私は思うのであります。
この世のいかなる定説・通説も、つまるところは、「その時点で相対的多数の支持者を集めることに成功している」、ということを超えた意味は有していないのであり、その意味で、すべからく仮説にすぎないのであって、それを価値的に唯一無二の至高の存在であるとすることは誤解であり、是非とも避けねばならないことのはずである。
然るに、真理を追い求める心的態度は掛け値なく、人間として生まれてきた以上、最上のものとして尊ぶべきものである反面、これが現象のレベルに下りてきたとたん、いわば真理の類似形としての単一の事象、すなわち定説を確定することなど不可能であることが既に真理の中に内在されている、ということにならざるを得ないのです。
そうであるならば、客観性の担保が必要とされている事務の遂行にあたって、必ず要求される「理由付け」という作業を行うにあたり、人間は何をどのような意味付けにおいて使用すれば良いのだろうか?
端的に申せば、そんなものありはしないのだ、と、徹底するのが純粋な多数者支配的民主主義の基本理念です。
話を戻します。
例えば、裁判の場合、ある事柄につき公権的に解釈を行うことで紛争解決をしたり、国家刑罰権を発動したりするわけですが、その際に「理由付け」に用いられるのはもちろん第一義的には法規の要件・効果です。
更に、その場合「要件に該当する」との判断を下すまでに、条文の解釈に争いを生じたとすれば、当該裁判所が行った判断に用いられる「理由付け」は過去の判例です。ほとんどの場合、つまり、判例変更のあった裁判以外では、という意味において。
しかしながら、その場合においても必ず、同程度の説得力を持つがゆえに、どちらが正しい解釈であるかなど、もはや判断不能であり、かつ、その説を採れば結論が正反対になってしまうような、「有力な反対説」が通常、存在するのです。なぜなら、我が国は「価値観の相対性」すなわち「民主主義」を重んじる国家体制をとっているからであります。
そうすると、この場合の結論に正当性を持たせているものは、「わが国では、現時点においてこの価値観を正しいものとさせていただきます、文句あっかバカヤロー!文句のある奴には刑罰その他の不利益を与えちゃうからね!」という、「政策」という名の、言ってみれば「誰かの独りよがり」なのです。
それはそれで国家統治にあたっては、国際的にも現代において広く支持を得ている手法だけに、妥当であるといえましょう。
問題は、私的自治の場面ではどうすれば良いのか?ということです。
現実には、「事実上の力関係」の上で、強い者の好む価値判断が選択される、という形で発現することが通常でしょう。
そこで、思うのです。
厳に慎むべきは、己が価値観への思考停止による一方的支持である、と。
そう、すなわち、「ドグマ」であります。
しかし、現実世界で強い力を得るためには、そんなことでいちいち思い悩むことをせず、盲信に基づいて猛進することが近道なのであります。
結果として、思慮深き者は、その思慮深さゆえに自己を主張することに対し思いあぐねてしまうこととも相まって、この世は短絡・独善・思考停止の牙城と化してしまいがちなのであります。
言い過ぎましたね…失礼!