『韓国キリスト教神学思想史』 柳東植・著 澤正彦/金纓 共訳 教文館 1986年
 
 柳東植は1922年生まれ、延世大学教授



二、三〇年代の教会状況と李龍道運動

 一九二〇年代に驚くほどに増加した教会人数は、一九三〇年に、三七万名になって、その頂点に達した。一九三〇年代の日帝政策の下では、教会は数的に成長することが出来なかった。しかし、すでに五十年育ってきた教会であたから、内的に成熟していた。そのため、教会の活動自体は過去のどの時よりもかえって活発な様相を表わしていた。ここにそのいくつかの特徴的な事件だけをあげてみよう。
 第一は、朝鮮南北監理教年会が合同で、一九三〇年に、一つの朝鮮監理教会を成立させた事実である。北監理教は、アペンゼラーの来韓とともに始まり、南監理教は、それよりも遅く、尹致旲(ユンチホ)の斡旋によって一八九五年に入ってきたものであった。一九二六年から合同を論議してきた結果、ついに一九三〇年を期して、実現するようになった。これは単純に、その合同だけに、意味があるのではない。この時を期して、韓国人の独自な教理的宣言を決議することによって、始めて信仰的に独立した教団が形成されたというところに、その教会史的意味があるのである。教理的宣言は次のようである。

  基督教朝鮮監理会教理的宣言

 一、われわれは、万物の創造者であり、摂理者であり、すべての人類の父であり、すべての善と美と愛と真の根源である唯一なる神を信じ、
 二、われわれは、神が肉体になって現われ、われわれの師となり模範になり、代贖者、救い主になられるイエス・キリストを信じ、
 三、われわれは、神がわれわれと共におられ、われわれの指導と慰めと力になって下さる聖霊を信じ、
 四、われわれは、愛と祈りの生活を信じ、罪の赦しと、すべての要求に十分なる恵みを信じ、
 五、われわれは、旧約と新約にある神の言葉が、信仰と実行に充分な標準になることを信じ、
 六、われわれは、生ける主のもとで、一つにされたすべての人々が礼拝と奉仕を目的として、団結した教会を信じ、
 七、われわれは、神の御旨が実現した人類社会が天国であることを信じ、父なる神の前にすべての人が兄弟になることを信じ、
 八、われわれは、義の最終的勝利と永遠の生命を信ず。
 アーメン

 第二に指摘すべき三〇年代の韓国教会の特徴は、自分たちの信仰路線に対して、神学的論争を展開した事実である。いまや自分の神学的思想の基礎を構築するほど、教会が成長したのである。いってみれば、韓国神学の定礎期を迎えたわけである。このことに対しては、次の項目で、論議されよう。
 第三に指摘される三〇年代の韓国教会運動の一つの特徴は、一九〇七年の第一の復興[リヴァイバル]運動につづいて、第二の教会復興運動の波が、激しく波打ってきた事実である。第一の復興会運動の特徴が、終末論的な信仰に基礎をおいた倫理的悔い改め運動であったとするならば、第二の復興会運動は、宗教的愛に基礎をおく神秘主義的信仰運動であったといえる。第一の復興運動は、亡国の渦中に黙示文学的希望を吹き入れる信仰運動であった。これにくらべて、第二の復興運動は、植民地の歴史的現実に絶望した民衆に、愛と慰めを与える信仰運動であった。前者が儒教的伝統に立脚した父性的復興運動であったとするならば、後者は巫教的伝道に立脚した母性的復興運動であったといえよう。一九〇七年の復興運動の中心人物が、長老教の吉善宙(キルソンジュ)牧師であったとするなら、三〇年代復興運動の中心人物は監理教の李龍道(イヨンド)牧師であった。この復興運動は多くの物議をかもした。しかし一方では、新しい土着的教団を生むほど強力な心霊運動でもあった。これは三〇年代韓国教会の一つの特徴をつくったものであったから、ここで李龍道とその周辺について細かにみてみよう。

