What aわんだふるワールド -13ページ目

What aわんだふるワールド

がむばるベアーズ:マンセル、グラハムくんの奮闘日記。

今日は、朝日杯フューチュリティーステークスの日ですな。 

 

このブログ、中央競馬のGⅠレースの日のみ限定でちょっと

 

レースを予想してみようかとなと・・・。

 

あらかじめ申しますが、非営利で私的な予想なので。

 

的中不的中に係わりなく。一切の抗議苦情および、

 

不明瞭な請求等。これらを一切否定いたしますので。

 

あくまでも参考までで。

 

◎  2枠 4番

ミュージアムマイル   2着

 

○  4枠 8番

アルテヴェローチェ   5着

 

▲  1枠 2番

アドマイヤズーム   1着

 

△  3枠 6番

アルレッキーノ   10着

 

×   2枠 11番

ニタモノドウシ   9着
 

 

ま、何時ものようにこんな感じ。結果はレース終了後にて。


なお、結果は主催者発表のものをご確認ください。

 

(グラスワンダーからの4世代続いた新しい一等星の誕生)

アドマイヤズーム

 

(無配で関門突破へ!来年の主役に勝ち名乗り!)

ジャンタルマンタル 

 

(人気を背負った若武者の進撃の始まり!)

ドルチェモア

 

(どうしても欲しかった2歳チャンプの称号を人馬共に!)

ドウデュース

 

(良血が再び舞い降りた!レコード決着の真実!)

グレナディアガーズ

 

(馬場の真ん中より2020年への戦いの狼煙!)

サリオス

 

(ただ直向きに走る馬にこそ栄光を!)

アドマイヤマーズ

 

(余裕の独走劇に更なる可能性をみたか・・・!?)

ダノンプレミアム

 

(やっぱりディープの息子は強かった!来年への大きな一歩!)

サトノアレス


 
(2016年への新世紀対決だ!リオンディーズ制する!)

 

 
(葦毛のディープ、来年へ向けて意気揚々の勝利)

ダノンプラチナ


 
(力の差を見せつけての完勝!アジアエクスプレス)

 

What aわんだふるワールド

(夏のリベンジはGⅠの舞台で!ロゴタイプ:奥の馬)


What aわんだふるワールド 
(内々でじっくり耐えて、混戦を抜け出した

アルフレード)

 

What aわんだふるワールド 
(目の覚めるような末脚一閃!グランプリボス)

 

What aわんだふるワールド 
(華麗なる一族悲願のGⅠ。ローズキングダム)


What aわんだふるワールド 
(直線の死闘を制して、セイウンワンダー)


What aわんだふるワールド 
(鮮やかなる逃走劇、ゴスホークケン)

 

What aわんだふるワールド

(最後方から一気の追い込み、夢の旅路はここから

ドリームジャーニー)

時は元禄14年1701年3月14日(旧暦)

 

 

(大手門交差点)

 

(皇居入り口)

 

(こちらは江戸城の入り口へやってまいりました)

 

マンセル:みなさん、深夜にこんばんは!

 

グラハム:この記事は編集を始めたはいいのですが、まだまだ

 

どんだけのキャパになるのか?どういう編集になるのか?

 

全くわかりません。

 

マンセル:ですが、我々。2年の月日を費やして、この

 

忠臣蔵の真実を追うべく。あらゆる資料、参考映像なども

 

調べ上げ。いつくかの確実な新事実を見つける事もできま

 

した・・・。

 

あの話やこの出来事、それぞれを現地より検証して行きたい

 

と思います。

 

(あそこです!)

 

マンセル:あの茂みに見えるあの奥。

 

あの奥で1701年3月、松の廊下事件が発生しました。

 

その遺恨が約2年の後に起きる、吉良邸討ち入りまでを

 

完全現地取材を2年に渡っての経過を報告してゆきます。

 

グラハム:あの場所、松の廊下にも中継入ってますので。

 

中継を繋ぎたいと思います。

 

マンセル:皇居内におります、もしゅもしゅくん!

 

チェリッシュさん!裕子さん!どーぞ!


(はーい!)

 

きつねの裕子:みなさま、ご機嫌麗しゅうございます。

 

チェリッシュ:こんばんは!

 

もしゅもしゅ:深夜にこんばんは!

