もう少し考えてみました | 司法浪人医師の別荘

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自分オリジナルの「使命」を、いい歳こいて!?真剣に探し始めた一人の変わり者の日常を綴る…ための別荘。

ここのところ、「寂しさ」や「孤独」について考えてみたり、それにおののいたりしておりましたが、少し元気になってきたので、ついでにもうちょっと考えてみました。

以前の更新でも、人が寂しさを感じるのは単純に周りに人がいないから、ではないだろうと書きました。

これに対して、本来、孤独それ自体は周りに人がいない客観的状況を指すものと考えられますから、寂しさと孤独は一応別の概念であるはずです。

どちらかといえば、寂しさ≒孤独を恐れる感情≒孤独「感」ということではないでしょうか。

そして、孤独には沈思黙考することによって己の思索を深めたり、既存の知識の理解を深めたり、新たな発見・気付きを得られたりしやすくなるという、明確なメリットも認められ、決して悪いことばかりではないはずですから、程度を超えた、孤独を恐れる感情≒寂しさを感じてしまうことには何か別の問題点があるはずです。

以前、理解してくれる人がいないから寂しいのであろうということを書きましたが、そのことをもう少し考えてみると…

他者からの理解が得られれば、自己の思想・信条に対しての共感を共有することにより、承認されているという実感が得られる結果、人は精神的な安心・平穏が得られるものと思われます。

そうすると、反対に周りに他者がおらず、他者からの承認が得られない状況で精神的な安心・平穏を全く得られないとすれば、その状況では自己への承認がどうやっても感じ取れないという現象が起きていることになります。

だとすれば、その現象の根本的原因は、どうしても自己を承認できない心情、言いかえれば、「自分を嫌う感情」なのだろうと思います。

自分を嫌う感情が高じていて、一人きりでいると自分を非難・攻撃せずにはいられず、もはや自分一人では自己の承認欲求を満たすことがかなわないとき、他者からの承認を渇望し、誰かとともに時間・空間を共有しないことには精神的な安心・平穏を得ることができなくなってしまうのではないかと思います。

私自身の事を思い返してみても、寂しさをあまりに強く感じているときには、人と接していても、やたらと共感、同意等を欲していて自分でも始末に負えず、結局帰った方が得策だなと感じ、その場を引き上げることが多い気がします。

そして、そんなときは家へ帰って、向き合う者が自分だけになると、やはりいつもに増して自分のろくでもなさに対し攻撃をやめることがなかなかできません。

普段の調子ならなんでもないことなんですがね…。

何となく、根本的に目指すべきは、自分をむやみに嫌わないこと、なんであろうと納得した気になっております!

考えてみれば、どんなに親密な間柄の他者よりも、自分と付き合う時間のほうが絶対に長いわけですから、その相手が嫌いなんじゃ、身がもちませんわね!!

実はすごく当たり前のことだったようです!

また、妙な話に長々付き合って下さり、ありがとうございました。

私は元気ですので、ご心配なく。

それでは、また!(⌒-⌒)