 1、韓国復興会形成の背景と李龍道の位置

 われわれ韓国人に本来情熱的な性格がないわけではないが、韓国の風土とその文化的環境がこれを抑制してきた。季節風地帯に位置する韓国は、季節に従って急変する自然の威力に、ただ堪え順応し、服従してきた。シャーマニズムは諦念と運命論を育てたし、一千余年を支配してきた仏教は、韓国人の情念を否定するように教え、李朝五百年の儒教は権威に対する服従の論理を訓練してきた。それだけではない、隣接した強大国は常に、韓国人に屈服を要求してきた。そして韓国と歴史を共にしてきた貧困は、韓国人の熱情を冷すもう一つの要因であった。要するに、自然と歴史的環境は、韓国人をして、服従と受容と忍従的な性格をもたせるようにした。したがって韓国人の情熱は、つねに抑圧状態にあった。
 このような民族性と関連して考える時、キリスト教の伝来というのは、韓国に最も大きな事件であったのである。なぜなら、キリスト教は人間性の自覚と解放をもたらし、創意的であり、積極的な性格を育ててくれる宗教であるからである。
 キリスト教が伝来した一九世紀末の国際情勢は、また韓国に民族的自覚を促した時代であった。韓国の領土で起こった日清戦争と日露戦争に勝った日本の民族的弾圧は、ついに韓日合併という名の亡国をもたらした。キリスト教による個人の自覚と亡国を前後する民族の自覚は、韓国人に新しい性格を負わせた。それが韓国のヒューマニズムであり、反抗意識であった。一八九四年の東学革命運動と一九一九年の三・一独立運動はその歴史的な例証である。いまや、単純に忍従と受容によって、自己の情熱を抑制してばかりはおれなくなった。長い歴史を経て押えられていた韓国人の情熱が、甦ってきたのである。
 人間性の自覚と熱情を急速度に成長させたもう一つの要因は、韓国人にせまってきた民族的絶望感であった。亡国を前後した日本の弾圧は、韓国人を大きな絶望感の中に陥れた。以前だったら、もう一つの忍従として、堪えていったかもしれない。しかし、個人と民族の自覚が起こった今、そのような絶望感は、かえって韓国人の自覚を更に鋭利にさせたのである。ここに韓国復興会発生の素地がつくられたわけである。
 韓国の初期キリスト教徒は、本来熱情的な復興会というものを知らなかった。仏教や儒教の場合と同じく、健全な宗教に熱情の如きものが介入するということをほとんど想像することが出来なかった。そこへ、宣教師によって、少しづつ復興会というものが紹介されてきた。
 最初の発端は一九〇三年元山(ウルサン)で集まったメソジストの宣教師たちの復興査経会(プフンサギョンヘ)[聖書研究会]であった。そこでハーディ牧師は聖霊充満を経験した。その後、彼は、一九〇六年、平壌(ピョンヤン)にいたプレスビテリアンとメソジストの宣教師たちの招きで、復興査経会を導き、韓国教会の一大転換点といえる一九〇七年の復興運動期をつくったのである。
 一九〇七年は、ピョンヤンを中心とした全国復興会の年であった。亡国前夜の民族的な鬱憤と宗教的感激が共に作用した初期復興会の熱情は、大変なものであった。平壌中央教会の集会では一五〇〇名も集まったという。そこでは聖霊の導きと愛の合一が強調され、祈りと讃美の熱があつくもえ、すべてのものが痛悔の涙を経験した。集会の光景は、かなり熱狂的なもので、宣教師の中には、失心する人がいるのではないかと心配する者もいたという。この復興会の熱は、そのままつづいて、一九一〇年には監理教を中心に、「百万救霊運動」が全国的に展開された。当時、全国の教会員数は二十万程度であったが、国家の衰亡と民衆の絶望感は、熱情的な復興会にいっそうの拍車をかけ、韓国の復興熱は一九三〇年まで続いた。そして、一九〇七年以後、復興会の指導権は、宣教師から、韓国の牧師たちの手に移ったのである。その中でも各時代を代表する顕著な牧師が三人いる。すなわち、吉善宙、金益斗(キムイクトウ)、李龍道がそれである。
 吉善宙牧師は、一九一〇年韓日合併による亡国の苦い杯を飲んだ民衆に、黙示録を説き、元気と希望を与え、金益斗牧師は一九一九年の三・一独立運動以後、挫折した信徒たちに向かって、痛悔と神癒によって、慰めの道を開いたのである。一九三〇年を前後して、日帝の弾圧の下に、疲れはてた民衆には、一つの火が望まれたのである。この時に登場したのが熱狂主義者李龍道であった。