 

きつねの裕子:こちらは、かつて。松の廊下があったとさ

 

れる、江戸城内。現在の皇居内へやってきました。

 

(こちらにはその石碑が残されております)

 

もしゅもしゅ:この場所で、浅野内匠頭が脇差を抜いて

 

吉良上野介へ斬りかかったというあの事件の現場です。

 

チェリッシュ:現在はその石碑と案内看板のみが残るだけに

 

なっております。

 

 

石碑のみ

 

 

と、看板。

 

 

ここで浅野内匠頭が殿中であるにも関わらず、彼が脇差し

を抜き額と背中へ切り傷を負わせるも。

吉良上野介は一命を取り留め、浅野内匠頭は身柄を取り押さ

えられ。吉良を取り逃した事を悔やんだという・・・。

 

 

これがその時の事件を描いたものですが。

 

(トンデモない事が起きた訳です)

 

もしゅもしゅ:かねてよりの遺恨のあったという両者。

 

ここで刀を抜いたらどういう事になるか?彼は考えたはず。

 

チェリッシュ:でも武士の世界にあるという、喧嘩両成敗

 

という原則であれば。自分も一緒に吉良上野介も処罰される

 

と思ったに違いないわね。

 

きつねの裕子:ところがそうは、徳川将軍は判断しなかった。

 

 

(実はここはどういうところか?)

 

ここは確かに松の廊下があったところではありますが、ここが

どういうところなのか?

それはですね、飛んでもない場所だったんです。

 

(こちらをご覧ください)

 

実は松の廊下からは直接は行けずに、”の”の字を描くように

廊下が続く訳ですが。

この芝生が見える辺りに、この刃傷事件が起きた時。

大広間の接見室のようなところには、将軍と朝廷の勅使が

既に面談をしていたわけでして。

直線距離にしたらおよそ30m付近だったという。

 

(事件を知って・・・)

 

この刃傷騒動を聞いた、将軍と勅使は。護衛に守られながら

更に奥の間へ避難したという。

 

こんな感じで、将軍と勅使は避難したそうでして。

 

(つまり・・・)

 

関ヶ原の戦から100年になろうかというこの時、平安な

時代になったはず?の元禄のこの時に・・・。

浅野内匠頭が将軍のすぐ近くで刀を抜いてしまったという、

暴挙と言ってもいい行動に打って出てしまった。

そういう事件だった訳です・・・。

 

(詳しい案内はこちら)

 

しかし、取り押さえられた浅野内匠頭は、討ち漏らした事に

も悔しさを滲ませながらも。

決してこれは幕府へ対するものではない、という証言もあり。

先も申したように、喧嘩両成敗の原則であれば。自分の家

やその赤穂藩の行く末を不安に思いながらも。

自らの命と引き換えに、吉良上野介にも厳しい処罰がなされ

るとどこかで思ったのかもしれませんが・・・。

 

幕府の取った判断は、そうではありませんでした。

 

(こちらは、新橋の新虎通りです)

 

マンセル:こちらは新橋駅からほど離れた、最近できた新虎

通りですよ。

 

グラハム:後ろに見えているのは、虎ノ門ヒルズです。

ここには2020年に日比谷線の虎ノ門ヒルズ駅ができる

辺りへ優雅にお茶をしにきた・・・訳ではありません。

 

マンセル:江戸城松の廊下での刃傷事件で取り押さえられた

浅野内匠頭は、当時この付近に居を構えていた大名の田村家

へ連れて来られまして。幕府からの沙汰を待っておりました。

 

グラハム:そして、その沙汰は即日伝えられ実行されました

それは・・・。

 

(こちらです)

 

浅野内匠頭終焉の地です。

 

マンセル:浅野内匠頭は即日、切腹の命が下された訳です。

 

グラハム:しかし、吉良上野介においてはお咎めなし。

という裁定に、赤穂藩の武士たちはもとより。江戸の町民

達にもその不平等な裁定に不満が高まります。

 

マンセル:その後、浅野大学を藩主として、浅野家再興を

嘆願したものの。他家への身柄預けになる事で、名実ともに

浅野家、赤穂藩はお取り潰しになってしまった訳でありました。

 

 

続く・・・。

 

風さそふ 花よりもなほ 我はまた

春の名残を 如何にとやせん

 

浅野内匠頭辞世の句

 

 

ちなみに、この近くにある和菓子屋さんには、切腹最中と

いう和菓子が売られておりまして。

現代ではお詫びの印という意味合いで、企業が持参する

手土産に用いられるようになっているそうです。

 

刃傷松の廊下事件で、浅野内匠頭一人を切腹させた幕府

への怒りは。当然赤穂藩からも沸き起こるも、大石内蔵助

以下の家老達は。

それでも浅野大学を藩主に、浅野家再興と赤穂藩存続という

一縷の望みを繋ぐにも。

血気盛んな部下達の反発も激しく、全員から決起しないという

証文を取り付けるのだが・・・。

江戸の庶民と、江戸にいる家臣達は討ち入りに躍起だった。

ある時から、こんな噂が江戸の街を走り回るのだった・・・。

 

大石内蔵助が江戸へ入れば、

吉良家に討ち入りがあるのでは?

