『韓国キリスト教神学思想史』 柳東植・著 澤正彦/金纓 共訳 教文館 1986年
柳東植は1922年生まれ、延世大学教授
二、三〇年代の教会状況と李龍道運動
一九二〇年代に驚くほどに増加した教会人数は、一九三〇年に、三七万名になって、その頂点に達した。一九三〇年代の日帝政策の下では、教会は数的に成長することが出来なかった。しかし、すでに五十年育ってきた教会であたから、内的に成熟していた。そのため、教会の活動自体は過去のどの時よりもかえって活発な様相を表わしていた。ここにそのいくつかの特徴的な事件だけをあげてみよう。
第一は、朝鮮南北監理教年会が合同で、一九三〇年に、一つの朝鮮監理教会を成立させた事実である。北監理教は、アペンゼラーの来韓とともに始まり、南監理教は、それよりも遅く、尹致旲(ユンチホ)の斡旋によって一八九五年に入ってきたものであった。一九二六年から合同を論議してきた結果、ついに一九三〇年を期して、実現するようになった。これは単純に、その合同だけに、意味があるのではない。この時を期して、韓国人の独自な教理的宣言を決議することによって、始めて信仰的に独立した教団が形成されたというところに、その教会史的意味があるのである。教理的宣言は次のようである。
基督教朝鮮監理会教理的宣言
一、われわれは、万物の創造者であり、摂理者であり、すべての人類の父であり、すべての善と美と愛と真の根源である唯一なる神を信じ、
二、われわれは、神が肉体になって現われ、われわれの師となり模範になり、代贖者、救い主になられるイエス・キリストを信じ、
三、われわれは、神がわれわれと共におられ、われわれの指導と慰めと力になって下さる聖霊を信じ、
四、われわれは、愛と祈りの生活を信じ、罪の赦しと、すべての要求に十分なる恵みを信じ、
五、われわれは、旧約と新約にある神の言葉が、信仰と実行に充分な標準になることを信じ、
六、われわれは、生ける主のもとで、一つにされたすべての人々が礼拝と奉仕を目的として、団結した教会を信じ、
七、われわれは、神の御旨が実現した人類社会が天国であることを信じ、父なる神の前にすべての人が兄弟になることを信じ、
八、われわれは、義の最終的勝利と永遠の生命を信ず。
アーメン
第二に指摘すべき三〇年代の韓国教会の特徴は、自分たちの信仰路線に対して、神学的論争を展開した事実である。いまや自分の神学的思想の基礎を構築するほど、教会が成長したのである。いってみれば、韓国神学の定礎期を迎えたわけである。このことに対しては、次の項目で、論議されよう。
第三に指摘される三〇年代の韓国教会運動の一つの特徴は、一九〇七年の第一の復興[リヴァイバル]運動につづいて、第二の教会復興運動の波が、激しく波打ってきた事実である。第一の復興会運動の特徴が、終末論的な信仰に基礎をおいた倫理的悔い改め運動であったとするならば、第二の復興会運動は、宗教的愛に基礎をおく神秘主義的信仰運動であったといえる。第一の復興運動は、亡国の渦中に黙示文学的希望を吹き入れる信仰運動であった。これにくらべて、第二の復興運動は、植民地の歴史的現実に絶望した民衆に、愛と慰めを与える信仰運動であった。前者が儒教的伝統に立脚した父性的復興運動であったとするならば、後者は巫教的伝道に立脚した母性的復興運動であったといえよう。一九〇七年の復興運動の中心人物が、長老教の吉善宙(キルソンジュ)牧師であったとするなら、三〇年代復興運動の中心人物は監理教の李龍道(イヨンド)牧師であった。この復興運動は多くの物議をかもした。しかし一方では、新しい土着的教団を生むほど強力な心霊運動でもあった。これは三〇年代韓国教会の一つの特徴をつくったものであったから、ここで李龍道とその周辺について細かにみてみよう。
1、韓国復興会形成の背景と李龍道の位置
われわれ韓国人に本来情熱的な性格がないわけではないが、韓国の風土とその文化的環境がこれを抑制してきた。季節風地帯に位置する韓国は、季節に従って急変する自然の威力に、ただ堪え順応し、服従してきた。シャーマニズムは諦念と運命論を育てたし、一千余年を支配してきた仏教は、韓国人の情念を否定するように教え、李朝五百年の儒教は権威に対する服従の論理を訓練してきた。それだけではない、隣接した強大国は常に、韓国人に屈服を要求してきた。そして韓国と歴史を共にしてきた貧困は、韓国人の熱情を冷すもう一つの要因であった。要するに、自然と歴史的環境は、韓国人をして、服従と受容と忍従的な性格をもたせるようにした。したがって韓国人の情熱は、つねに抑圧状態にあった。
このような民族性と関連して考える時、キリスト教の伝来というのは、韓国に最も大きな事件であったのである。なぜなら、キリスト教は人間性の自覚と解放をもたらし、創意的であり、積極的な性格を育ててくれる宗教であるからである。
キリスト教が伝来した一九世紀末の国際情勢は、また韓国に民族的自覚を促した時代であった。韓国の領土で起こった日清戦争と日露戦争に勝った日本の民族的弾圧は、ついに韓日合併という名の亡国をもたらした。キリスト教による個人の自覚と亡国を前後する民族の自覚は、韓国人に新しい性格を負わせた。それが韓国のヒューマニズムであり、反抗意識であった。一八九四年の東学革命運動と一九一九年の三・一独立運動はその歴史的な例証である。いまや、単純に忍従と受容によって、自己の情熱を抑制してばかりはおれなくなった。長い歴史を経て押えられていた韓国人の情熱が、甦ってきたのである。