 2、李龍道の信仰と熱狂主義

 李龍道は、一九三三年に三十三歳で世を去った若い牧師であった。二十八歳で教職となったところをみると、彼の復興活動期間は、わずか三、四年に過ぎない。しかし、彼の名が全教界に広まり、今日でも伝えられているということだけでも、その復興会がいかに熱情的な集会であったかを端的に立証されることになるのかもしれない。
 彼は自分の信仰の段階を四つに分けて、自分の日記に書いたことがあった。おそらく、これが彼の信仰生活を探る尺度になるだろう。
 第一の段階を教会時代という。教会組織と制度に縛られて、苦しんだ時代ということができよう。彼が神学校の卒業をひかえていた一九二七年と、通川(トンチョン)[江原道の海岸町]で始めて(←誤字)の牧会をした一九二八年がそのような時代ではなかったかと思う。彼の眼には教会という存在が大きくみえ、したがって彼の神経は教会批判に向けられた。当時の彼の日記帳には、教会批判の言葉が多く記録されている。彼は、教会にあるものと、ないものを対照させて、次のように書いたことがある。あるもの――うわさ、ねたみ、紛争、不平、心配、分裂、利己、家庭不安。ないもの――祈り、愛、感謝、讃美、協同、奉仕、家庭祈祷。そして彼は当時の教会を批判して、「イエスを殺して、その衣だけを分ける現代の教会」といい、また「イエスの血を捨てて、その形式のみを取る現代教会」だといった。要するに、現代教会に死亡診断を下したのである。したがって、彼は教会の復活の必然性を力説して、そのような意味で、リヴァイバルである復興会が必要だと主張した。
 第二の時代は修道の時代という。教会に対する関心から、自己自身に対する関心にもどったのである。ここでは内的な霊、肉の闘争というところに関心の焦点があった。肉を自己愛および世間愛といい、霊を同胞愛および主の愛といった。そして、彼は肉を殺して、霊を生かすことに、たえざる努力を傾けていた。ついには、肉慾こそ、いわゆる悪魔であり、悔い改めとはこのような肉的な自己を否定して放棄することと理解したのである。
 彼の修道生活は、他の面でも窺うことが出来る。それは、彼が晩年まで繰り返して、自分の日記の冒頭に書いていた彼の座右銘である。「苦は私の先生、貧は私の愛妻、卑は私の宮殿」とあった。彼は貧しさの中で生まれ、貧しさの中で生き、貧しさの中で死んだ人であった。二十六歳で肺病になった彼は、結局肺病でやせ衰えていく苦痛の中で生きなければならなかった。人と違って鋭利な感情と芸術的才能があった彼には、一種の虚栄心があり、大衆復興会で得た人気には、一種の英雄心がついてまわった。そのため、彼は苦難の中で学び、貧しさをかこつことなく、常に謙遜と卑下を身につけようと努力する生活をしたのである。
 第三の段階を信仰時代といった。彼は信仰の代表的な人物はパウロだといい、「信仰の真意はイエスを承認信受」することと、「霊の国を承認信受」することだといった。彼には、信仰は副業ではあり得ない本業であった。そして、彼が復興会と手紙を通して、人々に勧めた言葉の中で最も強調したのは、「イエスに狂え」ということだった。人はなんと批難しようが、死んでも生きても、「私は、ひたすら主のために狂おうとする心一つしかない、末席の僕(しもべ)だ」と自分を描いた。これほど「狂え」という言葉を多く使った牧会者も珍らしいであろう。このような意味でも、彼の熱狂主義には狂という字をつけてよいのかもしれない。
 しかし、彼の熱狂主義の本質は、彼がいう第四の段階、すなわち愛の時代だと呼んだところにあったといえる。彼は愛の使徒ヨハネを自分の理想としていた。ヨハネによる福音書とヨハネの第一の手紙は彼が最も親しんだ書であった。そこで愛を求め、そこで霊と一つになる神秘を発見したのである。神学生時代にたいへんな無理をして買ったエンサイクロペディア一セットとひからびた神学を遠ざけてしまい、トルストイ、トマス・ア・ケンピス、タゴール、サンダー・シングなどと親しんだ性格がここにも窺えるようだ。ひからびた理論ではなく温かい愛を探し、秩序ある世の生活を喜ぶのではなく、恍惚の祈りの秘密を喜んだ。彼はまた抽象的な全体ではなく、具体的な一つに全体をみようとした。このようなすべての心の運動を、彼は愛という言葉で要約した。そして、彼が最後に突入したところは、実にこの愛の熱狂主義であった。
 本来多情多感な人物ではあったが、彼をついに熱狂主義に導いたのは、愛であったといわざるを得ないであろう。貧しい宋昌根がアメリカに留学する時、李龍道は、自分の服と家産のすべてを売って、彼に与えたという。こじきの子をみてたまらず、自分のいる旅館につれて来ては一緒に寝、一緒に食べ、涙で過ごすほかなかった彼であった。なによりも、彼が最後まで実践しようとしたのが無限抱擁の愛であった。
 当時教界では、既成教会から異端といわれ、排斥されている何人かの人たちがいた。しかし、彼は日記で次のようにいう。「人に一つの善と九十九の悪があるか。それなら、私は一個の善のために、その人を愛し尊敬しよう」。ついに彼は、平壌にいる信仰の同志金麟瑞(キムリンソ)に次のような手紙を送った。

 「私は金聖実(キムソンシル)派[後出の韓俊明(ハンジュンミョン)とともに、一九三〇年代の初め頃、神秘主義を唱えて、教会から異端視された人々]でもないと同時に麟瑞派でもなく、泰鎔派[崔泰鎔(チェテヨン)、福音教会の創設者、長老教会からは異端とされた。]でもない。同じように南柱派[白南柱(ペクナムチュウ)によって構成された派]や俊明派でもない。
 泰鎔――世の人から捨てられる時に、私の心には彼を思って切なるものがあり、聖実が捨てられる時に、私の心はまた同様であり――私が彼らの主義に賛同したからではない。――その意味がよくわからなくても――
 南柱、俊明が追い出されて、蔑視されると、私にはまた、彼らに対する切なる思いがあつく上ってくるのだ――……
 しかし、もし後に不幸にも悪神につかれたといわれて追い出されたり、死ぬべき奴という悪態をつかれて、逃げるところがなくなったら、その時には私にきなさい――私は兄と共に辱しめをうけながら、兄を食べさせ、着せようと思う。」

 李龍道がいう熱狂主義の本質はここにあった。彼が南北では統営[慶尚南道の南端]から間島に至るまで、東西では通川から仁川に至るまで、長老派、監理教、ホーリネスの区別なく、全国にある百余の教会を尋ね、復興会を開いたというのも、一つの熱情主義かもしれない。彼が一度、講壇にあがって立つと、讃美歌を歌い、説教し、祈ること四、五時間になるというのも、一種の熱狂主義といえるかもしれない。祈りの恍惚の中で、時間と場所を忘れてしまうというのも、また一つの熱狂主義であろう。しかし、彼をして、真の熱狂主義に至らせたのは、無差別の愛と無限抱擁を実践しようとしたところにあった。熱狂主義に長所短所があり、李龍道に長所短所があったとするなら、まさにここにあったのである。
 ここで、彼の熱狂主義を後づけてくれる彼の個人的な要因をいくつかに分けてみてみるのも意味があると思う。
 第一は、彼の熱情的な性格であった。彼は三・一運動以後三度も投獄されたが、その時中学生であった。それでも再三入学して、九年かかって中学を卒業したほどねばり強い性格をもっていた。
 第二に、彼の終末意識が、彼をして全精力を注がせる背景になった。彼は肺病三期という危険な段階で、つねに死をみつめなければならなかった。この世で長生きする可能性がない時、賢明な人間は、価値あるただ一つのもののために自分の存在を賭けるであろう。
 第三に、彼には全身を捧げることのできる信仰体験があった。神学生時代に江東[平安南道北東地方をいう]で開かれた復興会の経験と、通川で牧会した時の山の中での祈祷の経験が、彼をして神秘的な力を体験させたのである。その後彼は祈りに生き、祈りに狂う人になった。
 このようなものを後盾として、信仰の奥義を愛に求める彼は、熱狂主義に流れていったのである。

