今日は既に午前中から断続的に3時間半ほど勉強できており、喜ばしい限りです。
(⌒-⌒)!
少し勉強を進めていた段階で、宅配便にて、年内には受け取れないかもしれないと思っていた予備校のDVD教材が届いたので、少しうれしくなり引き続きそれで勉強をしました。
これで、年末年始の休みにも効率的に勉強できることでしょう!
しかし…休みの間によく勉強ができるといって喜んでいるのは、我ながら妙な感じがしますがね…。
学生時代や、つい数年前の自分からは到底想像もできない心境です、正直言って、少し気持ち悪いかもしれません、そのころの自分から見たら…。
でも今は思います。
人間は、一生懸命に仕事をしていても、それだけでは、実はさほど頭を使ってもいないし、新たな発見、成長等は微々たるものしか得ていないのではないかと…。
反対から考えると、いちいち頭を使わなくても一定の事務に対し、ほとんどの場合に適切に処理できるようになっているからこそ、仕事として対価を得ることができるようになっているわけですから。
よく自動車の運転に例えられますが、練習を始めたばかりの頃は、必死になってすべての動作につき「頭を使って」いるからこそ、非常に苦労をし、うまくいかないのだそうで、熟練するに従って楽に運転操作ができるようになっていくことは、これを脳の作用からみれば、「頭を使わずに」行えるようになってきた、ということです。
ここで思うに、机に向って、自分がまだよく理解していない事柄につき、いわゆる「勉強」をすること、というのは際限なく未知のものに対して理解、考察を試みる行為なのですから、極端に言えば、熟練して楽に行えるというステージは永遠に来ないことになります。
そして、新たな発見・成長といったものは、このくらい苦痛な作業からしか得られないのではないでしょうか?何故、大人は机に向かわなくて良いのでしょうか?もう、自己の成長は脇に置いて、わが子の成長のみに専心するほど成長しきっているのでしょうか?本当に「子供を通じて親も成長するのだ」ということで足りているのでしょうか?
試験問題でも、未知の問題に対し、現場思考を求めるような問題がやはり一番脳が疲れる実感を持ちます。
いとも簡単に「社会に出てから人間関係の中で学ぶことが本当の勉強だ」とした上で、座して勉強をすることの価値を低く評価するといった、比較的頻繁に遭遇する価値観には、やはり、違和感を禁じえません。脳の疲労から逃げているような気がするからです。
それは仕事をしている人間ならば一人の例外もなく経験することであり、特段の努力を積み増すものとはいえないはずですし、すなわち自分だけ大したことをしているわけではないのであり、座して勉強することに比べれば、まだ処しやすい行為であるとも思います。
誰にとってみたって、辛い作業のはずなんですがね、勉強が一番。
体裁よく勉強という行為から逃げるための方便に思えて仕方ありません。
それならそれで、堂々と「私は勉強嫌いだからしません」と言えばいいのになあ、と思います。その生き方を選択すること自体は、価値中立的であって誰からも文句を言われることではないと思うからです。
そう、はっきり言う人間とは、仲良くなれている気もします。
そして結果として、私は友達が少ないです。あまり、理解もされません。
まあ、当然なのでしょう。通説とも言えるほど支持者の多い見解に逆らっているのでしょうから…。
それでも私は、「本音の部分を隠して体裁を取り繕った説明をすること」これが一番虚しい行為だと、思います。
何となく、虚礼や口先だけで謝ること、等の実質を伴わない行為を重要だと言って、他者にも要求することに対して感じる、空虚さ・違和感と似ています。
あれ!!書き出しと比べて随分と違う、おもしろくもない話題にそれてしまいました
��( ̄ロ ̄|||)
いいかげん悩むのはやめて、もう少し勉強でもすることにします。