人間性の自覚と熱情を急速度に成長させたもう一つの要因は、韓国人にせまってきた民族的絶望感であった。亡国を前後した日本の弾圧は、韓国人を大きな絶望感の中に陥れた。以前だったら、もう一つの忍従として、堪えていったかもしれない。しかし、個人と民族の自覚が起こった今、そのような絶望感は、かえって韓国人の自覚を更に鋭利にさせたのである。ここに韓国復興会発生の素地がつくられたわけである。
韓国の初期キリスト教徒は、本来熱情的な復興会というものを知らなかった。仏教や儒教の場合と同じく、健全な宗教に熱情の如きものが介入するということをほとんど想像することが出来なかった。そこへ、宣教師によって、少しづつ復興会というものが紹介されてきた。
最初の発端は一九〇三年元山(ウルサン)で集まったメソジストの宣教師たちの復興査経会(プフンサギョンヘ)[聖書研究会]であった。そこでハーディ牧師は聖霊充満を経験した。その後、彼は、一九〇六年、平壌(ピョンヤン)にいたプレスビテリアンとメソジストの宣教師たちの招きで、復興査経会を導き、韓国教会の一大転換点といえる一九〇七年の復興運動期をつくったのである。
一九〇七年は、ピョンヤンを中心とした全国復興会の年であった。亡国前夜の民族的な鬱憤と宗教的感激が共に作用した初期復興会の熱情は、大変なものであった。平壌中央教会の集会では一五〇〇名も集まったという。そこでは聖霊の導きと愛の合一が強調され、祈りと讃美の熱があつくもえ、すべてのものが痛悔の涙を経験した。集会の光景は、かなり熱狂的なもので、宣教師の中には、失心する人がいるのではないかと心配する者もいたという。この復興会の熱は、そのままつづいて、一九一〇年には監理教を中心に、「百万救霊運動」が全国的に展開された。当時、全国の教会員数は二十万程度であったが、国家の衰亡と民衆の絶望感は、熱情的な復興会にいっそうの拍車をかけ、韓国の復興熱は一九三〇年まで続いた。そして、一九〇七年以後、復興会の指導権は、宣教師から、韓国の牧師たちの手に移ったのである。その中でも各時代を代表する顕著な牧師が三人いる。すなわち、吉善宙、金益斗(キムイクトウ)、李龍道がそれである。
吉善宙牧師は、一九一〇年韓日合併による亡国の苦い杯を飲んだ民衆に、黙示録を説き、元気と希望を与え、金益斗牧師は一九一九年の三・一独立運動以後、挫折した信徒たちに向かって、痛悔と神癒によって、慰めの道を開いたのである。一九三〇年を前後して、日帝の弾圧の下に、疲れはてた民衆には、一つの火が望まれたのである。この時に登場したのが熱狂主義者李龍道であった。
2、李龍道の信仰と熱狂主義
李龍道は、一九三三年に三十三歳で世を去った若い牧師であった。二十八歳で教職となったところをみると、彼の復興活動期間は、わずか三、四年に過ぎない。しかし、彼の名が全教界に広まり、今日でも伝えられているということだけでも、その復興会がいかに熱情的な集会であったかを端的に立証されることになるのかもしれない。
彼は自分の信仰の段階を四つに分けて、自分の日記に書いたことがあった。おそらく、これが彼の信仰生活を探る尺度になるだろう。
第一の段階を教会時代という。教会組織と制度に縛られて、苦しんだ時代ということができよう。彼が神学校の卒業をひかえていた一九二七年と、通川(トンチョン)[江原道の海岸町]で始めて(←誤字)の牧会をした一九二八年がそのような時代ではなかったかと思う。彼の眼には教会という存在が大きくみえ、したがって彼の神経は教会批判に向けられた。当時の彼の日記帳には、教会批判の言葉が多く記録されている。彼は、教会にあるものと、ないものを対照させて、次のように書いたことがある。あるもの――うわさ、ねたみ、紛争、不平、心配、分裂、利己、家庭不安。ないもの――祈り、愛、感謝、讃美、協同、奉仕、家庭祈祷。そして彼は当時の教会を批判して、「イエスを殺して、その衣だけを分ける現代の教会」といい、また「イエスの血を捨てて、その形式のみを取る現代教会」だといった。要するに、現代教会に死亡診断を下したのである。したがって、彼は教会の復活の必然性を力説して、そのような意味で、リヴァイバルである復興会が必要だと主張した。
第二の時代は修道の時代という。教会に対する関心から、自己自身に対する関心にもどったのである。ここでは内的な霊、肉の闘争というところに関心の焦点があった。肉を自己愛および世間愛といい、霊を同胞愛および主の愛といった。そして、彼は肉を殺して、霊を生かすことに、たえざる努力を傾けていた。ついには、肉慾こそ、いわゆる悪魔であり、悔い改めとはこのような肉的な自己を否定して放棄することと理解したのである。
彼の修道生活は、他の面でも窺うことが出来る。それは、彼が晩年まで繰り返して、自分の日記の冒頭に書いていた彼の座右銘である。「苦は私の先生、貧は私の愛妻、卑は私の宮殿」とあった。彼は貧しさの中で生まれ、貧しさの中で生き、貧しさの中で死んだ人であった。二十六歳で肺病になった彼は、結局肺病でやせ衰えていく苦痛の中で生きなければならなかった。人と違って鋭利な感情と芸術的才能があった彼には、一種の虚栄心があり、大衆復興会で得た人気には、一種の英雄心がついてまわった。そのため、彼は苦難の中で学び、貧しさをかこつことなく、常に謙遜と卑下を身につけようと努力する生活をしたのである。
第三の段階を信仰時代といった。彼は信仰の代表的な人物はパウロだといい、「信仰の真意はイエスを承認信受」することと、「霊の国を承認信受」することだといった。彼には、信仰は副業ではあり得ない本業であった。そして、彼が復興会と手紙を通して、人々に勧めた言葉の中で最も強調したのは、「イエスに狂え」ということだった。人はなんと批難しようが、死んでも生きても、「私は、ひたすら主のために狂おうとする心一つしかない、末席の僕(しもべ)だ」と自分を描いた。これほど「狂え」という言葉を多く使った牧会者も珍らしいであろう。このような意味でも、彼の熱狂主義には狂という字をつけてよいのかもしれない。