 3、彼の熱狂主義がもたらしたもの

 以上みてきたように、彼の信仰と熱狂主義に、病的なものや異端性をみつけるのはむつかしい。今日の熱狂的な復興師達によくみる、入神や異言のような奇現象もなかった。入神というのはキリストと同居することであり、悔い改めることだといった。
 しかし、彼の熱狂主義は思わぬ副作用をもたらした。彼の熱情的な信仰運動が大衆の飢え渇いた心霊に生命の火ばなを味わせたことだけは事実である。だから会衆は一種の躍動する力を感じた。しかし、その大衆は内的な力を帯びるほどの準備のない人々であった。大部分が知識のない大衆であったり、婦女子であった。そして、彼らは復興会に参加して、そこで極めて情的な力を直感するや、直ちに既成教会と牧会者たちに不満を感じるようになった。冷々して無力だというのだ。それで自ら傲慢になり、既成教会に向かっては批難の声をあげるようになった。
 それだけではない。李龍道の復興会が通り過ぎた後には、この部類の人々が一種の不満と心的な虚脱感を感じるようになった。したがって自分たちだけで集まり、祈祷団をつくるといった具合いで、特別なグループを形成するようになった。これがあちこちで生まれた李龍道派というものだった。結局彼の復興会が過ぎ去ったのちの教会には、一種の分裂症が起こりがちだった。
 要するに、彼は、復興会を通して会衆に生気を与えることができた。しかし彼が会衆に対する教育的責任を果たすことが出来なかったために、彼の周辺に意図しない狂信者をつくってしまったのである。したがって混乱が起きた既成教会では、李龍道に向かって批難の声を投げかけ始めたのである。
 一九三一年、阿峴(アヒヨン)聖潔[ホーリネス]教会では集会中に彼を追放し、同じ年に長老会黄海(フアンヘ)老会では、李龍道牧師反対案を決議した。その理由は、①教会を誹謗し、②女信徒と交わりがあり、③灯を消して祈り、④教職者を攻撃し、⑤無教会主義者である、などであった。
 これに対して彼は、金麟瑞にあてた手紙の中で、これらはすべて根拠なき誤解であることを指摘している。しかし、彼に対する教会の批難は日に日に大きくなっていった。一九三二年、彼が死ぬ一年を前にして、受けた批難は最高潮に達した。平壌老会は二度にわたって、反対決議をした。要点は、騒がしい祈祷団体をつくったということ、教会秩序を破壊したということ、そして偽りの予言をしたということであった。特にこの偽りの予言をするという問題に対しては、李龍道系列にあって名の通った一青年の、いわゆる入神予言事件というのが平壌であったからである。ついに「基督申報」では、李龍道一派を論評して、「バアル神と偽予言者を引いてくるイゼベルの群」だといった。そして、その翌年、監理教年会では、彼を休職処分にしてしまったのである。
 このようにして彼は既成教会から追い出され、彼に従う教会員も同じように追い出されて、行く所のない群になった。そのため本人は意図しないばかりか、実際に恐れ反対したにもかかわらず、追い出された群が一つの新しい教団をつくるという悲劇をつくり出してしまった。ここに、彼が教会から異端として追いつめられた理由がある。
 一九三二年十二月末の彼の日記に、彼はその心境を次のように書いている。

