行基寺って知ってますか? | print-110スタッフブログ

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今年もあと1か月わずかになりました、本社営業部の伊藤です。ウシシ

 

11月中頃に紅葉が始まり、私もどこかに紅葉を見に行こうと思いましたが、コロナウイルスの関係も有り、人込みを避けて何処かないかと考え、近くに行基寺が有ることを思い出し、小学校の遠足で行った事があるので何十年ぶりに行きました。

行基寺に関して詳しい事は下記に記します。

あまり知られてない感じで私たち以外に、8組ぐらいが着て見えました。

 

大人になってから行ってビックリ?こんな立派なお寺だったんだ、山の中腹にあり眺めも最高、庭も最高、詳しい事はフェイスブックを参考にしてください。

紅葉はまだ始まったばかりでしたが、気持ちの良い2時間でした。爆  笑

 

  

 

https://www.facebook.com/gyokiji/

 

色々写真がアップされていますので是非一度見てください。

 

【行基寺 沿革】

天平の初め頃(約1300年前)、当時、大仏建立の勧進のため諸国を行脚していた行基菩薩が聖武天皇の勅願を得て、美濃・尾張・伊勢の三国の守護霊場山として、この地に七堂伽藍を尽くした菩提寺が建立されたのが始まりです。当山内には行基塚があり、天平宝字元年二月二日に行基菩薩が八十二歳でご入寂されたと伝えられる場所には板碑、七重の石塔(共に重要文化財)が今も残っています。南北朝の動乱期(約700年前)、当山は戦乱の際の兵火により全山焼失してしまいましたが、尾張津島の領主ならびに信徒らが、再びこの臥龍山の地に伽藍を建立されました。 東山天皇の元禄年間(約300年前)、尾張藩二代藩主徳川光友公の次男である松平義行公(徳川家康公の曾孫)が、美濃高須藩の藩主として封ぜられるにあたり、当山を松平家の菩提寺として境内および全伽藍を城郭に見立てて改築し、宝永二年(1705年)に完成しました。その後、行基寺は明治維新に至る160年間は一般庶民の登山参詣は禁止されていました。今もなお、松平公ご使用のお駕籠、調度品等々がそのまま残っており、中でも当時使用されていた約2m大の櫓時計は今も時を伝えています

 

これを読むと、なんか歴史を感じますね。ほっこり

あなたの傍にも歴史ある物が身近にあるかもしれませんね。ウシシ

 

        

 鹿威しが有りました。

             

濃尾平野の眺めです。

 

今年もあと少し健康に気を付け、新型コロナに気を付けて行きましょう