 

というものでした・・・。

 

これに真っ先に反応したのは、相手吉良家ではなく。

吉良家周辺の大名達でした・・・。

 

(鍛冶橋)

 

からのぉ〜・・・。

 

(はい、どーも!)

 

マンセル:今度はこちら、鍛冶橋へ我々はやってきました。

 

グラハム:現在の東京駅になります、東京駅の有楽町寄りで。

線路の向こうは皇居で、その反対側に今来ております。

 

マンセル:現在ですとここは、東京駅発着の長距離バスが

停留する場所になっております。

 

(こちらへ行けば、京橋方向)

 

グラハム:この先を行けば両国方向ですね。

 

(こちら行けば、皇居。江戸城です)

 

(当時この付近は・・・)

 

マンセル:当時この付近は、幕府要職の大名達が江戸での

上屋敷を構えていた武家屋敷の密集地帯でした。

 

グラハム:今は道路になってますが、内堀に囲まれたエリア

に吉良上野介は当時居を構えていた訳です。

 

(ここを歩いても10分で江戸城です)

 

マンセル:という事は、この界隈に住めるというのは。

当然、吉良家というのは。要職中の要職であり、勅使を

おもてなしする上でも幕府側の顔ともいうべき役職でした。

しかも先祖を辿れば、あの足利家、あるいは今川家、そして

上杉家と・・・。

室町幕府の起点から戦国の有力大名が、家系図にはこれでも

か!?とばかり並ぶという名門中の名門の家系なのです。

 

グラハム:浅野内匠頭はその下で、朝廷とのおもてなしを

担当する立場に任命されました。

しかし、赤穂藩と、吉良の藩とでは石高は5倍。赤穂藩の方が

裕福であったのにも関わらず。官位や立場は下だというこの

矛盾も生まれていた訳でもあります。

 

(ところが・・・)

 

マンセル:諸説はあるとは言いますが、吉良からの

今でいうパワハラや。陰湿なイジメや圧力、あるいは武士の

誇りを踏み躙るような侮辱があったと言われており。

 

グラハム:逆上した浅野内匠頭が殿中で刃傷に及んだとされて

おりますが・・・それだけだったのか?というのもありますが。

その辺の彼の心情を読み解く資料はないものですが。

 

(ここで一つの大きな流れが動き出します)

 

マンセル:江戸庶民がある噂を流した訳です。

 

大石内蔵助が江戸へ入れば、

吉良家に討ち入りがあるのでは?

 

グラハム:この噂で誰よりも一番震えたのは、吉良家周辺に

住んでいた。他の大名達でした。

そんな大名達は、幕府に対してある陳情が殺到します。

 

 

泰平の世になって、当家近くで討ち入り等の殺戮は

まかりならない・・・。

 

(当時の鍛冶橋周辺)

 

マンセル:特に、吉良家の隣に住んでいた、蜂須賀家に

対して。幕府からはこういった命令が出たという・・・。

 

 

幕府:討ち入りがあった時には、

どちらにも加勢をせずに自家を守るべし。

 

つまり、幕府は。仮に討ち入りがあっても、どちらにも

味方をしてはならない!

 

という強い命令を出していた訳です。

 

つまり幕府は、どちらにも味方しないし。更には世の中を

混乱させる行為には強い反対意思があったものとわかる

命令であり。

前出にもあるように、赤穂浪士の討ち入りに高張りを立てて

討ち入りに協力する事は。幕府の命令を無視したものであり。

国家の騒乱に加勢する行為でもある訳です。

それがもし本当にやったというのがご自慢であれば、当時

厳罰はまず免れないものだったはずなのです。

にも関わらず、それを正当化する言い回し。事実であれば

それは生涯黙っておくべきもので、それを過ぎた話として

こっそり言い振る舞ったのであれば。

それこそ武士の風上にも置けない、卑怯で姑息な手段を

先祖は取ったという事を自ら示すものになるのです。

両家とも結果血を流し、お家が断絶するという悲劇を迎えて

いるのにも関わらず。討ち入りの美談にだけ乗っかるという

それは、何よりも卑怯者極まりないものなのです。

 

 

更に幕府は一計を案じます

吉良家、両国へ屋敷移転。

 

 

当時江戸城を目と鼻の先にした、内堀よりも内側に居を構えて

いた吉良家でしたが。

今回の刃傷沙汰での一件において、体裁上は居を移す事で

懲罰の意味合いを世間に対して見せた格好だが・・・。

 

 

現在の東京駅付近にいた吉良上野介は・・・。

 

 

本所に空いた武家屋敷があった事で、こちらへ移動となった

のですが。この場所が重要でした。

 

本所のこの付近というのは、テロップにもあるように。

近辺の出入りは自由という理屈・・・。

現在の両国とか両国橋という意味合い・・・。

 

江戸というのは。

 

隅田川から向こう岸。本所あたりは当時・・・。

江戸ではなく下総の国だったのです。

 

 

現在で言い換えれば、東京都ではなく千葉県だったのです。

 

つまり両国橋とは、江戸と下総の両(りょう)国(こく)

にかかる橋という意味だった訳で。

 

つまりは、吉良上野介は江戸からの所払いだった。

 

訳です。

 

ということは・・・?