 「静かに名もなく、過ぎゆく孤独な野花! 今や噂を残し、路傍で踏まれる、名のある、しかしやはり孤独な百合の花だ。」

 4、彼の周辺と李龍道の埋葬

 当時の教会指導者には、五種の異なる類型があった。第一は、既成教会の広範な一般牧師たち、第二は、李龍道のような復興師、第三は外遊した理性派(宋昌根など)、第四は無教会主義者(金教臣(キムギョシン)など)、第五は隠遁、神秘主義者であったが、その代表的なものが、元山に根拠をおく白南柱一派であった。
 李龍道はこのすべての類型の人々と交友関係をもっていた。そのため、広い意味で、彼の周辺につらなっている人々というのは、極めて広範囲なものだった。しかし、特に、彼の周辺にいて物議をよんだグループは、白南柱一派の神秘主義追求者たちであった。事実上李龍道の追随者といわれている「イエス教会」の形成には、白南柱の組織力が絶対的な役割をはたしたのである。
 李龍道の死亡直前に、「イエス教会」が形成された。そして彼の死亡後、本部を平壌において、これを宣道院といった。その代表者は、李浩淋(イホビン)牧師であった。そしてこれに所属した集会所は四十個を数え、一つの韓国的な土着教会を形成したのである。
 彼らは、既成教会から追い出されて、異端視されはしたが、彼らなりに安定することによって、それ以上問題になることはなかった。かえって、これは、韓国の土着教会という点から、韓国教会史上、重大な意味をもった集団となった。
 ところで、このイエス教会と関連した集団の中に、喜ばしからざる事件がひきつづいて起こった。イエス教会の神学校といえるのが、白南柱が設立した元山神学院であった。ここで白南柱は、神秘主義的入神と予言にかこつけた性的な紊乱事件を起こして、世の中を騒がした。一方、平壌のイエス教と関連をもっていた鉄山(チョルサン)の金聖道(キムソンド)を中心として、奇妙な事件が起こった。それは彼女を「新しい主」と呼んで、信仰の対象とした、いわゆる「聖主教団」が形成されたことである。彼らは平安南道粛川七里で聖主教総会を開き、そこに集まった男女四十余名の会員に聖職者の按手を与えた。そして、いわゆる混淫事件が起こったのである。これらのすべてに主動的な役割をはたしたのが、白南柱であったということで、驚かざるを得ない。
 このような不幸な事件が起こるたび毎に、人々は、すぐ李龍道派の事件だといった。全教界を揺がした彼であったからか、すべての問題は彼のせいにされた。事実、李龍道は白南柱を先生と呼び、白南柱は李龍道の真の同志だと自称していた。そして李龍道が死んで、すでに相当の時間がたっていたのに、改めて李龍道牧師埋葬の気運が起こってきた。
 この気運に加勢するものがもう一つあった。それは金麟瑞が経営していた雑誌「信仰生活」が、李龍道を攻撃したことである。実は彼自身李龍道の同志であり、「信仰生活」の創刊のために、最初に協力したのも李龍道であった。しかし、そこには奇妙な感情的なものが介在して、結局李龍道を埋葬する勢力に加担する結果を招いた。
 区別のない愛を叫び実践しようとした李龍道の熱狂主義がもたらした結果は、結局このようなものだった。彼には信仰上の責任はなかったといえるかもしれない。しかし、彼には教育的な責任を果たすことの出来なかった弱点があり、彼の熱狂主義を支える神学がなかったところに、もう一つの弱点があった。これが結局一つの無分別と混乱をもたらした重要な欠点になったのかもしれない。
 また夜になれば、就寝時に一日の日課の最後として一斉にコップ一杯の水を配った。これもまた渇きをいやすには、不足であったが、先生は渇きを抑制し、タオルにくまなくそのコップ一杯の水をかけて濡しておいて、朝早く皆が寝ている間に四時に起床し、全身を拭かれた。
 これを出獄時までされたので、その悪条件のもとにおいても、先生は立派に健康を保つことができたのであった。
 監房には出入口があり、内側に手洗所があった。その時先生はいくらでも一等地である門側を占めることができたにもかかわらず、自ら進んでその臭い手洗所の横を選ばれた。摂理的立場からみると天の代身者であるゆえ、身体を他の人たちが勝手に越えて通ることを嫌われたためである。
 そしてそのような不遇の中にあっても、先生は少しも自分の立場を概嘆されず、上には神を思い、下にはあらゆる人々を世話することを忘れなかったのである。
 それは第一に自分についての祈祷はついに最後までされなかった。なぜなら、神は現実の立場を言わなくても、既にみな御存知であり、苦しみを受けておられるのにその上にまた生かして下さいと訴えるということは、幼ない子供が駄々をこねるようなものであり、さらに父母を苦しめることに他ならない行為であると考えられたのである。
 常に、神のみ旨成就のことしか頭にない先生は、平壌において、食口たちを導いていた間、祈りの時はいうまでもなく、説教しながらも、涙を流さない時はなかった。しかし刑務所に入監されてからは、神と人々の前で二度と涙を見せなかった。
 天と地の前に自らの弱い姿を絶対に現わしたくないと思われたためであった。そのかわり、平壌において来られた、自ら導いておられた食口たちのために、獄中生活を始める日から、先生は懇切に祈られた。毎月三回づついちいち彼らの名前をあげながら、み旨の中でその信仰を守り堅く立つことを願われた。いよいよ時間がなかったら、その名前だけでも順番にあげて祈られた。
 ある時には霊界の反応を通して、食口たちが離れたり、或いはみ旨から遠ざかっていることを知るようになったが、そういう場合でも、ある決定した時期が来るまでは、彼らのその名前を記憶し祈ることを中断されなかったのである。
 なぜなら、彼らが神の前に立てた功績が残っている間は、彼らを最後まで擁護し見守らざるを得なかったからである。それは先生の立場が、神に代わって地上に生きているという位置におられたためである。すなわち、神に対しては人類を代表した立場で、犠牲と忠誠を尽くすのであるが、堕落世界に対しては神に代って、摂理を推し進める働きをしておられたからである。
 とにかく神としては、人間が神に対して立てた功績だけは少くとも報いてあげざるを得ないというのである。このようなことからも常に人間が先に神を裏切ったのであって、決して神が人間を捨てられたのではないということを我々は知ることができる。
 それではそこでなされた作業はどのようなものだっただろうか? まず先生の囚人番号が五九六番であったということだが、この「五九六」は「くやしい」の転音のようにも思われて、思いをよせている人たちに意味あるものと思われた。
 作業時間は、午前九時から午後五時までの総八時間で、昼の時間の三十分を引けば七時間半となる。
 ところが問題は時間ではなく、その時間内に行われる作業内容である。時間というのは適当に「過ごしてしまう」時間もあれば、徹底的に「成し遂げる」時間もあるからである。
 すなわち、文鮮明先生と共に過ごした人達が、興南監獄に於て持った作業時間は、朝九時から回り始めて、夕方五時にピタッと止まってしまう高速機械の回転にも似ていたのであり、そのような日々を送られていた。
 先生と他の全ての入所者たちは刑務所から作業所までの四キロの距離を朝晩歩いた。今、その作業の状況をみてみよう。
 作業をする一チームの構成人員は十名である。肥料を掘り出す仕事、叺に入れる仕事、重さを計る仕事、叺を縛る仕事などを十名がそれぞれ分担するのである。
 一日の一人当りの責任は百三十叺づつで合わせて千三百叺を一組で縛り終わらなければならないのである。その時の状況を一般社会のそれと比較して次のように簡単に要約して先生が説明されたことがあった。
