頼朝が隠居しても「大殿」。では最初の幕府大御所は?(大河ドラマ考367鎌倉殿25) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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本日6月26日はドイツ語検定(独検)、スペイン語検定(西検)、中国語検定(中検)の3つ巴。

多言語学習の方には同時にこれらが受けられずに「厳しい選択」も有ったかもしれませんが、兎にも角にも語学検定ラッシュは一段落。関係者の皆様本当にお疲れ様でした。

 

そして、本日は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第25回「天が望んだ男」放送日。

頼朝は自分が死する悪夢に苛まれ、自己の死期が近づいている事を悟ります。

弟・全成のアドバイスを受け、赤いもの(平家の旗の事らしい)など縁起の悪い

ものを遠ざける様にしますが、なかなかそれが出来ません。

最後は縁起担ぎはやめ、己の死期も運命として受け入れる頼朝。義仲の愛妾・巴御前に対する詫びや安達盛長・北条家の面々への労いの言葉は多少は償いになったのでしょうか。。。

 

ドラマでは、史実とされる通り落馬。実質上は今回が頼朝の最終回となりました。

 

(1)頼朝は終盤に隠居をほのめかしますが・・・

ドラマ内で、頼朝は北条政子・義時に隠居して「大御所」になるという話をしていました。

しかしながら、史実の頼朝は将軍在位のまま死したのであり、

・「船を造って外国へ」は実子・実朝の行動

・「外国と交易」は敵方・平清盛の行動

を取って付けた話であり、両天下人の行動から頼朝の希望を妄想したにすぎません。

頼朝は清盛や実朝とはタイプの違う人物と感じている視聴者は多いでしょうから、この創作は個人的には違和感でしかありませんが・・・それは良いとして、

 

それよりも、頼朝から「大御所」という台詞が出る方が違和感があります。

 

(2)そもそも、最初に存命中に退役した幕府将軍は

鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経です。この人がもしも「大御所」と呼ばれていたのならば話は分かります。

しかし、史実としては「大殿」と呼ばれていました。

ですので、頼朝が隠居しても「大御所」ではなかったと推測できます。

 

(3)それでは、引退した幕府将軍を大御所と呼ぶようになったのは?

足利で最初に存命中に引退した将軍・足利義満が大御所と呼ばれたことは習っています。

しかし、良く分からないのはその間の鎌倉後期の将軍です。

 

(4)個人的な考察ですが・・・

鎌倉幕府では、6代将軍以降は皇族から将軍が出ています(皇族将軍)。

平安期、親王の隠居後を大御所と呼んだらしく、そうすると

6代将軍退位後の宗尊親王は大御所と呼ばれ、

7代将軍退位後の惟康親王も大御所と呼ばれ・・・

が続き、退位将軍=大御所の図式が構成されていったものと考えるのは想像に難くないでしょう。

 

頼朝の死後、その居所を大御所と呼んだという話が吾妻鏡に書かれてはいるのですが、当時はあくまでも「居所」であって人を指していない様です。しかし、こういった事も次第に隠居将軍「その人」を大御所と呼ぶ素地にはなったと考えられます。