しかし、彼の熱狂主義の本質は、彼がいう第四の段階、すなわち愛の時代だと呼んだところにあったといえる。彼は愛の使徒ヨハネを自分の理想としていた。ヨハネによる福音書とヨハネの第一の手紙は彼が最も親しんだ書であった。そこで愛を求め、そこで霊と一つになる神秘を発見したのである。神学生時代にたいへんな無理をして買ったエンサイクロペディア一セットとひからびた神学を遠ざけてしまい、トルストイ、トマス・ア・ケンピス、タゴール、サンダー・シングなどと親しんだ性格がここにも窺えるようだ。ひからびた理論ではなく温かい愛を探し、秩序ある世の生活を喜ぶのではなく、恍惚の祈りの秘密を喜んだ。彼はまた抽象的な全体ではなく、具体的な一つに全体をみようとした。このようなすべての心の運動を、彼は愛という言葉で要約した。そして、彼が最後に突入したところは、実にこの愛の熱狂主義であった。
本来多情多感な人物ではあったが、彼をついに熱狂主義に導いたのは、愛であったといわざるを得ないであろう。貧しい宋昌根がアメリカに留学する時、李龍道は、自分の服と家産のすべてを売って、彼に与えたという。こじきの子をみてたまらず、自分のいる旅館につれて来ては一緒に寝、一緒に食べ、涙で過ごすほかなかった彼であった。なによりも、彼が最後まで実践しようとしたのが無限抱擁の愛であった。
当時教界では、既成教会から異端といわれ、排斥されている何人かの人たちがいた。しかし、彼は日記で次のようにいう。「人に一つの善と九十九の悪があるか。それなら、私は一個の善のために、その人を愛し尊敬しよう」。ついに彼は、平壌にいる信仰の同志金麟瑞(キムリンソ)に次のような手紙を送った。
「私は金聖実(キムソンシル)派[後出の韓俊明(ハンジュンミョン)とともに、一九三〇年代の初め頃、神秘主義を唱えて、教会から異端視された人々]でもないと同時に麟瑞派でもなく、泰鎔派[崔泰鎔(チェテヨン)、福音教会の創設者、長老教会からは異端とされた。]でもない。同じように南柱派[白南柱(ペクナムチュウ)によって構成された派]や俊明派でもない。
泰鎔――世の人から捨てられる時に、私の心には彼を思って切なるものがあり、聖実が捨てられる時に、私の心はまた同様であり――私が彼らの主義に賛同したからではない。――その意味がよくわからなくても――
南柱、俊明が追い出されて、蔑視されると、私にはまた、彼らに対する切なる思いがあつく上ってくるのだ――……
しかし、もし後に不幸にも悪神につかれたといわれて追い出されたり、死ぬべき奴という悪態をつかれて、逃げるところがなくなったら、その時には私にきなさい――私は兄と共に辱しめをうけながら、兄を食べさせ、着せようと思う。」
李龍道がいう熱狂主義の本質はここにあった。彼が南北では統営[慶尚南道の南端]から間島に至るまで、東西では通川から仁川に至るまで、長老派、監理教、ホーリネスの区別なく、全国にある百余の教会を尋ね、復興会を開いたというのも、一つの熱情主義かもしれない。彼が一度、講壇にあがって立つと、讃美歌を歌い、説教し、祈ること四、五時間になるというのも、一種の熱狂主義といえるかもしれない。祈りの恍惚の中で、時間と場所を忘れてしまうというのも、また一つの熱狂主義であろう。しかし、彼をして、真の熱狂主義に至らせたのは、無差別の愛と無限抱擁を実践しようとしたところにあった。熱狂主義に長所短所があり、李龍道に長所短所があったとするなら、まさにここにあったのである。
ここで、彼の熱狂主義を後づけてくれる彼の個人的な要因をいくつかに分けてみてみるのも意味があると思う。
第一は、彼の熱情的な性格であった。彼は三・一運動以後三度も投獄されたが、その時中学生であった。それでも再三入学して、九年かかって中学を卒業したほどねばり強い性格をもっていた。
第二に、彼の終末意識が、彼をして全精力を注がせる背景になった。彼は肺病三期という危険な段階で、つねに死をみつめなければならなかった。この世で長生きする可能性がない時、賢明な人間は、価値あるただ一つのもののために自分の存在を賭けるであろう。
第三に、彼には全身を捧げることのできる信仰体験があった。神学生時代に江東[平安南道北東地方をいう]で開かれた復興会の経験と、通川で牧会した時の山の中での祈祷の経験が、彼をして神秘的な力を体験させたのである。その後彼は祈りに生き、祈りに狂う人になった。
このようなものを後盾として、信仰の奥義を愛に求める彼は、熱狂主義に流れていったのである。
3、彼の熱狂主義がもたらしたもの
以上みてきたように、彼の信仰と熱狂主義に、病的なものや異端性をみつけるのはむつかしい。今日の熱狂的な復興師達によくみる、入神や異言のような奇現象もなかった。入神というのはキリストと同居することであり、悔い改めることだといった。
しかし、彼の熱狂主義は思わぬ副作用をもたらした。彼の熱情的な信仰運動が大衆の飢え渇いた心霊に生命の火ばなを味わせたことだけは事実である。だから会衆は一種の躍動する力を感じた。しかし、その大衆は内的な力を帯びるほどの準備のない人々であった。大部分が知識のない大衆であったり、婦女子であった。そして、彼らは復興会に参加して、そこで極めて情的な力を直感するや、直ちに既成教会と牧会者たちに不満を感じるようになった。冷々して無力だというのだ。それで自ら傲慢になり、既成教会に向かっては批難の声をあげるようになった。