討ち入りをするならば、江戸の外でやってくれ?

そういう幕府のサインではないのか?という説も出てくる

のですが。それもまた、確たる証明には至れませんでした。

 

本所へ移った吉良上野介は、江戸城へ上がる際。

その道中を物々しい警備をつけて移動する事を余儀なくされ

るのでした。

実は、仇討ちというのは当時の常識

としては〇〇で行われていた!

 

その理由はまた後ほど解説するとして・・・。

 

 

更に江戸幕府は強かに考えます・・・。

 

当時、幕府の経済政策が大失敗し。今で言うところの

ハイパーインフレを起こしていたのです。

つまりは、経済的には破綻のフチでした。

 

 

元禄の改鋳(かいちゅう)と呼ばれるもので。

小判に含まれる金の含有率を8割から5割へ。

それにより物価が急上昇してしまい、庶民の生活は困窮を

極めるのです。

 

この幕府の政策の失敗に加え、松の廊下刃傷沙汰においての

喧嘩両成敗にしなかった事への不満が町民には根強く。

幕府への不信は強まる一方だったのです。

 

 

しかしながらそんな中でも、ある一人の赤穂浪士が活躍を

するのですが。それは次の記事を・・・。

 

時に元禄15年1702年12月15日!

 

雪積もり、満月の明かりが冴え冴えに江戸の街を照らす。

 

ここ現在の両国駅からこの物語を再び始めて行こうと

 

思います。

 

(JR総武各駅線、両国駅)

 

 

今から時を遡る事、316年前のこの時間。

 

大石内蔵助始めとする、赤穂浪士47人が吉良邸へ討ち入る

 

という。歴史に残る忠臣蔵、この時間に表門を登って潜入した

 

という時間であります。

 

 

マンセル:みなさん、ど深夜に失礼します!

(掲載当時午前3時を想定しておりましたので)

こんばんは!マンセルです。

 

グラハム:こんばんは!グラハムです。

 

マンセル:さぁ!こっからが本当の意味で、赤穂浪士47人

がいよいよ吉良邸へ討ち入りを決行します。

 

グラハム:果たしてどーしてあんなに上手く事が進んだのか?

についても徹底的に調べて参りました。

 

 

マンセル:そして、我々がむばるベアーズは、長年の間。

この忠臣蔵の真実の部分を知りたくて、2年の間に渡って

調べあげ幾つかの新事実へ辿り着きました。

 

グラハム:この忠臣蔵の話は、歌舞伎や他で演出や脚色。

あるいは真実味のあるデマ等、真相が捻じ曲げられている?

そんな状況が起きております。

しかし、我々は現地!この事件が起きた場所へ直接おもむき。

これらの一つ一つを見て歩く事に至りました。

 

マンセル:それは、たった一つの疑問から始まりました。

ではこれから何日かかるか?全くわかりません。

現在編集していても、どれくらいの時間が必要なのか?

全くわかりませんが。

みなさんと共に、忠臣蔵の舞台を一緒に旅をしながら真実を

追求していきましょう!

 

グラハム:尺未定!行きましょう!新企画?

 

 

祝!ブログ開設10周年企画

忠臣蔵完全現地中継!リアル歴史の旅

 

 

ナレーション:黒い幕。

 

既に歌舞伎や人形浄瑠璃、あるいはNHK大河ドラマや年末

の時代劇等でも何度も何度も公演されているこの忠臣蔵。

きっかけは、どっかの劇団がやっていた。

リアル歴史〜〜〜何とかという企画・・・。

 

その中でもあちこちで、忠臣蔵に関わる場所をポイント

ポイントで訪れた訳ですが。

その場所を訪問する際、これらを1本にまとめる事は

できないだろうか?とふと思った訳ですね。

そして、それら時代劇や歌舞伎での公演を重ねる事で、

どんどんどんどん、真実の忠臣蔵から話が掛け離れる話や。

 

何よりもちょっと眉唾モノだったのが、あるお笑い芸人と

嘯く者がいまして。そいつは、何かにつけて根拠の無い自慢

話のように・・・。

 

自分の先祖が当時吉良家の隣に住んでいて?

討ち入りの最中隣家から高張りをあげて、吉良家の邸内

に明かりを灯したのは自分の先祖だという話。

そして自分はその末裔だという・・・。

 

確かに時代劇でもそのシーンはあるにせよ、本当にその

必要があったのか?あるいは実際にあったのか?

