本日もシアトルよりお届けします。
Yukakoです。
またまた楽しかった週末の話をする前に、
忘れないよう自分の為に
アタッチメントとディタッチメント
(Attachment and Detachment)
の記事を書きたいと思います。
高野山の瞑想に行くようになって、仏教の教えにかなり興味が出てきた私
瞑想の後のお茶の時間に聞いた話が週末中頭から離れませんでした。
仏教の教え
アタッチメント(Attachment)をなるべく持たないこと。
アタッチメント(Attachment)とは、
いい意味では愛情、繋がり
悪い意味で言ったら執着心
ぐらいがちょうどいいのではないかと思います。
アタッチメントがなければ
自由にいれるというのは私でもよくわかる
一番良くないのは
”物”
に対するアタッチメント
高い鞄が欲しい、高級な時計が欲しい
物に対する執着心
これはかなり無くなったと自分でも思うけれども
一番難しいのが
人に対するアタッチメント
特に自分の家族に対するアタッチメントをディタッチ(開放・距離を置く)するなんていうのは
一体全体私にできるのだろうか?
元気だった頃のお父さんは誰にでも優しい人だったのに
年老いたお父さんの具合が良くなくて、
家族やケアテイカーの方々にひどい事を言う
と話されていた方に、
インドネシア人のZさんが話してくれたこと
その方のお父さんの様に
年老いた人達の態度がひどくなるのはよく聞く話
インドネシアでは、
お父さんがこの世からいなくなることをきっと家族のみんなが悲しむだろうから、
そうやってひどい態度を取ることによって、
お父さんが家族たちが自分からディタッチしやすくなるように手伝っているんだ
という風に言い伝えられているそうです。
イスラム教でも仏教でも、
どうやってこの世からディタッチしていくか
というのは永遠のトピックなのです。
12月って
ホリデーシーズンで世間がざわめいているけれども、
もしも自分がそんな世の中からディタッチして、
私はクリスマスはもういらない
私はもう誕生日はいらない
毎日毎日が大切であって、
この日だけが特別!なんて日はないとしたら、
私の心の中のざわめきも静かになるんじゃないだろうか?
去年までの私は
”黒髪”
にアタッチしていたけれども、
今年の私は
やっとディタッチすることができ、
自然のままで行こうと白髪にすることに決めた。
そのおかげで、
ケア・フリーな生活を得られたし、
他の人が私の白髪をどう思おうと全然気にならなくなった。
長い間、
自分が死んだら火葬してもらってその灰をレニア山にまいてもらいたいと考えていました。
先週こんな記事を読んでちょっと考えました
こちら
死んでまでもレニアにいたいというのは
私がまだこの世にアタッチしている、レニア山にアタッチしているということ(?)
自分が死んでしまったのなら、なぜ場所にこだわるのか?
それだったらこの記事のように、土に帰るのが一番自然なことなのではないか?
![]() |
「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版
3,135円
Amazon |
今ちょうど聞いているオーディオブックが![]()
死ぬことって、眠りにつくのと同じこと
だけど、もう起きないだけ
それだったらわざわざ燃料を使って自分を火葬して、しかも誰かの助けを借りてレニアにまいてもらうというのは
自分本意なことなのではないだろうか?
zさんが話してくれたことは、
たった一つの例えにしか過ぎないんだけど、
どんどんいらないことをディタッチしていくことで、
最終的に、
自分がこの世の中からいなくなる時に、
後悔も、悔いも、悲しみもない
本当のこの世の中からディタッチできる自分になれたらどんなにいいだろうか
と思ったのでした。
読者の方がここまでこの記事を読んでくださった事に感謝!