それだけではない。李龍道の復興会が通り過ぎた後には、この部類の人々が一種の不満と心的な虚脱感を感じるようになった。したがって自分たちだけで集まり、祈祷団をつくるといった具合いで、特別なグループを形成するようになった。これがあちこちで生まれた李龍道派というものだった。結局彼の復興会が過ぎ去ったのちの教会には、一種の分裂症が起こりがちだった。
要するに、彼は、復興会を通して会衆に生気を与えることができた。しかし彼が会衆に対する教育的責任を果たすことが出来なかったために、彼の周辺に意図しない狂信者をつくってしまったのである。したがって混乱が起きた既成教会では、李龍道に向かって批難の声を投げかけ始めたのである。
一九三一年、阿峴(アヒヨン)聖潔[ホーリネス]教会では集会中に彼を追放し、同じ年に長老会黄海(フアンヘ)老会では、李龍道牧師反対案を決議した。その理由は、①教会を誹謗し、②女信徒と交わりがあり、③灯を消して祈り、④教職者を攻撃し、⑤無教会主義者である、などであった。
これに対して彼は、金麟瑞にあてた手紙の中で、これらはすべて根拠なき誤解であることを指摘している。しかし、彼に対する教会の批難は日に日に大きくなっていった。一九三二年、彼が死ぬ一年を前にして、受けた批難は最高潮に達した。平壌老会は二度にわたって、反対決議をした。要点は、騒がしい祈祷団体をつくったということ、教会秩序を破壊したということ、そして偽りの予言をしたということであった。特にこの偽りの予言をするという問題に対しては、李龍道系列にあって名の通った一青年の、いわゆる入神予言事件というのが平壌であったからである。ついに「基督申報」では、李龍道一派を論評して、「バアル神と偽予言者を引いてくるイゼベルの群」だといった。そして、その翌年、監理教年会では、彼を休職処分にしてしまったのである。
このようにして彼は既成教会から追い出され、彼に従う教会員も同じように追い出されて、行く所のない群になった。そのため本人は意図しないばかりか、実際に恐れ反対したにもかかわらず、追い出された群が一つの新しい教団をつくるという悲劇をつくり出してしまった。ここに、彼が教会から異端として追いつめられた理由がある。
一九三二年十二月末の彼の日記に、彼はその心境を次のように書いている。
「静かに名もなく、過ぎゆく孤独な野花! 今や噂を残し、路傍で踏まれる、名のある、しかしやはり孤独な百合の花だ。」
4、彼の周辺と李龍道の埋葬
当時の教会指導者には、五種の異なる類型があった。第一は、既成教会の広範な一般牧師たち、第二は、李龍道のような復興師、第三は外遊した理性派(宋昌根など)、第四は無教会主義者(金教臣(キムギョシン)など)、第五は隠遁、神秘主義者であったが、その代表的なものが、元山に根拠をおく白南柱一派であった。
李龍道はこのすべての類型の人々と交友関係をもっていた。そのため、広い意味で、彼の周辺につらなっている人々というのは、極めて広範囲なものだった。しかし、特に、彼の周辺にいて物議をよんだグループは、白南柱一派の神秘主義追求者たちであった。事実上李龍道の追随者といわれている「イエス教会」の形成には、白南柱の組織力が絶対的な役割をはたしたのである。
李龍道の死亡直前に、「イエス教会」が形成された。そして彼の死亡後、本部を平壌において、これを宣道院といった。その代表者は、李浩淋(イホビン)牧師であった。そしてこれに所属した集会所は四十個を数え、一つの韓国的な土着教会を形成したのである。
彼らは、既成教会から追い出されて、異端視されはしたが、彼らなりに安定することによって、それ以上問題になることはなかった。かえって、これは、韓国の土着教会という点から、韓国教会史上、重大な意味をもった集団となった。
ところで、このイエス教会と関連した集団の中に、喜ばしからざる事件がひきつづいて起こった。イエス教会の神学校といえるのが、白南柱が設立した元山神学院であった。ここで白南柱は、神秘主義的入神と予言にかこつけた性的な紊乱事件を起こして、世の中を騒がした。一方、平壌のイエス教と関連をもっていた鉄山(チョルサン)の金聖道(キムソンド)を中心として、奇妙な事件が起こった。それは彼女を「新しい主」と呼んで、信仰の対象とした、いわゆる「聖主教団」が形成されたことである。彼らは平安南道粛川七里で聖主教総会を開き、そこに集まった男女四十余名の会員に聖職者の按手を与えた。そして、いわゆる混淫事件が起こったのである。これらのすべてに主動的な役割をはたしたのが、白南柱であったということで、驚かざるを得ない。
このような不幸な事件が起こるたび毎に、人々は、すぐ李龍道派の事件だといった。全教界を揺がした彼であったからか、すべての問題は彼のせいにされた。事実、李龍道は白南柱を先生と呼び、白南柱は李龍道の真の同志だと自称していた。そして李龍道が死んで、すでに相当の時間がたっていたのに、改めて李龍道牧師埋葬の気運が起こってきた。
この気運に加勢するものがもう一つあった。それは金麟瑞が経営していた雑誌「信仰生活」が、李龍道を攻撃したことである。実は彼自身李龍道の同志であり、「信仰生活」の創刊のために、最初に協力したのも李龍道であった。しかし、そこには奇妙な感情的なものが介在して、結局李龍道を埋葬する勢力に加担する結果を招いた。
区別のない愛を叫び実践しようとした李龍道の熱狂主義がもたらした結果は、結局このようなものだった。彼には信仰上の責任はなかったといえるかもしれない。しかし、彼には教育的な責任を果たすことの出来なかった弱点があり、彼の熱狂主義を支える神学がなかったところに、もう一つの弱点があった。これが結局一つの無分別と混乱をもたらした重要な欠点になったのかもしれない。
