プリオットの短編集 -4ページ目

プリオットの短編集

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真夜中に目が覚める。ここ数日、ほとんど毎日。夢と現実の境目、窓を塞ぐカーテンの隙間から、薄い月明かりが覗いている。いつも僕は、その隙間からこれ以上夜が入らないように、そっと身を起こしてカーテンを閉めなければならない。







冷蔵庫からジンを取り出してウィルキンソンのジンジャーエールで少し割り、ベランダに出て、火をつけた煙草と交互に口を付ける。見上げればたくさんの星が東の山に降り注いでいる。その内のいくつかが僕にとって特別だから、僕はその多くの星を眺めることで幸せになれる。薄ぼんやりとした稜線。山の端を指でなぞると、憂鬱がゆっくりと静かな夜の指先に溶けていく気がして、少しだけ気持ちが軽くなった。



その直後、今はもう聞くことのできない声が頭の中でこだまする。同時に広がる風景。それは時に現実離れした鮮明さを持ち、時に雲を掴むような曖昧さで記憶の彼方へ、今となっては現実だったのか、夢なのか、わからないくらい遠い、不透明な記憶の彼方へ僕を誘う。





 黄昏時の青い川辺で、初めて彼女の手に触れた夏の夜。少し茶色がかった長い髪、白い肩。月の夜に響く彼女の言葉。たくさんの蛍たちが静かにまたたき、幻想を助長する小川のほとりは僕たちを、まるで世界中、他に人が存在していないような気にさせた。時折風に揺れる木々の音。それはまるで僕たちの別れを予言しているみたいで、でもその音はとても優しくて、僕はつないだ彼女の手をぎゅっと握りしめた。不安も、期待もなかった。僕たちは互いの心に満ちたため息を、そっと唇でふさいだ。世界中の時計が止まった気がした。僕は泣かないように少し笑った。彼女も少し笑った。僕たちは24歳だった。僕は、彼女が好きだった。





 春。つまらないことで一緒に笑いあい、二人だけの言葉が毎日増えていく。



何度目かの京都。学生時代の自由で孤独で快活な記憶を、彼女は華やかに塗り替えてくれた。見るもの全てを珍しそうに眺める彼女は、本当に楽しそうだった。歩く途中、寺町の雑貨屋で僕は彼女に小さなピアスを買ってあげた。1,000円か、2,000円くらいだったと思うけど。


「かわいさが3割増しになったね。」


と言うと、彼女はショーウィンドウのガラスをのぞきこみ、ピアスを指で弾きながら

 

5割増しだよ。」


と言って笑った。鴨川でおにぎりを食べて、先斗町を歩く。春の風に柳がゆらゆらと揺れて、ざわめく心をたしなめてくれる。細い路地、塀の上にうずくまる猫。石畳に響く足音。全てがやわらかくて、優しい空気に包まれていた。そして帰り道、木屋町の喫茶店で彼女は泣いた。僕は何も言えなかった。沈黙に支配された空間で、きっと私はあなたのことが大好きすぎるんだな、と彼女はつぶやいた。









そして、そうだ、僕は、僕は泣くほど彼女が好きだったのに。







 

 冬。踏みしめた二つの足跡を、静かに降る雪が消してゆく。人けのない夜の駐車場。見るからに寒気を帯びた警報機の青いランプが、等間隔で僕たちを照らしていた。白い吐息が夜空に溶けていった。






 「二人でいることの非日常が日常に変わっていくことを幸せだと感じて、ヒット曲が懐メロに変わっていくのを一緒に眺めたり、たまには贅沢して豪華なランチを食べに行ったり、朝の弱いあなたを、ああ、めんどくさいなあと思いながら起こしたり、当選してもいない宝くじの使い道でけんかをしたり、そんな普通の毎日。みんなそんなにもありきたりで、とても普通で、でも特別な日々を過ごしているのに。なんで、なんでみんな自分はそんなに幸せじゃないって思ってるの?」







 彼女は泣いた。何度も何度も泣いた。彼女がしきりに鼻をかむのを見て、僕も鼻をかんだ。ちーんという音がした。無理やり鼻かまないでよ、と言って彼女は笑った。







 




 東の山から朝日が入って来ることを確認して、僕は煙草を消した。今日は僕の誕生日で、また今年も、僕だけが彼女より一つ歳をとる。



 くすぶった煙が明け方の空に混じっていく。どこかで犬が鳴いて、またありきたりな一日が始まることを告げる。

 



「君はいいねえ。ずっと若いままで。」

 



そうつぶやいて、僕はベランダの窓を閉めた。







生きている僕はまた今日も、背広を着て電車に乗り、名もない一市民として社会と交じわる。生きると言うことは、一人でいられないことを受け入れること。キーボードを無心で打つ時、不意に道を尋ねられた時、素敵な音楽を聴いた時、瞬間瞬間の小さな感動が、自身の痛みを、少しずつ忘却に導いていくのだ。少しずつ。でも確実に。そう思うと僕はたまらなく悲しい。