時に元禄15年1702年12月15日!
雪積もり、満月の明かりが冴え冴えに江戸の街を照らす。
ここ現在の両国駅からこの物語を再び始めて行こうと
思います。

(JR総武各駅線、両国駅)

今から時を遡る事、316年前のこの時間。
大石内蔵助始めとする、赤穂浪士47人が吉良邸へ討ち入る
という。歴史に残る忠臣蔵、この時間に表門を登って潜入した
という時間であります。
マンセル:みなさん、ど深夜に失礼します!
(掲載当時午前3時を想定しておりましたので)
こんばんは!マンセルです。
グラハム:こんばんは!グラハムです。
マンセル:さぁ!こっからが本当の意味で、赤穂浪士47人
がいよいよ吉良邸へ討ち入りを決行します。
グラハム:果たしてどーしてあんなに上手く事が進んだのか?
についても徹底的に調べて参りました。

マンセル:そして、我々がむばるベアーズは、長年の間。
この忠臣蔵の真実の部分を知りたくて、2年の間に渡って
調べあげ幾つかの新事実へ辿り着きました。
グラハム:この忠臣蔵の話は、歌舞伎や他で演出や脚色。
あるいは真実味のあるデマ等、真相が捻じ曲げられている?
そんな状況が起きております。
しかし、我々は現地!この事件が起きた場所へ直接おもむき。
これらの一つ一つを見て歩く事に至りました。
マンセル:それは、たった一つの疑問から始まりました。
ではこれから何日かかるか?全くわかりません。
現在編集していても、どれくらいの時間が必要なのか?
全くわかりませんが。
みなさんと共に、忠臣蔵の舞台を一緒に旅をしながら真実を
追求していきましょう!
グラハム:尺未定!行きましょう!新企画?
祝!ブログ開設10周年企画
忠臣蔵完全現地中継!リアル歴史の旅
ナレーション:黒い幕。
既に歌舞伎や人形浄瑠璃、あるいはNHK大河ドラマや年末
の時代劇等でも何度も何度も公演されているこの忠臣蔵。
きっかけは、どっかの劇団がやっていた。
リアル歴史〜〜〜何とかという企画・・・。
その中でもあちこちで、忠臣蔵に関わる場所をポイント
ポイントで訪れた訳ですが。
その場所を訪問する際、これらを1本にまとめる事は
できないだろうか?とふと思った訳ですね。
そして、それら時代劇や歌舞伎での公演を重ねる事で、
どんどんどんどん、真実の忠臣蔵から話が掛け離れる話や。
何よりもちょっと眉唾モノだったのが、あるお笑い芸人と
嘯く者がいまして。そいつは、何かにつけて根拠の無い自慢
話のように・・・。
自分の先祖が当時吉良家の隣に住んでいて?
討ち入りの最中隣家から高張りをあげて、吉良家の邸内
に明かりを灯したのは自分の先祖だという話。
そして自分はその末裔だという・・・。
確かに時代劇でもそのシーンはあるにせよ、本当にその
必要があったのか?あるいは実際にあったのか?
だとしたら、仮にもそれがあったとしたならば。討ち入り
に協力しました!という明白な根拠は?事実だととしたな
ら、なぜお家は断絶されずに先祖だ子孫だと名乗れる末裔
が生きてられるのか?などなど・・・。
国家を騒乱に陥れたにも関わらず、それに協力した?なのに
なぜ何の沙汰も下されないのか?という疑問も浮かび。
更に調査した結果、幕府は仇討ちの仇討ちはなすべからず
という命令もあったのを今回の調べて確認ができた。
事実近隣の大名家への報告は討ち入りが終わった後の
報告、事後報告であるという資料もある。
討ち入り前に、ここで暗殺行為やってますよ!と。赤穂浪士
達が宣伝して歩く訳もなく。
何よりも大石たちは、幕府や上杉方の援軍が到着が一番
怖い訳であって。
山鹿流陣太鼓も鳴らす訳もなく、静かに静かに潜入して作戦
を決行せねばならないのに。事前通達をする筈もなければ。
いわゆる暗殺という側面を考えれば、仰々しい感じでかつ
正々堂々と正面切って戦うという事は。本来の筋道考えた
なら誰だってそんな事しない筈なのです。
ある小説の中の一節、鳩巣小説(下)に記されているのが
史実だというのもありましたが。
あくまでもこれは小説の中の話であって、それと史実とは
また違うという事。
もちろんそれを否定できるだけの理由を見つける事が出来た
訳です。
仮にも赤穂浪士達に、何らかの討ち入り前、あるいは討ち
入り中に協力したとしても。それを公にするにはやはり
時節柄に無理があると判断できる内容。
それは他でもなく、江戸庶民の幕府への不平不満や社会
状況を考えたら。あたかもそうであったという、この武士
の討ち入りが色んな思惑を持った人々によって。
美談に美談の上に重ねられた話
だという事。
そしてそれは現代にも通じる話で。
結果、何もしてない人とか。何の芸も話術も自慢する話
も無い人が。少しでも自分っていう人間がお前等よりまと
もな血筋の持ち主なんだぞ!という自慢話をしたい奴等。
我が身血筋をより高貴に見せかけ、マウントポジションを
取った物言いで。それこそ何の縁も恨みもない相手に対し
て優位に立ってフルボッコしたいだけというものや。
他人の褌を巻いて、あたかも自分の手柄のように仕立てたい
だけ・・・。
というのがはっきりと見えてくる訳です。
討ち入りを知っている、あるいは、討ち入りがあるのでは!?
という噂を巻いて。
直接ではなく、間接的に。あるいは極一部の庶民の協力が
密かに密かに協力もあってこその成就ではないのか?
そうなると、いくつかの真実が全て符合してくる訳です。
それらを我々は、これよりあらゆる資料から拾い集め。
更に実際に事件の起きた現場へ赴き、そこから完全現地
中継して参ります!