だとしたら、仮にもそれがあったとしたならば。討ち入り

に協力しました!という明白な根拠は?事実だととしたな

ら、なぜお家は断絶されずに先祖だ子孫だと名乗れる末裔

が生きてられるのか?などなど・・・。

 

国家を騒乱に陥れたにも関わらず、それに協力した?なのに

なぜ何の沙汰も下されないのか?という疑問も浮かび。

更に調査した結果、幕府は仇討ちの仇討ちはなすべからず

という命令もあったのを今回の調べて確認ができた。

 

事実近隣の大名家への報告は討ち入りが終わった後の

報告、事後報告であるという資料もある。

討ち入り前に、ここで暗殺行為やってますよ!と。赤穂浪士

達が宣伝して歩く訳もなく。

何よりも大石たちは、幕府や上杉方の援軍が到着が一番

怖い訳であって。

山鹿流陣太鼓も鳴らす訳もなく、静かに静かに潜入して作戦

を決行せねばならないのに。事前通達をする筈もなければ。

いわゆる暗殺という側面を考えれば、仰々しい感じでかつ

正々堂々と正面切って戦うという事は。本来の筋道考えた

なら誰だってそんな事しない筈なのです。

 

ある小説の中の一節、鳩巣小説(下)に記されているのが

史実だというのもありましたが。

あくまでもこれは小説の中の話であって、それと史実とは

また違うという事。

もちろんそれを否定できるだけの理由を見つける事が出来た

訳です。

 

仮にも赤穂浪士達に、何らかの討ち入り前、あるいは討ち

入り中に協力したとしても。それを公にするにはやはり

時節柄に無理があると判断できる内容。

それは他でもなく、江戸庶民の幕府への不平不満や社会

状況を考えたら。あたかもそうであったという、この武士

の討ち入りが色んな思惑を持った人々によって。

 

美談に美談の上に重ねられた話

だという事。

 

そしてそれは現代にも通じる話で。

結果、何もしてない人とか。何の芸も話術も自慢する話

も無い人が。少しでも自分っていう人間がお前等よりまと

もな血筋の持ち主なんだぞ!という自慢話をしたい奴等。

我が身血筋をより高貴に見せかけ、マウントポジションを

取った物言いで。それこそ何の縁も恨みもない相手に対し

て優位に立ってフルボッコしたいだけというものや。

他人の褌を巻いて、あたかも自分の手柄のように仕立てたい

だけ・・・。

 

というのがはっきりと見えてくる訳です。

 

討ち入りを知っている、あるいは、討ち入りがあるのでは!?

という噂を巻いて。

直接ではなく、間接的に。あるいは極一部の庶民の協力が

密かに密かに協力もあってこその成就ではないのか?

 

そうなると、いくつかの真実が全て符合してくる訳です。

 

それらを我々は、これよりあらゆる資料から拾い集め。

更に実際に事件の起きた現場へ赴き、そこから完全現地

中継して参ります!

 

(まずこちらへやってきました)

 

マンセル:一見するとこちら、普通の住宅街になってます。

 

グラハム:どこにでもありそうな?東京の下町っぽい所で

すよねぇ・・・。

 

(この交差点が大事なんです。)

 

マンセル:ここ!ここからこの忠臣蔵討ち入りの、完全

現地中継の全てのスタート地点になります。

 

グラハム:ここはどういう所なの???

 

マンセル:まさしくここは、歴史を変える大きな大きな

交差点に我々は今、立っています。

まずは一人の赤穂藩浪士をご紹介しましょう。

 

(前原伊助です)

 

元赤穂藩、前原伊助をここでこの忠臣蔵討ち入りの大事な

重要人物の一人としてご紹介してゆきましょう。

 

この前原伊助、そして、神崎与五郎の二人はここで米屋を

営んでおりました。

名前を米屋五兵衛と名乗って身分を隠して、日本橋から

ここへ越してきておりました。

 

(米屋を経営していた、前原伊助)

 

米の価格の徹底的な値下げを行い、採算度外視で米価格の

値下げを行った事で。江戸でも大評判になり、近い事もあっ

て。吉良家からも米の注文があったと言います。

そう、前の記事に書いたように。物価が上昇してインフレを

起こしている中。徹底的に米の値下げに踏み切った訳です。

ですから、江戸からの注文が殺到だったようです。

 

 

同時に前原伊助は、ここでスパイ活動をしておりました。

 

 

当然それは、吉良家への討ち入りの為。彼は徹底的に吉良家

の内情をここで屋敷内を偵察していた訳です。

前原伊助とは、表向きは米屋でありつつも。赤穂藩浪士の

007だった訳であります。

それと同時に、ここは隅田川、小松川のすぐそばです。

船を使って米を仕入れる俵の中に、討ち入りに必要な道具。

刀、弓、槍、鎖帷子、龕灯、衣装などを

ここに討ち入り47人分集め。

表向きは米屋の暖簾を下げつつも、甲子ひとつ裏には討ち入り

の武器庫となっていた訳です。

 