柳東植は1922年生まれ、延世大学教授
二、三〇年代の教会状況と李龍道運動
一九二〇年代に驚くほどに増加した教会人数は、一九三〇年に、三七万名になって、その頂点に達した。一九三〇年代の日帝政策の下では、教会は数的に成長することが出来なかった。しかし、すでに五十年育ってきた教会であたから、内的に成熟していた。そのため、教会の活動自体は過去のどの時よりもかえって活発な様相を表わしていた。ここにそのいくつかの特徴的な事件だけをあげてみよう。
第一は、朝鮮南北監理教年会が合同で、一九三〇年に、一つの朝鮮監理教会を成立させた事実である。北監理教は、アペンゼラーの来韓とともに始まり、南監理教は、それよりも遅く、尹致旲(ユンチホ)の斡旋によって一八九五年に入ってきたものであった。一九二六年から合同を論議してきた結果、ついに一九三〇年を期して、実現するようになった。これは単純に、その合同だけに、意味があるのではない。この時を期して、韓国人の独自な教理的宣言を決議することによって、始めて信仰的に独立した教団が形成されたというところに、その教会史的意味があるのである。教理的宣言は次のようである。
基督教朝鮮監理会教理的宣言
一、われわれは、万物の創造者であり、摂理者であり、すべての人類の父であり、すべての善と美と愛と真の根源である唯一なる神を信じ、
二、われわれは、神が肉体になって現われ、われわれの師となり模範になり、代贖者、救い主になられるイエス・キリストを信じ、
三、われわれは、神がわれわれと共におられ、われわれの指導と慰めと力になって下さる聖霊を信じ、
四、われわれは、愛と祈りの生活を信じ、罪の赦しと、すべての要求に十分なる恵みを信じ、
五、われわれは、旧約と新約にある神の言葉が、信仰と実行に充分な標準になることを信じ、
六、われわれは、生ける主のもとで、一つにされたすべての人々が礼拝と奉仕を目的として、団結した教会を信じ、
七、われわれは、神の御旨が実現した人類社会が天国であることを信じ、父なる神の前にすべての人が兄弟になることを信じ、
八、われわれは、義の最終的勝利と永遠の生命を信ず。
アーメン
第二に指摘すべき三〇年代の韓国教会の特徴は、自分たちの信仰路線に対して、神学的論争を展開した事実である。いまや自分の神学的思想の基礎を構築するほど、教会が成長したのである。いってみれば、韓国神学の定礎期を迎えたわけである。このことに対しては、次の項目で、論議されよう。
第三に指摘される三〇年代の韓国教会運動の一つの特徴は、一九〇七年の第一の復興[リヴァイバル]運動につづいて、第二の教会復興運動の波が、激しく波打ってきた事実である。第一の復興会運動の特徴が、終末論的な信仰に基礎をおいた倫理的悔い改め運動であったとするならば、第二の復興会運動は、宗教的愛に基礎をおく神秘主義的信仰運動であったといえる。第一の復興運動は、亡国の渦中に黙示文学的希望を吹き入れる信仰運動であった。これにくらべて、第二の復興運動は、植民地の歴史的現実に絶望した民衆に、愛と慰めを与える信仰運動であった。前者が儒教的伝統に立脚した父性的復興運動であったとするならば、後者は巫教的伝道に立脚した母性的復興運動であったといえよう。一九〇七年の復興運動の中心人物が、長老教の吉善宙(キルソンジュ)牧師であったとするなら、三〇年代復興運動の中心人物は監理教の李龍道(イヨンド)牧師であった。この復興運動は多くの物議をかもした。しかし一方では、新しい土着的教団を生むほど強力な心霊運動でもあった。これは三〇年代韓国教会の一つの特徴をつくったものであったから、ここで李龍道とその周辺について細かにみてみよう。
1、韓国復興会形成の背景と李龍道の位置
われわれ韓国人に本来情熱的な性格がないわけではないが、韓国の風土とその文化的環境がこれを抑制してきた。季節風地帯に位置する韓国は、季節に従って急変する自然の威力に、ただ堪え順応し、服従してきた。シャーマニズムは諦念と運命論を育てたし、一千余年を支配してきた仏教は、韓国人の情念を否定するように教え、李朝五百年の儒教は権威に対する服従の論理を訓練してきた。それだけではない、隣接した強大国は常に、韓国人に屈服を要求してきた。そして韓国と歴史を共にしてきた貧困は、韓国人の熱情を冷すもう一つの要因であった。要するに、自然と歴史的環境は、韓国人をして、服従と受容と忍従的な性格をもたせるようにした。したがって韓国人の情熱は、つねに抑圧状態にあった。
このような民族性と関連して考える時、キリスト教の伝来というのは、韓国に最も大きな事件であったのである。なぜなら、キリスト教は人間性の自覚と解放をもたらし、創意的であり、積極的な性格を育ててくれる宗教であるからである。
キリスト教が伝来した一九世紀末の国際情勢は、また韓国に民族的自覚を促した時代であった。韓国の領土で起こった日清戦争と日露戦争に勝った日本の民族的弾圧は、ついに韓日合併という名の亡国をもたらした。キリスト教による個人の自覚と亡国を前後する民族の自覚は、韓国人に新しい性格を負わせた。それが韓国のヒューマニズムであり、反抗意識であった。一八九四年の東学革命運動と一九一九年の三・一独立運動はその歴史的な例証である。いまや、単純に忍従と受容によって、自己の情熱を抑制してばかりはおれなくなった。長い歴史を経て押えられていた韓国人の情熱が、甦ってきたのである。