(まずこちらへやってきました)
マンセル:一見するとこちら、普通の住宅街になってます。
グラハム:どこにでもありそうな?東京の下町っぽい所で
すよねぇ・・・。

(この交差点が大事なんです。)
マンセル:ここ!ここからこの忠臣蔵討ち入りの、完全
現地中継の全てのスタート地点になります。
グラハム:ここはどういう所なの???
マンセル:まさしくここは、歴史を変える大きな大きな
交差点に我々は今、立っています。
まずは一人の赤穂藩浪士をご紹介しましょう。

(前原伊助です)
元赤穂藩、前原伊助をここでこの忠臣蔵討ち入りの大事な
重要人物の一人としてご紹介してゆきましょう。
この前原伊助、そして、神崎与五郎の二人はここで米屋を
営んでおりました。
名前を米屋五兵衛と名乗って身分を隠して、日本橋から
ここへ越してきておりました。

(米屋を経営していた、前原伊助)
米の価格の徹底的な値下げを行い、採算度外視で米価格の
値下げを行った事で。江戸でも大評判になり、近い事もあっ
て。吉良家からも米の注文があったと言います。
そう、前の記事に書いたように。物価が上昇してインフレを
起こしている中。徹底的に米の値下げに踏み切った訳です。
ですから、江戸からの注文が殺到だったようです。
同時に前原伊助は、ここでスパイ活動をしておりました。
当然それは、吉良家への討ち入りの為。彼は徹底的に吉良家
の内情をここで屋敷内を偵察していた訳です。
前原伊助とは、表向きは米屋でありつつも。赤穂藩浪士の
007だった訳であります。
それと同時に、ここは隅田川、小松川のすぐそばです。
船を使って米を仕入れる俵の中に、討ち入りに必要な道具。
刀、弓、槍、鎖帷子、龕灯、衣装などを
ここに討ち入り47人分集め。
表向きは米屋の暖簾を下げつつも、甲子ひとつ裏には討ち入り
の武器庫となっていた訳です。
用いられた弓は、室内での戦闘を考慮して。半弓と呼ばれる
弓であったり。
あるいは槍やナタも肢の短いものであったりと。
携行する武器をモバイル化までしていたという訳です。
ここで大石内蔵助から全員に討ち入りのルールブックを
取り交わし。吉良発見時には笛を吹いて知らせる合図とする
など。厳格なルールを47人へ徹底させていった訳です。
※江赤見聞記より
(参考文献はこれよりこういう感じで表記してゆきます)
更には、斬り合いになった際。
相手からのダメージを受けない為に、特に下半身への防御の
為に。鉄の鎖帷子や鉄の股引、兜など。総重量10kgにも
及ぶ完全武装を施した訳であります。
しかもこのまだ元禄の時代の武士というのは、自分もそのま
ま忍者になれるんじゃないか?というくらい。情報収集能力
にはズバ抜けて優秀だった訳で。
それぞれ手分けして、吉良上野介の身辺や。警護体制、ある
いは行動予定や、最終的には母屋の見取り図平面図までも
手に入れ。柱の数、襖の枚数まで分かっていた訳です。