用いられた弓は、室内での戦闘を考慮して。半弓と呼ばれる

弓であったり。

あるいは槍やナタも肢の短いものであったりと。

携行する武器をモバイル化までしていたという訳です。

 

ここで大石内蔵助から全員に討ち入りのルールブックを

取り交わし。吉良発見時には笛を吹いて知らせる合図とする

など。厳格なルールを47人へ徹底させていった訳です。

※江赤見聞記より

(参考文献はこれよりこういう感じで表記してゆきます)

 

更には、斬り合いになった際。

相手からのダメージを受けない為に、特に下半身への防御の

為に。鉄の鎖帷子や鉄の股引、兜など。総重量10kgにも

及ぶ完全武装を施した訳であります。

 

しかもこのまだ元禄の時代の武士というのは、自分もそのま

ま忍者になれるんじゃないか?というくらい。情報収集能力

にはズバ抜けて優秀だった訳で。

それぞれ手分けして、吉良上野介の身辺や。警護体制、ある

いは行動予定や、最終的には母屋の見取り図平面図までも

手に入れ。柱の数、襖の枚数まで分かっていた訳です。

 

それがこの図面だったのです。

 

(更により詳しい平面図)

 

赤穂浪士達は、自分達のギリギリの生活の中で。それぞれ

江戸の町に潜伏し、商売他の商いや。

堀部安兵衛親子などは、吉良家の近くに剣術道場まで開いて

その刻を待った訳であります。

 

(ここからは新映像)

 

マンセル:こんにちは!こちらは何となく普通の公園にやって

きましたよ。

 

グラハム:ここの公園も実は大事な場所でして、実はここも!

赤穂浪士47人が集結して吉良家へ討ち入りする為の出撃

箇所の1つでして。実はまだもう一つあるという。

 

マンセル:赤穂浪士達は、米屋の前原伊助宅から実際には

出撃して吉良家へ乗り込んだのですが。実はここ!

 

(堀部安兵衛道場跡)

 

マンセル:実はここ、堀部安兵衛の剣術道場跡なのです。

 

グラハム:前原伊助宅がアジトとして発覚しても、他2箇所に

出撃箇所として密かに設けていた。

 

マンセル:念には念を入れて、吉良家への討ち入りの準備を

整えていた訳ですが。ここから吉良邸まで、徒歩で10分と

掛からない場所。小松川を挟んだ反対側にあります。

 

グラハム:ここから堀部親子は討ち入りスタイルに着替えて

から、前原伊助の米屋に静かに静かに向かったのだそうです。

つまり討ち入り前の行軍は、堀部親子だけだったんです。

 

(東映:忠臣蔵より・・・)

 

赤穂浪士といえば、47人が徒党を組んで。江戸の街を走っ

て吉良邸へ向かう・・・!

なんていうシーンが、割と有名に皆さんの思い描く世界に出

てくるとは思いますが・・・。

だが真実は・・・こんな事。

 

無かったんです!

 

それはなぜか?

マンセルくん、グラハムくんが現地で教えてくれますよ。

 

(はい、どーも!)

 

グラハム:忠臣蔵って言ったらねえ・・・あのシーンは

誰もが思い浮かぶシーンですよね。

 

マンセル:ところがね、そんなシーンは実際にはないんです。

だって、みんなで走って移動する必要がないんですもの。

 

 

(ここ前原伊助宅跡)

 

この看板にも書かれていない事実・・・それは。

 

(ここがどこだかわかりますか?)

 

グラハム:前原伊助さんのお宅前ですけれども???

 

マンセル:そう、ここで米屋を営んでいた前原伊助。

そして、吉良家に米の注文で出入りしていた訳だよね。

この地図を見て欲しい。

 

(赤い枠で囲ってあるのが吉良家の敷地)

 

およそ、3050坪。

サッカー場がすっぽりと収まる広大な敷地が吉良家の敷地

なのですが・・・。

 

(分かりやすくするとこんな感じ)

 

そうなんです!前原伊助は、吉良家の道ひとつ挟んだ向かい

に住んでいて。

ここで米屋を営んでいた。しかもここで、赤穂浪士47人は

ここに集結し。中で完全武装の戦闘服に着替えた訳です。

 

(つまりここは・・・)

 

マンセル:吉良家討ち入りの為の秘密基地。

 

吉良討ち入りの為に用意された、

最前線の出撃基地だったんだよ!

 

グラハム:なんという!