人間性の自覚と熱情を急速度に成長させたもう一つの要因は、韓国人にせまってきた民族的絶望感であった。亡国を前後した日本の弾圧は、韓国人を大きな絶望感の中に陥れた。以前だったら、もう一つの忍従として、堪えていったかもしれない。しかし、個人と民族の自覚が起こった今、そのような絶望感は、かえって韓国人の自覚を更に鋭利にさせたのである。ここに韓国復興会発生の素地がつくられたわけである。
韓国の初期キリスト教徒は、本来熱情的な復興会というものを知らなかった。仏教や儒教の場合と同じく、健全な宗教に熱情の如きものが介入するということをほとんど想像することが出来なかった。そこへ、宣教師によって、少しづつ復興会というものが紹介されてきた。
最初の発端は一九〇三年元山(ウルサン)で集まったメソジストの宣教師たちの復興査経会(プフンサギョンヘ)[聖書研究会]であった。そこでハーディ牧師は聖霊充満を経験した。その後、彼は、一九〇六年、平壌(ピョンヤン)にいたプレスビテリアンとメソジストの宣教師たちの招きで、復興査経会を導き、韓国教会の一大転換点といえる一九〇七年の復興運動期をつくったのである。
一九〇七年は、ピョンヤンを中心とした全国復興会の年であった。亡国前夜の民族的な鬱憤と宗教的感激が共に作用した初期復興会の熱情は、大変なものであった。平壌中央教会の集会では一五〇〇名も集まったという。そこでは聖霊の導きと愛の合一が強調され、祈りと讃美の熱があつくもえ、すべてのものが痛悔の涙を経験した。集会の光景は、かなり熱狂的なもので、宣教師の中には、失心する人がいるのではないかと心配する者もいたという。この復興会の熱は、そのままつづいて、一九一〇年には監理教を中心に、「百万救霊運動」が全国的に展開された。当時、全国の教会員数は二十万程度であったが、国家の衰亡と民衆の絶望感は、熱情的な復興会にいっそうの拍車をかけ、韓国の復興熱は一九三〇年まで続いた。そして、一九〇七年以後、復興会の指導権は、宣教師から、韓国の牧師たちの手に移ったのである。その中でも各時代を代表する顕著な牧師が三人いる。すなわち、吉善宙、金益斗(キムイクトウ)、李龍道がそれである。
吉善宙牧師は、一九一〇年韓日合併による亡国の苦い杯を飲んだ民衆に、黙示録を説き、元気と希望を与え、金益斗牧師は一九一九年の三・一独立運動以後、挫折した信徒たちに向かって、痛悔と神癒によって、慰めの道を開いたのである。一九三〇年を前後して、日帝の弾圧の下に、疲れはてた民衆には、一つの火が望まれたのである。この時に登場したのが熱狂主義者李龍道であった。
2、李龍道の信仰と熱狂主義
李龍道は、一九三三年に三十三歳で世を去った若い牧師であった。二十八歳で教職となったところをみると、彼の復興活動期間は、わずか三、四年に過ぎない。しかし、彼の名が全教界に広まり、今日でも伝えられているということだけでも、その復興会がいかに熱情的な集会であったかを端的に立証されることになるのかもしれない。
彼は自分の信仰の段階を四つに分けて、自分の日記に書いたことがあった。おそらく、これが彼の信仰生活を探る尺度になるだろう。
第一の段階を教会時代という。教会組織と制度に縛られて、苦しんだ時代ということができよう。彼が神学校の卒業をひかえていた一九二七年と、通川(トンチョン)[江原道の海岸町]で始めて(←誤字)の牧会をした一九二八年がそのような時代ではなかったかと思う。彼の眼には教会という存在が大きくみえ、したがって彼の神経は教会批判に向けられた。当時の彼の日記帳には、教会批判の言葉が多く記録されている。彼は、教会にあるものと、ないものを対照させて、次のように書いたことがある。あるもの――うわさ、ねたみ、紛争、不平、心配、分裂、利己、家庭不安。ないもの――祈り、愛、感謝、讃美、協同、奉仕、家庭祈祷。そして彼は当時の教会を批判して、「イエスを殺して、その衣だけを分ける現代の教会」といい、また「イエスの血を捨てて、その形式のみを取る現代教会」だといった。要するに、現代教会に死亡診断を下したのである。したがって、彼は教会の復活の必然性を力説して、そのような意味で、リヴァイバルである復興会が必要だと主張した。
第二の時代は修道の時代という。教会に対する関心から、自己自身に対する関心にもどったのである。ここでは内的な霊、肉の闘争というところに関心の焦点があった。肉を自己愛および世間愛といい、霊を同胞愛および主の愛といった。そして、彼は肉を殺して、霊を生かすことに、たえざる努力を傾けていた。ついには、肉慾こそ、いわゆる悪魔であり、悔い改めとはこのような肉的な自己を否定して放棄することと理解したのである。
彼の修道生活は、他の面でも窺うことが出来る。それは、彼が晩年まで繰り返して、自分の日記の冒頭に書いていた彼の座右銘である。「苦は私の先生、貧は私の愛妻、卑は私の宮殿」とあった。彼は貧しさの中で生まれ、貧しさの中で生き、貧しさの中で死んだ人であった。二十六歳で肺病になった彼は、結局肺病でやせ衰えていく苦痛の中で生きなければならなかった。人と違って鋭利な感情と芸術的才能があった彼には、一種の虚栄心があり、大衆復興会で得た人気には、一種の英雄心がついてまわった。そのため、彼は苦難の中で学び、貧しさをかこつことなく、常に謙遜と卑下を身につけようと努力する生活をしたのである。
第三の段階を信仰時代といった。彼は信仰の代表的な人物はパウロだといい、「信仰の真意はイエスを承認信受」することと、「霊の国を承認信受」することだといった。彼には、信仰は副業ではあり得ない本業であった。そして、彼が復興会と手紙を通して、人々に勧めた言葉の中で最も強調したのは、「イエスに狂え」ということだった。人はなんと批難しようが、死んでも生きても、「私は、ひたすら主のために狂おうとする心一つしかない、末席の僕(しもべ)だ」と自分を描いた。これほど「狂え」という言葉を多く使った牧会者も珍らしいであろう。このような意味でも、彼の熱狂主義には狂という字をつけてよいのかもしれない。
