昭和12年2月5日[*1]から一週間かけて指された、「370年に及ぶ将棋の歴史の中で最大の一番[*2]」を謎電で分析してみた。この一局は、持時間各30時間という他に例を見ない規定で行われたもので、人知の限界に近い将棋だと思う。但し当時、阪田[*3]は68歳(満66歳)、対する木村は33歳(満31歳)であったことを考えると、阪田にとって不利な規定であったような気はする。
さて、左図は、阪田が▽54銀と詰めろを受けた局面。実戦は、ここから▲72金▽83玉▲55角まで95手で後手阪田投了。この図を謎電で解図パラメタ{5,11}で解いてみると、▲72金▽83玉▲55角▽73金▲同金▽同桂▲72銀▽93玉▲73角成までの9手必至となった。但し、これはたまたままともに解けているだけで、本来この図を正しく解く為には{5,19}が必要なようである。
例えば、4手目に持駒を使わず▽73桂と受けた場合、▲85桂!までの1手早必至があり、これは{5,11}では解けない。▲85桂に▽同歩だと▲82金以下19手詰があるが、これが読み切れず、4手目▽73桂から解くと▲75桂▽同歩▲74銀▽93玉▲82金までの余必至解を答えてしまう。従って、{5,19}が最低必要な解図パラメタとなるわけだ。
蛇足だが、▲82金以下の19手詰の手順を正確に書くと、以下、▽同玉▲85飛!▽83歩▲71銀▽93玉▲82銀打▽92玉▲81銀不成▽93玉▲82銀不成▽同玉▲72と▽93玉▲83飛成▽同玉▲73角成▽93玉▲85桂まで。
また、全く余談だが、この図の94の歩が93にあったと仮定するならば、▲72金以下17手の即詰が存在する。勿論、後手の初手が▽94歩でなければ全く別の将棋になっているのだが、▽94歩自体は損にはなっていないことだけは確かだ。この阪田の初手の善悪について計数将棋学的には、これ以上のコメントが不可能である。
[*1] 1937年といえば、日華事変(別名:日中戦争)が起きた年。
[*2] 内藤國雄著「阪田三吉名局集」から引用。
[*3] 1916年の戸籍では阪田、旧戸籍上は坂田。なお吉は、「士に口」ではなく、正しくは「土に口」と書く。