 

※佐藤條右衛門覚書書より

(参考文献はこれよりこういう感じで表記してゆきます)

 

(つまりこの横断歩道付近・・・)

 

ここに午前3時。この時間!

赤穂浪士47人は集結した場所なのだ!

 

(つまりこんな感じだったのです)

 

(実際のところ・・・)

 

マンセル:グラハムくん!ここはね、現在の東日本橋の

てん茂という天ぷら屋さんなんだけれどもね・・・。

実は、ここがかつては旅籠でね。大石内蔵助が討ち入り直前

までここで潜伏していた場所だったんだよ。

 

グラハム:そんな所があるんですね!びっくりだわ。

 

マンセル:で、ここからぼく達も大石内蔵助さんのように、

両国の前原伊助の米屋へ再び向かうとしようか!?

 

(皆さん見えてますか?)

 

マンセル:今は普通に民家や、マンション、ビルが立ち並んで

おりますこちらの背景!分かりますか?

 

グラハム:この道路挟んだ、お向かいさんの家々ですね。

 

(よーくこの景色を見ててください)

 

マンセル:この家々が並んでいるこの場所。これこそが、

吉良家の長屋がずらーーーーっと続いていた場所。

そのものだったのであります!

 

グラハム:じゃあ、玄関開けたら・・・。

 

マンセル:10歩で吉良家だった訳です!

 

 

 

さて、この続きは。

 

赤穂浪士討ち入り成功への鍵と謎をそれぞれ紐解いて

いきたいと思います。

 

 

さて、続いてですが。

これだけ散々書いてきた中ですが、何故に大石内蔵助始め

とした47人が討ち入りに成功したのか?

その成功の秘策というのもありますが、幾つもの謎もまた

生まれる訳で・・・。

 

今まで知られている、ドラマや大河ドラマですら表現されて

いない話。あるいは脚色された話であったり。

 

あるいは、芸人風情の話のように。あたかもそうであるよう

な根拠のない話を真実であるかのようにいい振り回す嘘、

デマの類や、他人の美談や手柄に便乗するといったものが

ある訳ですが。

この先は、それぞれの事実を覚書などから解析していこう

と思います。

 

 

マンセル:さてグラハムくん、大石内蔵助以下47人は

静かに深夜2時頃に米屋に集結した訳で。

虎の一点と言われる午前3時にここで二手に分かれて移動

する訳だよ。

 

グラハム:でもたくさんの謎もあれば、何故それが成功した

のか?っていっぱいあるよね。

 

(数々の謎をまず上げていこうか?)

 

ナレーション対応

 

まずこの討ち入りの結果から言えば、当然知っての通り。

大石内蔵助の討ち入り襲撃は成功を収める。成功どころ

か?大成功を収めるのだが。

それは、この被害の数だけを見てもお分かりだろう。

お喋りだから、答えを先に言っちゃいますが・・・。

 

赤穂浪士47人中

負傷者2名のみ

 

vs

 

屋敷内は吉良上野介と家臣が約150人

その内、死者22名

(吉良上野介含む、本所公園に合祀されている人数と

完全一致)

重軽傷24名

死者重軽傷者合計46名

 

という、圧倒的な敗北を喫する吉良家。

 

まず、数々の時代劇や他でもそうですが。

 

赤穂浪士47人は有名過ぎて誰もが知る人数ですが、では

吉良側には何人いたのか?というのは、その時代劇や芝居

等によっては、90人だったり100人だったりとあり。

更に驚く事に、真実22人(吉良本人を含む)しか亡く

なっていないにも関わらず。

劇中に出てきて斬られている人数も、30人〜50人前後

だったりと。合祀されている人数とどこも辻褄が合わない

というだけでも、十分な資料に基づいたものではないという

事もはっきりしている。

 

つまりはそれだけ、真実の忠臣蔵の出来事は数字の面からも

辻褄の合わない事もはっきりとしている訳で。

時代劇やその時々の世相や状況によって、あたかも何十人も

斬っているという演出での数字が現れていると考えられる。

ちょっと調べたら分かる事を、あたかもそれを全て鵜呑みに

するのはこれほど危険な話もないものだと・・・。

 

そういうてらいの話だからこそ、前出にあるように。

自分の先祖が討ち入りの際に高張りを掲げたという話を

真実だと吹聴するのが横行する訳であって。

これらの話もこの後にご報告できると思いますが。

もし仮に末裔だと特定できたとしても、名字が既に違う訳で

すから。直系ではないのもまた事実であって・・・。

例えば遡って行って、曽祖母の実家がそっちと繋がりがある

としても。それははっきり言えば他人の家系なのであって、

あんたの先祖って言えないような家系で直系ではない訳

ですからね。遠い親戚の従兄弟の再従兄弟姉妹も、ならば

兄弟ですか?言うようなもの・・・。

 

これははっきり言って

”嘘” だと斬り捨てていい。

 

 

なので、こう言った嘘やデマや美談の便乗を排除しつつ。

この討ち入り成功の秘策や新たに浮かぶ謎、それらを少し

ずつ調べてみたいと思います。

 

何故、赤穂浪士達はこれだけの成功が収められたのか?