それがこの図面だったのです。

(更により詳しい平面図)
赤穂浪士達は、自分達のギリギリの生活の中で。それぞれ
江戸の町に潜伏し、商売他の商いや。
堀部安兵衛親子などは、吉良家の近くに剣術道場まで開いて
その刻を待った訳であります。

(ここからは新映像)
マンセル:こんにちは!こちらは何となく普通の公園にやって
きましたよ。
グラハム:ここの公園も実は大事な場所でして、実はここも!
赤穂浪士47人が集結して吉良家へ討ち入りする為の出撃
箇所の1つでして。実はまだもう一つあるという。
マンセル:赤穂浪士達は、米屋の前原伊助宅から実際には
出撃して吉良家へ乗り込んだのですが。実はここ!

(堀部安兵衛道場跡)
マンセル:実はここ、堀部安兵衛の剣術道場跡なのです。
グラハム:前原伊助宅がアジトとして発覚しても、他2箇所に
出撃箇所として密かに設けていた。
マンセル:念には念を入れて、吉良家への討ち入りの準備を
整えていた訳ですが。ここから吉良邸まで、徒歩で10分と
掛からない場所。小松川を挟んだ反対側にあります。
グラハム:ここから堀部親子は討ち入りスタイルに着替えて
から、前原伊助の米屋に静かに静かに向かったのだそうです。
つまり討ち入り前の行軍は、堀部親子だけだったんです。

(東映:忠臣蔵より・・・)
赤穂浪士といえば、47人が徒党を組んで。江戸の街を走っ
て吉良邸へ向かう・・・!
なんていうシーンが、割と有名に皆さんの思い描く世界に出
てくるとは思いますが・・・。
だが真実は・・・こんな事。
無かったんです!
それはなぜか?
マンセルくん、グラハムくんが現地で教えてくれますよ。

(はい、どーも!)
グラハム:忠臣蔵って言ったらねえ・・・あのシーンは
誰もが思い浮かぶシーンですよね。
マンセル:ところがね、そんなシーンは実際にはないんです。
だって、みんなで走って移動する必要がないんですもの。

(ここ前原伊助宅跡)
この看板にも書かれていない事実・・・それは。

(ここがどこだかわかりますか?)
グラハム:前原伊助さんのお宅前ですけれども???
マンセル:そう、ここで米屋を営んでいた前原伊助。
そして、吉良家に米の注文で出入りしていた訳だよね。
この地図を見て欲しい。

(赤い枠で囲ってあるのが吉良家の敷地)
およそ、3050坪。
サッカー場がすっぽりと収まる広大な敷地が吉良家の敷地
なのですが・・・。

(分かりやすくするとこんな感じ)
そうなんです!前原伊助は、吉良家の道ひとつ挟んだ向かい
に住んでいて。
ここで米屋を営んでいた。しかもここで、赤穂浪士47人は
ここに集結し。中で完全武装の戦闘服に着替えた訳です。

(つまりここは・・・)
マンセル:吉良家討ち入りの為の秘密基地。
吉良討ち入りの為に用意された、
最前線の出撃基地だったんだよ!
グラハム:なんという!
※佐藤條右衛門覚書書より
(参考文献はこれよりこういう感じで表記してゆきます)

(つまりこの横断歩道付近・・・)
ここに午前3時。この時間!
赤穂浪士47人は集結した場所なのだ!

(つまりこんな感じだったのです)

(実際のところ・・・)
マンセル:グラハムくん!ここはね、現在の東日本橋の
てん茂という天ぷら屋さんなんだけれどもね・・・。
実は、ここがかつては旅籠でね。大石内蔵助が討ち入り直前
までここで潜伏していた場所だったんだよ。
グラハム:そんな所があるんですね!びっくりだわ。
マンセル:で、ここからぼく達も大石内蔵助さんのように、
両国の前原伊助の米屋へ再び向かうとしようか!?

(皆さん見えてますか?)
マンセル:今は普通に民家や、マンション、ビルが立ち並んで
おりますこちらの背景!分かりますか?
グラハム:この道路挟んだ、お向かいさんの家々ですね。

(よーくこの景色を見ててください)
マンセル:この家々が並んでいるこの場所。これこそが、
吉良家の長屋がずらーーーーっと続いていた場所。
そのものだったのであります!
グラハム:じゃあ、玄関開けたら・・・。
マンセル:10歩で吉良家だった訳です!
さて、この続きは。
赤穂浪士討ち入り成功への鍵と謎をそれぞれ紐解いて
いきたいと思います。