 「この世の基準なら、一日に三食、油物を食べて最高にやたとしても一日七百袋だよ。この工場の場合はその倍に近い。食べ物は少ないし、大口なら三口で終ってしまう。そして重労働するものだから、朝食べて工場に向うその道でもう足が何回も曲るのだよ。そういう足を引きずって行って、朝から働き出す。それはもう悲惨きわまりない。」
 このように作業の責任分担は悲惨といえるほどであり、それを果すことは多くの病弱者を含む囚人達には力にあまることであった。
 そしてそれを成し遂げる為には、いわば電光石火の早業が必要なのであり、しかしそうであったとしても、力不足はまぬがれなかった。
 前の日とが掘り起こした肥料を、二人が叺の両はじを分けて持って、後からついて行きながら、中にシャベルで四杯づつ入れる。その後でこれを秤にあげて計ってゆくのであるが、初めのうちは近い所に置いて、秤に持ち上げて置くのであるが、掘っていくうちに最後には四、五メートルも投げて秤に上げなければならなくなる。
 そして重量(四十キロ)が合えば降ろして縛る。言葉で表現すれば何でもないようであるが、担当者はまるで機械のようになって作業しなければ責任遂行にほど遠い結果をもたらす。
 二人がそれぞれシャベル四杯づつを入れるとしても加減の必要なく、適量でなければならないし、そこ過不足が生じれば、更に足したり減したり大変なことになるのである。
 叺を投げるとそれが全部秤の上に落され、秤の上で計るという作業は避ける事のできない必要過程である故に、重要の過不足が生じていては時間の損失となり、責任数量を完全に満たすことができない結果となる。計量が終わればまた約二十メートルほど引っ張って行って、ひもで縛って積む様になっている。
 このようにして肥料の叺を積めば、作業班の仕事は終わり、次の運送は別の人たちがトロッコで運搬する。トロッコは、元来その語源は「トラック」であるが、線路の上を二人の人間が手で押して運搬する小型荷物車輌を日本人がこのように呼んだのである。彼らが荷物自動車のトラックとは異なった意味あいを持たせて呼んだこのことばが、韓国の言語としてそのまま使われることになってしまったのである。
 この場合、その手の動きは神の手のようでなければならないし、一括作業であるから、機械の連携作業の如く正確でなければならないのであった。肥料を叺に入れて秤に投げ上げるためには、掘って行くに従って秤を移しながら、秤の水平をもとっていかなければならない。しかし、そうすると時間がかかるので、簡単に動かすことができない。その距離が約五メートル以上離れ、とうてい投げ上げることができないという時になって始めて動かすようになるため、ほとんど投げることになるのである。順序正しくすれば、毎分一回秤を動かさなければならないし、その度ごとに、水平をとるのにまた七分程の時間を要する。
 そのため、距離が遠くなったとしても、できる限りそのまま続けるのである。大体計算してみると、二十秒に一叺縛らなければならない。そして、叺に入れ始めてから計量し、縄で縛り、移し、積むまでに平均五分かかる。これは大変な力がいるのである。いくら健康な人であっても半年以上続ければ、肺病などの難病にかかるという重労働である。その中でも、最も力のいる仕事を先生は自ら願って請け負われた。
 厳寒の冬に、普通の下着だけで仕事をしても、溺れて助けられた人のように汗でびっしょりぬれる。このチッソ肥料を素手素足で扱い続けると、手足の皮がどんどんはがれて、とうとう肉が赤くむき出しとなり、血が出てくる。
 また、手足に軽い傷を受けることもあるが、もう一つの悪条件は、きれいな水が多くないということである。従って、作業後に手足を洗うといっても、黄色い汚物が混じって流れる非常に非衛生的な不潔な水なのである。しかし、あまりにも暑く、ベトベトするので、そのような水ででも洗わざるをえないのであった。
 そのため、体に傷があったり、皮膚が弱い人がこのような水で洗うと毒が入っておできができ、悪化して重態になる場合がしばしばであった。
 どれひとつとっても、生きて行くにはふさわしい生活条件ではなく、一刻も早く死んでしまえという意味が潜んでいるにちがいなかった。しかし、もちろん文鮮明先生はそのように上着を脱いで仕事をしたりはされなかったし、そのような汚い水で体を洗うこともされなかった。
 その時も、ある天的な修養の基準を立てなければならなかったため、勝手に素肌をあらわすことができなかったのである。そして、早朝に規則正しく行う温布摩擦で皮膚を清潔に保つようにされた。
 人々は仕事を終え、食事を終えれば、へとへとに疲れてしまって、半死体のようになってしまうのである。
 そのような中でも、先生は勝手に横になり、寝坊することはなかった。いつも人よりずと遅く就寝され、人よりはるかに早く起きられたので前述の弟子となった金氏も、当時約二年以上共に同じ部屋にいながら、文先生の休まれるところをついぞ見なかったと、今日も思い出して語られる。さらに、日曜日には皆死んだようにぐったりとなるのであるが、先生は、聖日であるから、ほとんどまる一日を神様と、神様の仕事と、神側の食口たちを思うのに捧げられた。
 文先生御自身も、直接次のように確言されておられる。
 「十二時以前には絶対に寝ない。昼寝を絶対しない。日曜でも、絶対寝ない。百人、千人入ってきても全部寝るのが各自の日課になっている。しかし、私は絶対に寝なかった。」
 それではここで、これと関連して、直接先生のみ言を通して、先生御自身がその環境にどのように対処していかれたのかを調べてみよう。
 「先生は、朝(仕事を始める時)なんか、最も難しいことを捜すんだけれど、みんなはそうじゃないよ。楽でやさしい仕事を捜す。しかし、考えてみればそうならざるを得ないよ。朝御飯を食べて約十里(四キロ)の道を歩けば、行くまでに力は皆抜けてしまい倒れそうになるほどである。そのような足を引きずってやとたどりついて、それから八時間の労働をしなければならない。それは夢にも思えないことである。
 しかし、それでも仕事をするのである。もし、座り込んでしまったら、皆眠りに陥ってしまうであろう。疲れの十字架を背負って生きているわけである。
 その体でもって働くんだから、たやすい所を捜さざるを得ないよ。そうしたら長くないよ。先生はそこからもしも一歩でも踏みはずせば、死んでしまうという境地で、そうしなかった。
 死ぬことは定められている。それがそんな気分であるかわからないだろう。どの程度かというと、朝起きて、唾を二つの指で引き伸ばせば、チューインガムのように長く伸びてしまう。何故か。それは胃に何も入っていないから、胃腸が活動して何もないので、胃だけが自動的に活動すれば、熱を出す。それで熱によって、唾がそうなってしまうのである。そういう立場で、どういうふうにしたかというと、朝出る時、〝働くために出るんじゃない。ある理想世界を旅行するために出て行く〟」という気持や、あるいは〝今日は何かを新たな体験する〟という気持ちで出発するのである。それで、働く時には、その働くことには、精神を注がない。精神はみんな自分の理想世界にいっている。未来の理想世界に入って働く。だから、手だけ動かす。だからね、その二時間毎に休むんだがね、十五分位休みがあるんだが、鐘を打つんだね。その鐘の音がわからない。それが聞こえない。そういう生活をしないと、立ってゆかれないんだね。」
 一方、その監房では、貴重でないものがないというほどに、どうでもいいようなものがみな重要視された。