いくつかの謎、原因を箇条書きにすると・・・。

 

1:長屋封鎖作戦と綿密なルール

(ある意外なものがそれを可能にした!?)

2:武家社会の身分制度

(武家社会の盲点を突いた)

3:表門部隊と裏門部隊の戦術分け

(大石内蔵助の戦術)

4:一向二裏作戦

(現在でも空軍が使用している先端戦術)

5:追い詰められた、吉良上野介の最期

(知られている時代劇とは全く違うエンディング)

6:泉岳寺までの道のり・・・

(本当は予定にない行動だった?)

 

 

まずは、米屋に集結した赤穂浪士達の動きから。

 

 

米屋の中で47人は完全武装を施し、吉良家の長屋前の道路に

集結し。表門、裏門にそれぞれ23人と24人の編成で分かれ

るのだった・・・。

※原惣右衛門覚書による

(参考文献は、この先緑で表記してゆきます)

 

それでは、赤穂浪士47士の全スターティングメンバーを

ここで紹介しましょう!

 

表門部隊

 

司令部

大石内蔵助、原惣右衛門、間瀬久大夫

 

屋内討入隊

片岡源五右衛門、富森助右衛門、武林唯七、奥田孫太夫、

矢田五郎右衛門、勝田新左衛門、吉田沢右衛門、

岡島八十右衛門、小野寺幸右衛門

 

場の内隊(屋内からの脱走者を討つ部隊)

早水藤左衛門、神崎与五郎、矢頭右衞門七、大高源五、

近松勘六、間十次郎

 

屋外隊(屋敷の外へ逃げる者を討つ部隊)

堀部弥兵衞、村松喜兵衞、岡野金右衛門、横川勘平、

貝賀弥左衛門

 

 

裏門部隊

司令部

大石主税、吉田忠左衛門、小野寺十内、間喜兵衞

 

屋内討入隊

磯貝十郎左衛、堀部安兵衞、倉橋伝助、杉野十平次、赤埴源蔵

菅谷半之丞、大石瀬左衛門、村松三太夫、三村次郎左衛門

 

屋外隊

潮田又之丞、中村勘助、奥田貞右衛門、間瀬孫九郎、

千馬三郎兵衞、茅野和助、間新六、木村岡右衛門、

不破数右衛門、前原伊助

 

寺坂吉右衛門は、裏門から邸内には入ったようだが。

どうやら?大石内蔵助の表門隊からの指示命令を、隊や裏門

の息子、大石主税への伝令ではないか?と・・・。

その彼が伝令としての役割も含めて、後世へ語り継ぐために

も彼の情報というのは後に生きてくる訳です。

 

(裏門隊は主に武闘派が集められていた)

 

吉良の寝所が近いと思われていた、吉良の裏門前には腕に

覚えのあるメンバーを中心に集められており。

もっとも激戦区を想定してたもよう。

表門から直線距離でも吉良の寝所までおよそ100m。裏門で

彼等が暴れても表門のメンバーで討ち取るという、大石の

二正面作戦が練られていた。

 

更には従来のドラマや歌舞伎などの衣装ではなく、

地味な黒い羽織を着用していた訳であります。

更には、敵味方を識別するべく付けた名前。それも

袖口に白く小さく書かれた腕章のようなものだったのです。

※寺坂信行筆記より

 

 

しかし、裏門隊は到着後直ぐに潜入する訳ではあり

ませんでした。

そして、今見えている白い壁と屋根の部分。

この長屋が、この事件の勝敗を決定づける大きなもの

なるのですが・・・またそれはおいおいで。

 

(表門、裏門で持ち場所に着きました)

 

そして、こちらが現在で言うところの。

Googleマップ、あるいはGoogleアース映像です。

 

矢印のあるここ↑に現在、マンセル、グラハムくんはおります。

 

 

そして、こちらが現在の両国。吉良邸のあったエリアを描いて

みた訳ですが。

この広大な敷地の中を、たった47人で宿敵、吉良上野介を

探し出さなければならない訳でありまして。

 

現状況では。

 

赤穂浪士   吉良家家臣

47人  vs 約150人

 

この状況のままでは・・・およそ。

1人vs3人

 

と言う圧倒的人数的に不利なこの状況を、この広大な敷地

の中とはいえ一人を見つけなければならないと言う・・・。

 

それでも大石内蔵助と赤穂浪士の大勝利は、どのようにして

達成できたのか?

 

 

ここよりいくつか記事を使って解説してまいります。