頼朝征夷大将軍の障害は後白河院。では尊氏・家康にとっては?(大河ドラマ考366鎌倉殿21-22) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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96月5日(日)は英検、ハングル能力検定試験が開催されました。関係者の皆様、お疲れ様でした!

 

本日は実家でのんびりと大河ドラマを視聴出来ました。

先週5月29日本放送「第21回 仏の眼差し」

本日6月5日本放送「第22回 義時の生きる道」についての大河ドラマ考です。

 

(1)主な内容はこちら

まずは第21回。主人公である北条義時の妻・八重が水死。彼女が水死したとの伝承は残っており、詳細は判然とはしないもののそれを生かしたストーリーの作りになっています。本ドラマでは、八重は義時の妻・金剛泰時の母という超重要なポジションであり、その死に多くの時間を割くのは当然ではあります。しかしその一方で、歴史ドラマとしては語られる史実は貧弱な回でした。

 

義時の悲しみは翌22回「義時の生きる道」でも続きます。歴史的事件としては、

・後白河院の崩御

・頼朝の征夷大将軍就任

・曽我兄弟の仇討

となり、仇討ちは次回「狩りと獲物」に縺れ込むので今回は触れません。

 

やはり、最重要は征夷大将軍就任です。

ドラマ内では頼朝は「形式だけのこと」と宣っていました。

しかし、京以外の地・鎌倉での行政権を正当化するには、戦争状態対策のために許されていた将軍の権限(いちいち戦闘時に天皇の指示を仰いでいたら時間切れで劣勢に追い込まれる。緊急の策が講じられることが必要です)を常態的に持つことが得策・・・と大江ら鎌倉方のブレインは判断した様です。

これが将軍就任の1192年を鎌倉幕府成立とする説(最近の教科書では1185年の方を有力説にしているらしい)がある所以です。

 

(2)天下人への障害となった人物と将軍就任への障害になった人物とは異なる!

頼朝が天下人になれたのは、弟・義経と奥州藤原氏が倒れたからです。

 

しかし、征夷大将軍就任までにはさらに3年を要しました。

ドラマでも触れていた通り、後白河法皇が頼朝の増長を恐れて拒否の姿勢を示していたからだと考えられています。

後白河法皇崩御 ⇒ 建久3年(1192年)3月13日

源頼朝征夷大将軍⇒ 建久3年(1192年)7月12日

 

(3)室町幕府、江戸幕府は?

歴史的流れとしては、

足利尊氏は後醍醐天皇の追放で天下人になり、

徳川家康は豊臣秀吉の死去で天下人になりました。

 

しかし、やはりお二人も征夷大将軍就任までは尊氏は2年、家康は4年と、それ相応の歳月を費やしています。

次の2件を見て頂きたい:

・新田義貞戦死   延元3年(1338年)7月 2日 

・足利尊氏将軍就任 延元3年(1338年)8月11日

尊氏の将軍就任には新田義貞の存在が障害だった・・・と言われれば、これは信じるのではないでしょうか?

両者は清和源氏であり、しかも源頼朝と同じく八幡太郎義家(頼朝の高祖父)を祖とする嫡流に近い家柄の人物。

すなわち、尊氏が征夷大将軍になれるのならば義貞にも十分にその資格があると世間では考えられていた事は想像に難くありません。義貞には鎌倉幕府滅亡の大武勲もあり、家柄・実績において文句が有りませんでした。

 

では、徳川家康はどうでしょうか?

家康の場合、これはNHKでの番組で特集が有ったのですが、足利将軍家(義満~義稙)がなっていた「源氏長者(源氏全体の代表で、任官を推薦する権利を持つ)」が将軍就任の最低条件として示されていたそうです。

しかし、室町時代に足利(武家)と久我(こが、公家)との交替でなっていた源氏長者、当然の如く足利家衰退の後は久我家による独占状態となっていました。家康は武力による勝利以外にこの家を凌ぐべく政治的駆け引きをしなければならなかったのです。

豊臣秀吉の死後に久我家当主の権大納言・久我敦通が後宮の女性との密通で官位剥奪・追放されるという事件が起こり、これで家康が従一位・内大臣として源氏の頂点に立った(将軍・氏長者宣下は右大臣の際)上での征夷大将軍将軍就任という流れです。

 

(4)おわりに

征夷大将軍には大きな権限が与えられていましたが、まず家格の面で大きな制限があり、

例えその家柄に生まれても官歴が整わなけれなりませんでした。

尊氏・家康もそうですが、特に創設者の頼朝の苦労は並大抵のものでは無かったことでしょう。