(つづく)
 この時期における神の導きの業を、一つ二つ挿入する必要がある。先生自身が予想していた通り、全く面識のない人々が、他からの教示によって本人の意志に関係なく、監獄の中で先生を迎えるようになっていた。そのはじめの話は大体次のようである。
 金氏という青年がいたが、彼は日本の陸軍士官学校の砲兵科を卒業して、日本軍に服務中、大尉として終戦を迎えた人である。
 終戦後、彼は北韓の人民軍に入隊して、ある砲兵司令官の信頼する臣僕として服務していたが、その中でも年一回づつ北韓の機密を南に流していた人であった。
 ところが、その上司である砲兵司令官が軍事最高会議のため、中国に出張中にこの事実がとうとう発見され、当初死刑の宣告を受けて死ぬ日を待っていたのであった。
 その上、自殺を企てて発覚され、鉄の鎖でしばられていた。その青年は何の信仰も持っていなかったが、ある日の夜、不思議なことに夢うつつに、白髪の老人が現われて、金氏の名前を呼びながら、「お前は絶対に死なない」と言われた。またつけ加えて「おまえは南から平壌に上ってくる青年をお迎えする準備をしなければならない。」と言われるのであった。しばらくして砲兵司令官が帰国してみると、自分の愛していた部下が死刑宣告を受けて獄につながれていることを知り、直接自分が身分を保証するという条件でやと死刑を免じてもらい、四年八ヶ月に減刑されたのであった。
 ところが、減刑で喜びのあまり、つい南から来られる先生を迎えなければならないというおじいさんの話を忘れ、そのまま約一ヶ月が過ぎた。
 ところがある日のこと、前と同じように夢うつつの中に再び、そのおじいさんが現われ、「お前は私が話したことを忘れてしまったのか」と叱るのであった。それから後この人は十九日間、体が痛くてどうにもこうにもできないような苦痛を与えられた。
 その頃、金氏の父親は、愛する子供が死刑を宣告されたことを知って本当に心を痛めて病気になっていたが、その上自動車にひかれて死んでしまっていた。すると、今度は幻の中に父親が現われて、「おじいさんがお前に、南から来る青年を迎える準備をせよと言ったけれど、その青年をこれから私が見せてやるから、私の後をついて来なさい。」と言いながら、先に立って案内するのであった。
 金氏はお父さんの後を追って行くと、宮殿のようなところに出た。そこに階段があって、それを三段上ってそこで拝み、また三段上る。それから次には一段上っては拝み、また一段上っては拝み、というふうにしていってその終りには輝かしい玉座があり、そこには一人の青年がかけていた。そして導いてくれた父親が「顔をあげてあの方を見なさい」と言われて顔をあげたけれど、あまりにも光輝いていて見る事ができなかったのである。帰りに階段を全部降りてしまったところで、父親は消えてしまっていたという。
 しかし、先生はあらかじめそのように待っている青年がいることを知っておられた。そして先生が入られた監房はその青年がおる監房であった。その青年は初めて先生を見た時から心をひかれて、何とか話してもらいたいという衝動を感じていたのだが、三日目に先生に対して「私達にお話ししてくれませんか」と丁寧にお願いした。
 そこで文鮮明先生はこの人達に、神のみ旨と人類のために先生自らが歩まれてきたその路程を、「ロレンス」という人の名にたとえて、話された。その話が終ってから、先生はこの青年に向って「あなたは誰にも言えない自分だけの悩みを持っていないか。」と言って、おじいさんが現われたときの話をその青年に聞かれた。
 それでその青年は驚いて、今までの出来事を先生に全部くわしく語った。そこで初めて自分が幻の中でおじいさんに教えられた玉座に座っていた青年は今自分が話している人であるということを知るようになった。その時からその青年は先生についていくことを決心したのであった。
 これと似た実例を一つつけ加えて先へ進もう。
 約二・三千名を収容しているこの収容所の総監督をしている人は、朴氏と言って、彼も刑を受けて服役中の囚人の一人であった。
 彼は青年の時は、基督教に従順であったが、現実的な事情により、人民軍の警備隊に入隊し、将校として働いていたが、容貌から見ても、思想的に見ても人望の厚い人であった。
 一方、文鮮明先生は、その収容所の性格、雰囲気、そして自らの特異な立場等を考えて、ふだんはほとんど語らないで過ごされた。
 ある時、先生が作業場での昼食の時間を利用して、総監督である朴氏に近寄って、洗礼ヨハネが失敗したことについて話された。
 既成教会の全ての信者たちは、洗礼ヨハネは偉大なる聖者として、絶対視する傾向があったが、もともと基督教の幹部であったその人は「そんなことはあり得ない」とかえって先生を叱ったのだった。その人の一言は先生の生命を左右する立場にいたのである。例えば、その監督が、あの人は思想的に不安である、あの人は反動分子であると、刑務所の幹部に話したら、即刻先生の生命が危険にさらされるのであった。
