生島治郎とロアルド・ダール
さて、何事もなかったかのように生島治郎の話に戻る。(^^;
生島治郎が早川書房に入社したときの直属の上司が田村隆一だった。生島は、自伝的小説『浪漫疾風録』の中でこんなエピソードを明かしている。
無類の酒好きの田村は下戸の越路(=生島)を連れてよく飲み歩いていた。ある日のこと、酒場のカウンターを前にして(田村は水割りを、越路はジュースを頼み)、田村は着流しのふところから原書を一冊取り出し、越路の眼の前に差し出した。 タイトルは Someone Like You とあった。
「これはロアルド・ダールの短篇集だが、非常に面白い。乱歩さんの言う、いわゆる奇妙な味の作品でね、切れ味がいいしオチにも凄みがある」
ミステリ翻訳誌の編集者なら、これぐらいの作品は読んでいなくてはならないという田村は、なかでもこの作品が凄いんだと、「南から来た男」のページを開いて示し、越路にその場で英文を読むよう促した。
「原書というものは沢山読めばいいんだ。読書百回、意自ら通ずだ。それにダールという作家はむずかしい言葉を使わない。きわめて平明な文章を書こうとしている。シンプルなんだ。しかし、底に流れているものはなかなかに意地がわるい。人生と人間に対するアイロニイに充ちておる。だから面白いんだな。さあ、読みたまえ」
しばらく黙読していた越路を途中でさえぎって、田村は、声に出して読みあげてみろという。酒場の中でである。えっ、こんなところで? とは思ったものの、編集長命令である。泣きそうになりながらも越路は覚悟を決めた。(^^;
「読みます」
肚に力を入れて、越路は朗読しはじめた。こんなことは大学の教室以来のことである。はじめは無我夢中だった。しかし、そのうちに少しずつ原書の文意が読み取れてきた。
なるほど、田村の言ったとおり、センテンスはシンプルでむずかしい単語もあまり使われていない。
越路が読んでいると、水割りのグラスを傾けつつ、田村が上機嫌で合の手を入れる。 「ベリイ・グッド!」 その声がとてつもなく大きいので、酒場中の客がびっくりしてこっちを見る。
『あなたに似た人』は後に田村の訳書として刊行されわけだが、そのうち半分は越路が下訳したものだった! (^^;
それだけではない。芥川賞を受賞してまもない作家の 開高健が、『あなたに似た人』に収録された短編「味」を気に入り、当時編集にたずさわっていた洋酒会社のPR誌「洋酒天国」への転載許可を求めてきたことをきっかけに、越路と懇意の仲になる。
田村が早川書房を退社後、ダールの『キス・キス』という短篇集の出版企画が持ち上がるが、田村には既にクリスティの翻訳を頼んでいたので、ほかに翻訳者をたてる必要があった。
そのとき、越路は開高がダールに惚れたと言っていたことを思い出し、彼を翻訳者とする案が生まれた。開高も興味は示してくれたのだが、「洋酒天国」の編集もあり、翻訳までは手がまわりそうもなかった。ただ、田村からも伝え聞いていたのだろう、もしも越路が下訳を引き受けてくれるなら……という展開となる。
「ぼくでよかったら喜んで」 と越路はやや興奮した気分で言った。開高にそこまで認められていたのかと思うとうれしかった。 「ただし、ぼく一人では心もとないので、優秀な下訳者をもう一人つけましょう。常盤新平という男ですが」
「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の三代目編集長となり、早川書房を離れた後も「ニューヨーカー」誌系の作家やニュー・ジャーナリズムの作品紹介に務め、後に直木賞作家となった、あの常盤新平である。
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『あなたに似た人』も『キス・キス』も、現在では田口俊樹による新訳版が出ているが、電子書籍の形では旧訳版も引き続き刊行されている。
興味深いことに、SFの鬼だった福島正実がかつて訳したハインラインの『夏への扉』もまた、長編版の『アルジャーノンに花束を』を訳した小尾芙佐による新訳登場後も、引き続き刊行されている。これらは、早川書房の礎を築いた人々のための記念碑でもあるのだろう。
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生島は後に、ノーマン・メイラーの『ザ・ファイト』の翻訳も手がけているけれど、これはいつか原書と読み比べてみようかな……(^^;