しかし、彼の熱狂主義の本質は、彼がいう第四の段階、すなわち愛の時代だと呼んだところにあったといえる。彼は愛の使徒ヨハネを自分の理想としていた。ヨハネによる福音書とヨハネの第一の手紙は彼が最も親しんだ書であった。そこで愛を求め、そこで霊と一つになる神秘を発見したのである。神学生時代にたいへんな無理をして買ったエンサイクロペディア一セットとひからびた神学を遠ざけてしまい、トルストイ、トマス・ア・ケンピス、タゴール、サンダー・シングなどと親しんだ性格がここにも窺えるようだ。ひからびた理論ではなく温かい愛を探し、秩序ある世の生活を喜ぶのではなく、恍惚の祈りの秘密を喜んだ。彼はまた抽象的な全体ではなく、具体的な一つに全体をみようとした。このようなすべての心の運動を、彼は愛という言葉で要約した。そして、彼が最後に突入したところは、実にこの愛の熱狂主義であった。
本来多情多感な人物ではあったが、彼をついに熱狂主義に導いたのは、愛であったといわざるを得ないであろう。貧しい宋昌根がアメリカに留学する時、李龍道は、自分の服と家産のすべてを売って、彼に与えたという。こじきの子をみてたまらず、自分のいる旅館につれて来ては一緒に寝、一緒に食べ、涙で過ごすほかなかった彼であった。なによりも、彼が最後まで実践しようとしたのが無限抱擁の愛であった。
当時教界では、既成教会から異端といわれ、排斥されている何人かの人たちがいた。しかし、彼は日記で次のようにいう。「人に一つの善と九十九の悪があるか。それなら、私は一個の善のために、その人を愛し尊敬しよう」。ついに彼は、平壌にいる信仰の同志金麟瑞(キムリンソ)に次のような手紙を送った。
「私は金聖実(キムソンシル)派[後出の韓俊明(ハンジュンミョン)とともに、一九三〇年代の初め頃、神秘主義を唱えて、教会から異端視された人々]でもないと同時に麟瑞派でもなく、泰鎔派[崔泰鎔(チェテヨン)、福音教会の創設者、長老教会からは異端とされた。]でもない。同じように南柱派[白南柱(ペクナムチュウ)によって構成された派]や俊明派でもない。
泰鎔――世の人から捨てられる時に、私の心には彼を思って切なるものがあり、聖実が捨てられる時に、私の心はまた同様であり――私が彼らの主義に賛同したからではない。――その意味がよくわからなくても――
南柱、俊明が追い出されて、蔑視されると、私にはまた、彼らに対する切なる思いがあつく上ってくるのだ――……
しかし、もし後に不幸にも悪神につかれたといわれて追い出されたり、死ぬべき奴という悪態をつかれて、逃げるところがなくなったら、その時には私にきなさい――私は兄と共に辱しめをうけながら、兄を食べさせ、着せようと思う。」
李龍道がいう熱狂主義の本質はここにあった。彼が南北では統営[慶尚南道の南端]から間島に至るまで、東西では通川から仁川に至るまで、長老派、監理教、ホーリネスの区別なく、全国にある百余の教会を尋ね、復興会を開いたというのも、一つの熱情主義かもしれない。彼が一度、講壇にあがって立つと、讃美歌を歌い、説教し、祈ること四、五時間になるというのも、一種の熱狂主義といえるかもしれない。祈りの恍惚の中で、時間と場所を忘れてしまうというのも、また一つの熱狂主義であろう。しかし、彼をして、真の熱狂主義に至らせたのは、無差別の愛と無限抱擁を実践しようとしたところにあった。熱狂主義に長所短所があり、李龍道に長所短所があったとするなら、まさにここにあったのである。
ここで、彼の熱狂主義を後づけてくれる彼の個人的な要因をいくつかに分けてみてみるのも意味があると思う。
第一は、彼の熱情的な性格であった。彼は三・一運動以後三度も投獄されたが、その時中学生であった。それでも再三入学して、九年かかって中学を卒業したほどねばり強い性格をもっていた。
第二に、彼の終末意識が、彼をして全精力を注がせる背景になった。彼は肺病三期という危険な段階で、つねに死をみつめなければならなかった。この世で長生きする可能性がない時、賢明な人間は、価値あるただ一つのもののために自分の存在を賭けるであろう。
第三に、彼には全身を捧げることのできる信仰体験があった。神学生時代に江東[平安南道北東地方をいう]で開かれた復興会の経験と、通川で牧会した時の山の中での祈祷の経験が、彼をして神秘的な力を体験させたのである。その後彼は祈りに生き、祈りに狂う人になった。
このようなものを後盾として、信仰の奥義を愛に求める彼は、熱狂主義に流れていったのである。
3、彼の熱狂主義がもたらしたもの
以上みてきたように、彼の信仰と熱狂主義に、病的なものや異端性をみつけるのはむつかしい。今日の熱狂的な復興師達によくみる、入神や異言のような奇現象もなかった。入神というのはキリストと同居することであり、悔い改めることだといった。
しかし、彼の熱狂主義は思わぬ副作用をもたらした。彼の熱情的な信仰運動が大衆の飢え渇いた心霊に生命の火ばなを味わせたことだけは事実である。だから会衆は一種の躍動する力を感じた。しかし、その大衆は内的な力を帯びるほどの準備のない人々であった。大部分が知識のない大衆であったり、婦女子であった。そして、彼らは復興会に参加して、そこで極めて情的な力を直感するや、直ちに既成教会と牧会者たちに不満を感じるようになった。冷々して無力だというのだ。それで自ら傲慢になり、既成教会に向かっては批難の声をあげるようになった。