 そうするとそのような観点から見ると、先生がそういう話をするということは、その人が天から見て意義のある人だということを先生は知っておられたということになる。そしてその朴氏が「そんな事はあり得ない」と言って反発した時、先生は「あなたがそんなふうに言ってはいけないんですね」とおっしゃられた。
 その晩、総監督のところにも幻の中におじいさんがあらわれ、「今日お前に話して下さったあの青年はどういうお方か知っているか。そのお方の言うことは全部正しい、絶対にそのお方の話についていかなければならない。」というふうに教えられた。
 あくる日の昼の時間にも、先生はその人に近づいて行って話をした。その人は昨晩おじいさんから警告を受けているから、本当に申し訳なくて黙っているので、そういう時に先生が、「昨晩何か夢を見なかったか」と聞かれた。「この人はどうしてそういうことを知っているのかな」と不思議に思いながら、その監督は先生に昨晩起ったことを全部話したのであった。そうすると、先生はまたその監督にお話するのであった。どういう話かというととても信じられないような話をされた。今度はイエス様のお母様は本当に責任を全うし得なかったというような、今までのクリスチャンにとっては全く信じられないような話をした。そうするとその人は、ヨハネのことまではまだよかったのであるが、今度こそ本当に怒ってしまった。その時先生は「そういうふうには考えてはいけないんだがな」と言われてその時には軽く別れたのだった。
 その晩、おじいさんが又現われて「お前はあの方がどういうお方だかわからないのか」と言いながら、今度は本当に耐え難いような苦痛を体に与えた。
 もうちょっとしたら息が絶えてしまいそうな苦痛に陥いるので、その監督はおじいさんに「あの方のお話を絶対に信じるから、許して下さい」と言わざるを得なかった。
 次の日の昼食の時間、先生はまた同じようにそういうことが起こらなかったかと尋ねられた。そうすると朴氏はそれ以上逆うことができず、深く悔い改めて、今度こそ先生の話を信じ服従することを誓った。
 そこで先生はもうひとつの試験をされた。その日も、もう全く信じ難いような話をされた。するとその人は愚かな人でそこでまた強く反対した。そうすると天からの罰が与えられ、本当に耐え難い苦痛を受けるのである。それが三日続いて、三日目に初めて永遠に先生の前に屈服して刑務所の中で先生を恩師として仕え奉ったのだった。
 以上は獄中においてさえ必要な人を準備し育てられる神の摂理の周到性を見せた例である。
 この刑務所生活の内容は、人間が担当しえない如き重労働であり、宿舎と食事は言い現わし難いほどであり、非衛生的な生活条件をも甘受しなければならず、更正を願う修養の場であるというより生き地獄の標本であり、死に至る予備校と同じようなものであった。
 であるから、古参の在所者たちが新しく入ってくる人たちの顔を見て健康程度を判断し、第一印象で「どの位の期間しかもたない…」と予言すれば、ほとんど正確にそれぐらいの生命で終り、あとは担架で選ばれていくということが常識化されているほどであった。
 食事は毎食雑穀の御飯が少しづつ配られた。おかずは全くなく、汁は薄い塩のおつゆが少しづつ配給される。大きく頬張れば三口で無くなってしまうほどのこの雑穀の飯は、普通の人を基準としてもあまりにも少量であり、まして重労働者に対するものとしては、食べて生きてゆけというよりは重労働に酷使するための最少量の穀物にすぎなかった。
 文鮮明先生にとっても、その巨軀に対してあまりにも量が少なかった。しかし、初めの三週間はかえってそれを二つに分けて半分は隣りの人に与え、残りの半分だけを食べられた。そして、その半分が自分に与えられた全てであると自ら思われた。
 そのようなことを続けられて、決めた期間が過ぎた後一人ぶんを全部召しあがり、「今日から私は二人ぶんを食べる」と思われた。実際にもその時までより倍の量をとられたことになるから、人より元気が出るのを実感することができる。だから食事時間になって、皆それぞれ器に飯を受けて食べているが、普通の人は口に半分位入れると自分が食べていながらも、自分が食べているという事実を忘れているという状態であった。
 自分自身は、御飯を食べていながら、自分の頭と目は他の人が食べているものに気を取られて眺めている。他の人が食べている物を見て、自分の口や頭は自分自身も今食べているということを忘れて、食べているにもかかわらず、関係のない他人の口に入って行く御飯の固まりを欲しているのである。そうしながらも、手は相変らず無意識に動き、口を動かし続けてみな呑みこんでしまう。そして全て食べて空になった器を発見してその時になって初めて驚いたように、「こら、僕のご飯を誰が盗んで行ったのか」とどなる。このような気持ちで神を慕う者だったら、恐らく、歴史的中心人物になれるであろうと先生は語られた。
 このような状況下にあって、毎回一人ぶん余計に召しあがると思われることは大変な力と慰めになるのであった。

(つづく)