや妹のナタリーとはジェスチャーを交えた子供のような会話でした。
その頃はまだ、フランスで暮らすかどうかなんて決めていなかったし、東京での生活のほうが自分にとっては100倍リアリティがあったので、完全にヴァカンス気分。すぐには村にも馴染めず、このバーにいてもあくまでもお客さん。本を読んだり、書き物をしたり。それが、すこしずつ、この店で村の人とアペリティフをしたりするようになると、ビーチやスーパーへの買い物、美術館に誘ってもらえるようになり、友だちができていきました。
日本に帰る前日の夜、皆が私に内緒で、サプライズのパーティを開いてくれました。仲のよかった村人がみんな集まってくれ、いっしょに飲み、騒ぎ、写真を撮り…。そのとき、珍しくデデが真面目な顔で私に言ってくれた言葉が忘れられない。
「もし、奴と別れるようなことがあっても、俺たちとの関係は変わらない。いつでも待ってる。いつでもここに帰っておいで」。
若い時はカジノでディーラーとして働き、自身も賭け事が好きだったものの、ある夜、相当な額を負け、そのお金を返すために誘惑から逃れるためにフランス北部の田舎に引っ越し、たぶん死にものぐるいでレストランで働きながら返済。その後、南仏に戻り、村のバーを買い、結婚するも、息子が生まれると同時に離婚。その後はずっと独身をつらぬき、店の上で暮らし、仕事に邁進、数えきれないほどの女を泣かせ、儲けたお金も旅行や女性や狩猟などで大いに使い、毎晩、店でシャブリを飲み、しかしアルコールは太るからと夜は食べないストイックな面も。ある意味、大いなる“俗物”なのに、意外と敬虔なクリスチャンで、絵を描くことが好きで、大きな油絵を自分の部屋で描いてた。一度、セザンヌの話をしたとき、描きかけの絵を見せてくれたっけ。俺だって飲んだくれてるだけじゃないんだぜって言いながら。彼のセザンヌ評は忘れちゃったけど。
私が最初に出会った頃、当時20歳の若い女性と付き合い始め、どうせすぐ別れるだろうと皆に言われながらも、数年前に何を思ったか、結婚してしまった。当時、彼は60歳。
その後、癌に冒され、それでも治療を受けながらいつも店にいて、行くと、「おお、元気にしてるか?」と頬にキスしてくれた。
先日、最後の旅にと、いままで行きたくて行けなかったラスベガスへ妻と二人で行きました。そして、カジノで10万円ほど勝ち、満足しつつも気分がちょっと悪くなったと外のベンチで二人で涼んでいるときに、眠るように亡くなったのだと。
若い妻や赤の他人のアメリカ人に多大な迷惑をかけ、本人は大満足で昇天だなんて、そもそも、そんな状態でラスベガスだなんて、まったく、最後の瞬間まで、どんだけ能天気でわがままなんだって話だけど、これ以上ないほど、彼らしい死に様ではある。
今日、教会に入ると、彼の好きだったジョニー・ホリデイの「L'envie」が流れていました。教会の中は、彼を見送るために300人、400人、あるいはそれ以上の人でぎゅうぎゅう詰め。けんかっ早くて、口が悪い人だったけど、愛されていたんだな。
彼はまだ65歳だったし、妻も若いのだから、まだまだやりたいことはあっただろうと思うけれど、それでも、このあっぱれな大往生ぶりに、今日、皆が心の中で拍手喝采しただろう。世の中に何か大きな貢献をしたわけでもなく、自分勝手に好きなように生きたただのプレイボーイに、何が拍手だと思う人も多いだろうけど、実際、今の世の中、好きなように生きるというのが何より難しいんじゃないだろうか?
フランスは、そういう点で、人と違っていても、それをどうこう批判する風潮があまりないので、彼のような生き方も難しくないのかもしれない。
しかし、感嘆に値するのは彼だけじゃない。最期までバーに立つのを支えた妻や妹、義理の弟たちもすごい。リスクを覚悟の上で旅に同行し、あるいは見送ったのは、最後の夢を叶えてあげたい、彼の望むように人生を全うさせてあげたいという気持ち、彼への愛だと思う。はたして自分にはできるだろうか。
絶縁状態になっていた息子は、最期まで顔を出さなかった。行く、と言っていたのに。それを悪く言う人がいても、「二人にしかわからない問題だから」「家族というのは、いつだって複雑なものさ」と、さらりと流してくれる人たち。私が出会った頃はとても仲が良く、二人で店を切り盛りしていただけに、残念でならないけれど。彼は彼のやり方で、父にさようならをしたのだと思う。
逝ってしまった彼には、もう伝えられない私の気持ち。
私にとって、あなたのバーが、フランスの入り口でした。ありがとう。あなたの寛容さや優しさ、そしてあの言葉のおかげで、私は、いま、ここにいます。
あぁ、やっぱり、言いたいことは死んじゃってからじゃだめだ。生きているときに伝えなければ。
こんな後悔はもうしたくない。強く、心に刻もうと思う。
サプライズパーティのときの思い出の一枚。私の人生を変えたこの日のことは生涯忘れない。
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