それだけではない。李龍道の復興会が通り過ぎた後には、この部類の人々が一種の不満と心的な虚脱感を感じるようになった。したがって自分たちだけで集まり、祈祷団をつくるといった具合いで、特別なグループを形成するようになった。これがあちこちで生まれた李龍道派というものだった。結局彼の復興会が過ぎ去ったのちの教会には、一種の分裂症が起こりがちだった。
要するに、彼は、復興会を通して会衆に生気を与えることができた。しかし彼が会衆に対する教育的責任を果たすことが出来なかったために、彼の周辺に意図しない狂信者をつくってしまったのである。したがって混乱が起きた既成教会では、李龍道に向かって批難の声を投げかけ始めたのである。
一九三一年、阿峴(アヒヨン)聖潔[ホーリネス]教会では集会中に彼を追放し、同じ年に長老会黄海(フアンヘ)老会では、李龍道牧師反対案を決議した。その理由は、①教会を誹謗し、②女信徒と交わりがあり、③灯を消して祈り、④教職者を攻撃し、⑤無教会主義者である、などであった。
これに対して彼は、金麟瑞にあてた手紙の中で、これらはすべて根拠なき誤解であることを指摘している。しかし、彼に対する教会の批難は日に日に大きくなっていった。一九三二年、彼が死ぬ一年を前にして、受けた批難は最高潮に達した。平壌老会は二度にわたって、反対決議をした。要点は、騒がしい祈祷団体をつくったということ、教会秩序を破壊したということ、そして偽りの予言をしたということであった。特にこの偽りの予言をするという問題に対しては、李龍道系列にあって名の通った一青年の、いわゆる入神予言事件というのが平壌であったからである。ついに「基督申報」では、李龍道一派を論評して、「バアル神と偽予言者を引いてくるイゼベルの群」だといった。そして、その翌年、監理教年会では、彼を休職処分にしてしまったのである。
このようにして彼は既成教会から追い出され、彼に従う教会員も同じように追い出されて、行く所のない群になった。そのため本人は意図しないばかりか、実際に恐れ反対したにもかかわらず、追い出された群が一つの新しい教団をつくるという悲劇をつくり出してしまった。ここに、彼が教会から異端として追いつめられた理由がある。
一九三二年十二月末の彼の日記に、彼はその心境を次のように書いている。
「静かに名もなく、過ぎゆく孤独な野花! 今や噂を残し、路傍で踏まれる、名のある、しかしやはり孤独な百合の花だ。」
4、彼の周辺と李龍道の埋葬
当時の教会指導者には、五種の異なる類型があった。第一は、既成教会の広範な一般牧師たち、第二は、李龍道のような復興師、第三は外遊した理性派(宋昌根など)、第四は無教会主義者(金教臣(キムギョシン)など)、第五は隠遁、神秘主義者であったが、その代表的なものが、元山に根拠をおく白南柱一派であった。
李龍道はこのすべての類型の人々と交友関係をもっていた。そのため、広い意味で、彼の周辺につらなっている人々というのは、極めて広範囲なものだった。しかし、特に、彼の周辺にいて物議をよんだグループは、白南柱一派の神秘主義追求者たちであった。事実上李龍道の追随者といわれている「イエス教会」の形成には、白南柱の組織力が絶対的な役割をはたしたのである。
李龍道の死亡直前に、「イエス教会」が形成された。そして彼の死亡後、本部を平壌において、これを宣道院といった。その代表者は、李浩淋(イホビン)牧師であった。そしてこれに所属した集会所は四十個を数え、一つの韓国的な土着教会を形成したのである。
彼らは、既成教会から追い出されて、異端視されはしたが、彼らなりに安定することによって、それ以上問題になることはなかった。かえって、これは、韓国の土着教会という点から、韓国教会史上、重大な意味をもった集団となった。
ところで、このイエス教会と関連した集団の中に、喜ばしからざる事件がひきつづいて起こった。イエス教会の神学校といえるのが、白南柱が設立した元山神学院であった。ここで白南柱は、神秘主義的入神と予言にかこつけた性的な紊乱事件を起こして、世の中を騒がした。一方、平壌のイエス教と関連をもっていた鉄山(チョルサン)の金聖道(キムソンド)を中心として、奇妙な事件が起こった。それは彼女を「新しい主」と呼んで、信仰の対象とした、いわゆる「聖主教団」が形成されたことである。彼らは平安南道粛川七里で聖主教総会を開き、そこに集まった男女四十余名の会員に聖職者の按手を与えた。そして、いわゆる混淫事件が起こったのである。これらのすべてに主動的な役割をはたしたのが、白南柱であったということで、驚かざるを得ない。
このような不幸な事件が起こるたび毎に、人々は、すぐ李龍道派の事件だといった。全教界を揺がした彼であったからか、すべての問題は彼のせいにされた。事実、李龍道は白南柱を先生と呼び、白南柱は李龍道の真の同志だと自称していた。そして李龍道が死んで、すでに相当の時間がたっていたのに、改めて李龍道牧師埋葬の気運が起こってきた。
この気運に加勢するものがもう一つあった。それは金麟瑞が経営していた雑誌「信仰生活」が、李龍道を攻撃したことである。実は彼自身李龍道の同志であり、「信仰生活」の創刊のために、最初に協力したのも李龍道であった。しかし、そこには奇妙な感情的なものが介在して、結局李龍道を埋葬する勢力に加担する結果を招いた。
区別のない愛を叫び実践しようとした李龍道の熱狂主義がもたらした結果は、結局このようなものだった。彼には信仰上の責任はなかったといえるかもしれない。しかし、彼には教育的な責任を果たすことの出来なかった弱点があり、彼の熱狂主義を支える神学がなかったところに、もう一つの弱点があった。これが結局一つの無分別と混乱をもたらした重要な欠点になったのかもしれない。